戦国時代の九州で外すことのできない戦い、耳川の戦いです。この戦いは敵味方、まったく違う見どころがあるぞ。巧みな戦術にあっぱれだし、信仰心について考えさせられることもある。どうだ、面白そうだろ?日本史に詳しいライター織部かよこと一緒に解説していきます。

ライター/織部かよこ

大学時代から日本史が大好きな法学部卒の元塾講師。戦国武将のドラマよりダイナミックな戦いに思いを馳せる。島津四兄弟のエピソードは四人とも強い武将だなんて、こんな確率ある?とただひたすら驚きながら調べてしまう。

かつての大友、島津

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戦国時代、本州は織田信長らが台頭してきた頃。九州でも群雄割拠の時代。その中でも当時の九州は大友氏、島津氏、龍造寺氏の三大勢力が権威をふるっていましたが、しばらくの間、直接ぶつかり合うことはありませんでした。お互い干渉しあわない良好な関係を持ちながら勢力を拡大していったのです。

島津氏と伊東氏の仲裁を大友氏が行ったり、大友氏にとっては明との貿易の安全確保の手助けをしてくれる島津氏は大切な存在でした。お互いがそれぞれ同盟関係を通してフォローし合える良い関係だったのです。

キリスト教との出会い

1551年9月、日本にキリスト教を伝来したフランシスコ・ザビエルが豊後国に到着。大友宗麟はザビエルを迎え入れ、キリスト教の布教を許可します。ザビエルは2年後に帰国しますが、その後もポルトガル宣教師が度々訪れるようになりました。

宗麟は1578年48歳の時に洗礼を受け、自らもキリスト教徒に。フランシスコ・ザビエルにちなんで選んだ洗礼名はフランシスコ。そして深くキリスト教に傾倒していくことに。

波乱の幕開け

1572年、豊後と薩摩の中間に位置する日向で動きが。木崎原の戦いで日向の有力国衆である伊東義祐(いとうよしすけ)が島津氏に敗北します。日向を追われた伊東氏は姻戚関係もある大友宗麟(おおともそうりん)のいる豊後に身を寄せることに。

大友、南下を決意

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伊東氏の要望は、旧領の半分を大友氏に渡すから代わりに日向を取り戻すために力を貸してほしいというもの。宗麟はキリスト教王国の建設を夢見ていました。もしかしたら日向の国をキリシタンの楽園にすることができるかもしれない、これよしと思った大友宗麟は伊東氏擁護を名目に、日向侵攻を決意。島津氏、大友氏の同盟が終わりを告げ、九州の勢力図が変化し始めます。

石城合戦

1578年7月、大友宗麟に送り出された大友軍は二手に分かれ、国衆への調略により拡大した伊東軍と合流し、土持親成が守る懸城を制圧、耳川の北側日向北部の奪還に成功しました。

島津義久は島津忠長率いる軍を派遣し山田宗昌、長倉祐政らの伊東家家臣が守る石城を攻めます。島津軍は副将川上範久 が討ち死に、島津忠長が重症を負うなど被害が大きく敗北し、佐土原城に撤退を余儀なくされました。

石城合戦が行われていた頃、大友宗麟一行は日向国へ向かう途中でした。行路途中、宗麟は徹底したキリスト教以外の排除を行い、多くの寺社仏閣を邪教の施設とみなし、破壊を繰り返します。この行為は現地の人々や家臣の反感を買うことになりました。こうして大友宗麟は宣教師たちや妻のジュリア、家臣などと一緒に日向の無鹿(むしか)に移住します。

\次のページで「足利義昭からの御内書」を解説!/

足利義昭からの御内書

1554年から大友氏は豊前の覇権を狙う毛利氏との戦いが続いていました。当時中国地方の毛利輝元の元には織田信長との戦いに敗れ、室町幕府将軍足利義昭が亡命。足利義昭は毛利氏が信長討伐のためになかなか上洛しないのは大友氏の背後からの攻撃を警戒しているのでは、と考えていました。

足利義昭は大友氏を将軍の上洛を妨害する「六ヶ国之凶徒」と非難し、島津氏に大友氏拠点の制圧および大友氏の北九州侵攻を止めさせるよう御内書を提示します。これを受けた島津義久は御内書を大義名分として、大友氏との戦いを決意するのでした。

島津、北上する

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島津家当主島津義久は1566年父、島津貴久より家督を相続し、戦いを重ね1577年には伊東氏を破り三州を統一するほど勢力を保っていました。島津義久には島津義弘、島津歳久、島津家久 の3人の弟がいて、いずれも力のある武将でした。大友氏との戦いでも、破竹の勢い。

石城合戦との対戦で敗戦を期した島津氏でしたが、日向の伊東家とまたぶつかります。そして日向国上野城と隈城をを制圧しました。

石上合戦、再び

1578年9月、島津氏は島津征久らの軍により、再び石城を攻めることに。10日に渡る激しい攻防の後、伊東軍が講和を申し出て今度は島津軍が勝利し、伊東軍は豊後へ退却します。伊東軍は勢力争いから抜けることができず、休まる時がなかなか訪れません。

侵攻ではなく、信仰

ちょうど石城合戦のころ、大友宗麟は無鹿(牟志賀)に司祭館と教会を建設。キリシタン王国の完成に向けて宗麟の妄想、ではなく信仰心も最高潮だったのでしょう。

宣教師たちと毎日のようにオルガンを弾いてミサを行っていました。後妻のジュリアやキリシタンの家臣たちも参拝し、戦地の活躍を祈る日々が続きます。

耳川の戦い

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1578年10月、耳川以北に布陣していた大友軍は南下を再開し、島津軍が占拠していた高城を包囲。
耳川の戦いが始まります。この戦いで大友軍は鉄砲と国崩し(くにくずし)と名づけられたフランキ砲を使用しました。

国崩しはポルトガル人宣教師から火縄銃と一緒に日本で最初に輸入された大砲です。大友軍はこの大砲の使い方がよくわからなかったため、攻撃をしたものの使いこなせず高城に命中することができません。そのため、城主山田有信は難を逃れました。

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お家芸、釣り野伏

島津義久率いる島津軍は鹿児島を出発して日向まで向かいました。途中、諸将と合流し合わせると約5万ものの兵が集まることに。11月になると、島津義弘、島津征久らとも合流し、財部城に結集し、大友軍攻略のための軍議を開き、「釣り野伏」の打ち合わせをします。

釣り野伏は島津軍のお家芸といわれた戦術で、囮軍が敗走している様に見せかけ前もって隠れていた伏兵の場所まで退却し、敵と追撃してくる敵部隊をまとめて素早く包囲、撃退する戦法です。

島津軍の団結力

釣り野伏は、島津軍が松原に布陣する大友軍を攻撃するため陽動部隊と3つの伏兵部隊が小丸川南に着陣するところから始まりました。

そして陽動部隊が松原の大友軍を攻撃。この事態に気付いた大友軍が松原の陣に救援の為に駆けつけたところで、陽動部隊は敗走と見せかけて伏兵が待ち受ける地点に退却、そして島津義弘先頭の伏兵部隊は大友軍を囲んで一斉攻撃し、松原の陣に火を点けます。

燃え上がる火の中で兵士たちは大混乱。 大友軍は甚大な損害を受けました。

団結できない大友軍

松原の陣での惨状を重く考えた大友軍の大将田原親賢は、独断で島津軍に講和を申し出ます。しかし、その後の軍議では講和派と主戦派に意見が割れて翌日の戦略もまとまりません。

軍師角隈石宗は田原同様、講和した方が望ましいと主張しました。しかし主戦派の田北鎮周は交戦を主張し続けることに。佐伯宗天は当初、講和論を唱えていましたが、田北に言い返される始末。主力陣の意見はまとまらず、家臣らの士気も下がるばかりでした。

翌朝になり、無断で田北鎮周が小丸川北岸に布陣する島津軍前衛に向けて出陣。続いて佐伯宗天も田北に続き、大友軍本隊もやむを得ず島津軍と戦わなくてはならなくなりました。

釣り野伏を見破るが

島津軍の釣り野伏を予測し逆手に攻撃することにより当初戦況は大友軍優勢に進み、島津軍前衛は壊滅します。勢いに乗った大友軍は小丸川を渡り島津義久本隊を攻撃。しかし島津軍陣営に深入りする形になってしまいます。

これに対し島津軍は待ち伏せしていた島津義弘、島津歳久、伊集院忠棟らが側面から迎え討ち。続いて伏兵部隊を指揮する島津征久が自ら敵陣に突撃すると伏兵が続々と大友軍を取り囲み、高城の島津家久、根白坂の島津義久も続きました。島津征久はこの戦の一番の戦功を認められます。

大友軍、力尽きる

始めこそ大友軍に有利な展開でしたが、軍を待機させていた田原親賢は進軍するどころか撤退をはじめ、形勢は次第に島津軍に有利に。家臣は宗麟に出陣要請をしますが、宗麟は拒否します。

本陣をはじめ、次々と主力隊が命を落とし、陣が制圧されると大友軍は耳川方面へと撤退を開始。大友軍の大多数は島津軍から約25kmにも渡る追撃を受けた挙句、命を落としました。こうして耳川の合戦は島津軍の勝利に終わりました。

耳川の戦い、その後

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無鹿まで生き延びてきた大友軍の残兵は、撤退時にどれだけ苦労したか、島津軍が未だなお無鹿に迫ってきている、と赤裸々に報告しました。

大友宗麟は、激しく狼狽し、島津軍が強襲してくることを大変恐れ、無鹿を退却することに。宣教師との話し合いも満足に行うこともせず、妻と家臣を連れ、大切にしていた大砲や財宝を置いたまま退却したのですから、いかに恐怖心を持ったかわかります。

\次のページで「島津、ついに九州統一」を解説!/

島津、ついに九州統一

耳川の戦いの後、周辺勢力は大きく変化していきます。大友氏の力が弱まったことに乗じた龍造寺氏は大友領へ侵攻。大友家に従属していた秋月家などの北九州の国人衆は続々と離反。島津氏も日向を取り戻します。

島津氏はこうして敵方が減少し、薩摩、大隅に対しても力を強め、ついには三州統一。後には田畷(おきたなわて)の戦いで、かつての三大勢力のもう一つである龍造寺家も破り、島津氏は九州統一を果たします。

島津を止めるのは、大友

耳川の戦い以前、足利義昭は島津氏以外に龍造寺氏・長宗我部氏などの近隣の有力大名にも大友氏糾弾を要請する御内書を送っていたため、大友氏は島津氏以外の大名とも対立するようになりました。かつて九州で大きな勢力を持っていた大友氏は九州の覇者としての地位は昔の話に。

しかし、このままでは終わることがないのが大友宗麟のすごいところ。九州ではもう埒があかないと思ったのか中央権力を頼る方向にシフト。織田信長と良好な関係を持ち、周防・長門両国の支配権を与えられるまでに。さらには、九州領土が減少しもはや滅亡の危機になると、豊臣秀吉を頼ります。豊臣秀吉は九州征伐を決行し、島津氏は豊臣氏に敗北。 大友氏は豊臣秀吉傘下で生き延びるのでした。

九州の覇権、明暗は団結力だった

耳川の戦いの勝敗を分けたのは大友氏、島津氏それぞれの統率力の違いといえます。島津氏は島津四兄弟をはじめとした武将たちの団結力が戦を進める上での原動力となっていました。一方で大友氏は家臣間の足並みが揃わず、軍として機能しないことに。

普段自ら出陣することが少なかった島津義久が耳川の戦いでは先頭に立ったのに対し、大友宗麟は大友軍が苦戦を強いられていた時に戦地から遠く離れた地でキリスト教に興じていたところに大きな差があります。

集団の中で、仲間と協力することの大切さ、リーダーは何を求められているのか考えながら行動すること、現代社会で生きる上で参考になる要素が盛りだくさんの戦いであることに改めて気づかされました。

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日本史

戦国時代は九州も熱かった!耳川の戦いが3分で簡単!元塾講師がわかりやすく解説

戦国時代の九州で外すことのできない戦い、耳川の戦いです。この戦いは敵味方、まったく違う見どころがあるぞ。巧みな戦術にあっぱれだし、信仰心について考えさせられることもある。どうだ、面白そうだろ?日本史に詳しいライター織部かよこと一緒に解説していきます。

ライター/織部かよこ

大学時代から日本史が大好きな法学部卒の元塾講師。戦国武将のドラマよりダイナミックな戦いに思いを馳せる。島津四兄弟のエピソードは四人とも強い武将だなんて、こんな確率ある?とただひたすら驚きながら調べてしまう。

かつての大友、島津

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戦国時代、本州は織田信長らが台頭してきた頃。九州でも群雄割拠の時代。その中でも当時の九州は大友氏、島津氏、龍造寺氏の三大勢力が権威をふるっていましたが、しばらくの間、直接ぶつかり合うことはありませんでした。お互い干渉しあわない良好な関係を持ちながら勢力を拡大していったのです。

島津氏と伊東氏の仲裁を大友氏が行ったり、大友氏にとっては明との貿易の安全確保の手助けをしてくれる島津氏は大切な存在でした。お互いがそれぞれ同盟関係を通してフォローし合える良い関係だったのです。

キリスト教との出会い

1551年9月、日本にキリスト教を伝来したフランシスコ・ザビエルが豊後国に到着。大友宗麟はザビエルを迎え入れ、キリスト教の布教を許可します。ザビエルは2年後に帰国しますが、その後もポルトガル宣教師が度々訪れるようになりました。

宗麟は1578年48歳の時に洗礼を受け、自らもキリスト教徒に。フランシスコ・ザビエルにちなんで選んだ洗礼名はフランシスコ。そして深くキリスト教に傾倒していくことに。

波乱の幕開け

1572年、豊後と薩摩の中間に位置する日向で動きが。木崎原の戦いで日向の有力国衆である伊東義祐(いとうよしすけ)が島津氏に敗北します。日向を追われた伊東氏は姻戚関係もある大友宗麟(おおともそうりん)のいる豊後に身を寄せることに。

大友、南下を決意

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伊東氏の要望は、旧領の半分を大友氏に渡すから代わりに日向を取り戻すために力を貸してほしいというもの。宗麟はキリスト教王国の建設を夢見ていました。もしかしたら日向の国をキリシタンの楽園にすることができるかもしれない、これよしと思った大友宗麟は伊東氏擁護を名目に、日向侵攻を決意。島津氏、大友氏の同盟が終わりを告げ、九州の勢力図が変化し始めます。

石城合戦

1578年7月、大友宗麟に送り出された大友軍は二手に分かれ、国衆への調略により拡大した伊東軍と合流し、土持親成が守る懸城を制圧、耳川の北側日向北部の奪還に成功しました。

島津義久は島津忠長率いる軍を派遣し山田宗昌、長倉祐政らの伊東家家臣が守る石城を攻めます。島津軍は副将川上範久 が討ち死に、島津忠長が重症を負うなど被害が大きく敗北し、佐土原城に撤退を余儀なくされました。

石城合戦が行われていた頃、大友宗麟一行は日向国へ向かう途中でした。行路途中、宗麟は徹底したキリスト教以外の排除を行い、多くの寺社仏閣を邪教の施設とみなし、破壊を繰り返します。この行為は現地の人々や家臣の反感を買うことになりました。こうして大友宗麟は宣教師たちや妻のジュリア、家臣などと一緒に日向の無鹿(むしか)に移住します。

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