
戦国時代は九州も熱かった!耳川の戦いが3分で簡単!元塾講師がわかりやすく解説
足利義昭からの御内書
1554年から大友氏は豊前の覇権を狙う毛利氏との戦いが続いていました。当時中国地方の毛利輝元の元には織田信長との戦いに敗れ、室町幕府将軍足利義昭が亡命。足利義昭は毛利氏が信長討伐のためになかなか上洛しないのは大友氏の背後からの攻撃を警戒しているのでは、と考えていました。
足利義昭は大友氏を将軍の上洛を妨害する「六ヶ国之凶徒」と非難し、島津氏に大友氏拠点の制圧および大友氏の北九州侵攻を止めさせるよう御内書を提示します。これを受けた島津義久は御内書を大義名分として、大友氏との戦いを決意するのでした。
島津、北上する

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島津家当主島津義久は1566年父、島津貴久より家督を相続し、戦いを重ね1577年には伊東氏を破り三州を統一するほど勢力を保っていました。島津義久には島津義弘、島津歳久、島津家久 の3人の弟がいて、いずれも力のある武将でした。大友氏との戦いでも、破竹の勢い。
石城合戦との対戦で敗戦を期した島津氏でしたが、日向の伊東家とまたぶつかります。そして日向国上野城と隈城をを制圧しました。
石上合戦、再び
1578年9月、島津氏は島津征久らの軍により、再び石城を攻めることに。10日に渡る激しい攻防の後、伊東軍が講和を申し出て今度は島津軍が勝利し、伊東軍は豊後へ退却します。伊東軍は勢力争いから抜けることができず、休まる時がなかなか訪れません。
侵攻ではなく、信仰
ちょうど石城合戦のころ、大友宗麟は無鹿(牟志賀)に司祭館と教会を建設。キリシタン王国の完成に向けて宗麟の妄想、ではなく信仰心も最高潮だったのでしょう。
宣教師たちと毎日のようにオルガンを弾いてミサを行っていました。後妻のジュリアやキリシタンの家臣たちも参拝し、戦地の活躍を祈る日々が続きます。
耳川の戦い

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1578年10月、耳川以北に布陣していた大友軍は南下を再開し、島津軍が占拠していた高城を包囲。
耳川の戦いが始まります。この戦いで大友軍は鉄砲と国崩し(くにくずし)と名づけられたフランキ砲を使用しました。
国崩しはポルトガル人宣教師から火縄銃と一緒に日本で最初に輸入された大砲です。大友軍はこの大砲の使い方がよくわからなかったため、攻撃をしたものの使いこなせず高城に命中することができません。そのため、城主山田有信は難を逃れました。
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