
戦国時代は九州も熱かった!耳川の戦いが3分で簡単!元塾講師がわかりやすく解説
ライター/織部かよこ
大学時代から日本史が大好きな法学部卒の元塾講師。戦国武将のドラマよりダイナミックな戦いに思いを馳せる。島津四兄弟のエピソードは四人とも強い武将だなんて、こんな確率ある?とただひたすら驚きながら調べてしまう。
かつての大友、島津

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戦国時代、本州は織田信長らが台頭してきた頃。九州でも群雄割拠の時代。その中でも当時の九州は大友氏、島津氏、龍造寺氏の三大勢力が権威をふるっていましたが、しばらくの間、直接ぶつかり合うことはありませんでした。お互い干渉しあわない良好な関係を持ちながら勢力を拡大していったのです。
島津氏と伊東氏の仲裁を大友氏が行ったり、大友氏にとっては明との貿易の安全確保の手助けをしてくれる島津氏は大切な存在でした。お互いがそれぞれ同盟関係を通してフォローし合える良い関係だったのです。
キリスト教との出会い
1551年9月、日本にキリスト教を伝来したフランシスコ・ザビエルが豊後国に到着。大友宗麟はザビエルを迎え入れ、キリスト教の布教を許可します。ザビエルは2年後に帰国しますが、その後もポルトガル宣教師が度々訪れるようになりました。
宗麟は1578年48歳の時に洗礼を受け、自らもキリスト教徒に。フランシスコ・ザビエルにちなんで選んだ洗礼名はフランシスコ。そして深くキリスト教に傾倒していくことに。
波乱の幕開け
1572年、豊後と薩摩の中間に位置する日向で動きが。木崎原の戦いで日向の有力国衆である伊東義祐(いとうよしすけ)が島津氏に敗北します。日向を追われた伊東氏は姻戚関係もある大友宗麟(おおともそうりん)のいる豊後に身を寄せることに。
大友、南下を決意

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伊東氏の要望は、旧領の半分を大友氏に渡すから代わりに日向を取り戻すために力を貸してほしいというもの。宗麟はキリスト教王国の建設を夢見ていました。もしかしたら日向の国をキリシタンの楽園にすることができるかもしれない、これよしと思った大友宗麟は伊東氏擁護を名目に、日向侵攻を決意。島津氏、大友氏の同盟が終わりを告げ、九州の勢力図が変化し始めます。
石城合戦
1578年7月、大友宗麟に送り出された大友軍は二手に分かれ、国衆への調略により拡大した伊東軍と合流し、土持親成が守る懸城を制圧、耳川の北側日向北部の奪還に成功しました。
島津義久は島津忠長率いる軍を派遣し山田宗昌、長倉祐政らの伊東家家臣が守る石城を攻めます。島津軍は副将川上範久 が討ち死に、島津忠長が重症を負うなど被害が大きく敗北し、佐土原城に撤退を余儀なくされました。
石城合戦が行われていた頃、大友宗麟一行は日向国へ向かう途中でした。行路途中、宗麟は徹底したキリスト教以外の排除を行い、多くの寺社仏閣を邪教の施設とみなし、破壊を繰り返します。この行為は現地の人々や家臣の反感を買うことになりました。こうして大友宗麟は宣教師たちや妻のジュリア、家臣などと一緒に日向の無鹿(むしか)に移住します。
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