大正期に広がった大正デモクラシーから普通選挙法や政党内閣などが生まれた。この中で憲政の常道と呼ばれる時期があったことは耳にしたことがあるか。
今回は「憲政の常道」についてその政治的背景や深い言葉の意味を現役講師ライター明東碧吾と一緒にわかりやすく解説していきます。

ライター/明東碧吾

現役で塾の文系講師を務め、社会科の指導は生徒から好評を受けている。豊富な社会科の知識を中心に楽しく、面白い授業を展開している。

憲政の常道は実はスローガン?

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憲政の常道は大正から昭和にかけて行われた政治の慣例のことを指します。しかし、この言葉が誕生したのは第一次護憲運動になるのです。しかも第一次護憲運動中は一つのスローガンとして掲げられた言葉でした。どのような意味合いになるのかを詳しく見ていきましょう。

憲政の常道が生まれたのは第一次護憲運動!

憲政の常道はもともと、イギリス流の議会政治を目指すために用いられた言葉になります。第一次護憲運動(1912〜13年)では「憲政擁護・閥族打破」というスローガンを掲げていたことは有名ですね。ただ、この運動の中で、当時の内閣の考え方に反対するために主張されたのが「憲政の常道」だったのです。第一次護憲運動では藩閥内閣として発足した第三次桂内閣を反対し、倒閣させようとします。実際に第三次桂内閣は53日で総辞職し、貴族院を中心とする清浦奎吾内閣がその後に成立しました。つまり、政党政治実現のための動きが少し実現したのです。ただ、貴族院は政党から選出された議員が多いというわけではないことから、本当の政党内閣の実現は達成されませんでした。そうしたことで憲政の常道も一つのスローガンとなってしまったのです。

憲政の常道と呼ばれるのはいつ?

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Mochizuki, Kotaro - Japan to-day; a souvenir of the Anglo-Japanese exhibition held in London 1910 https://archive.org/details/japantodaysouven00mochrich/, パブリック・ドメイン, リンクによる

憲政の常道とは「立憲政友会」「立憲民政党」のうち、衆議院で多数を占める政党の総裁が交互に政権を担当する政治パターンのことをいいます。つまり、第二次護憲運動後に成立した加藤高明内閣から政党政治の終わりとなる五・一五事件の犬養毅内閣までがその期間となるのです。もっとまとめると政党内閣の時代=憲政の常道となります。

つまり、普通選挙で当選した議員が集結する衆議院で多数を占める政党が政権を担当する政党政治を行う。今の政党政治に似ていますね。現在の政治のもとになる状況がこの時代に完成していたということになります。憲政の常道が確立することで、政党政治を展開できたのです。

憲政の常道は普通選挙運動がきっかけ?

憲政の常道についての意味は少しわかってきたかと思います。では、どのような背景で憲政の常道が完成したのでしょうか。それは第一次護憲運動で達成できなかった普通選挙実現のための運動に大きく影響します。この普通選挙運動が貴族院を中心とする内閣に対する反対運動につながり、第二次護憲運動を展開するようになりました。では、第二次護憲運動にクローズアップしていきましょう。

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第二次護憲運動が決め手!

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不明 - この画像は国立国会図書館ウェブサイトから入手できます。, パブリック・ドメイン, リンクによる

第二次護憲運動は1923年に発生した関東大震災の社会不安からくる政治不信と普通選挙実施による政治の刷新が求められたことが背景となっています。その中で、貴族院から閣僚を選んだ清浦奎吾内閣に反発する動きが第二次護憲運動です。この第二次護憲運動では「普選断行」「政党政治」がスローガンに掲げられました。

この普通選挙実現と政党内閣を目指す動きが第二次護憲運動後達成されることで、憲政の常道が誕生します。第二次護憲運動がなければ憲政の常道にならなかったともいえるのです。

護憲三派が主役の憲政の常道!

普通選挙を求める声に押され、立憲政友会の高橋是清憲政会の加藤高明革新倶楽部の犬養毅が手を組んで第二次護憲運動を展開させました。これら三つの政党を「護憲三派」といいます。護憲三派の政党は共同して清浦奎吾内閣に内閣不信任案を提出し、清浦内閣は議会を解散しました。

その後の衆議院選挙では護憲三派が圧倒的な勝利を見せました。特に票を集めたのが加藤高明の憲政会です。そうしたことから、第二次護憲運動後に加藤高明が内閣総理大臣に就任しました。

1925年に加藤高明内閣は普通選挙法を成立させ、満25歳以上の全ての男子に選挙権を与えました。同時に無政府主義者や社会主義者などのクーデターにつながる考えの持ち主の活動の活発化を危惧したため治安維持法も定められ、反政府運動の取り締まりも強化されたのです。

その後護憲三派の憲政会は政友本党と合流して立憲民政党になります。また、立憲政友会は革新倶楽部と合同したことで、憲政の常道を形成する二つの政党が誕生したのです。

憲政の常道になった日本。でも世の中はかなりは大変だった?

普通選挙運動で政党内閣の時代が始まりましたが、国内・国外ともに激動の時代に政情が安定しない状況になります。1929年の世界恐慌が代表するように突然の不景気である恐慌が日本では度重なるという経済危機的な状況になっていました。これらの恐慌と憲政の常道による政治がどのように変動したのかに着目してみましょう。

恐慌の始まり?大戦で潤う日本経済!

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Underwood & Underwood. (US War Dept.) - http://www.dodmedia.osd.mil/DVIC_View/Still_Details.cfm?SDAN=HDSN9902296&JPGPath=/Assets/Still/1999/DoD/HD-SN-99-02296.JPG., パブリック・ドメイン, リンクによる

まず、恐慌の始まりは1914年に始まった第一次世界大戦にあります。ここで「あれ?」と思われた方は第一次世界大戦を詳しく知られていますね。主戦場がヨーロッパだったため、日本はヨーロッパに向けて輸出が増えました。いわゆる大戦景気です。この時期に大金持ちになった「成金」も有名ですね。

しかし、1918年に第一次世界大戦が終結することで大戦景気が終わると同時に恐慌の始まりを迎えるのです。

恐慌続きで経済が大変!その1【戦後恐慌〜震災恐慌】

第一次世界大戦が終結するとヨーロッパの生産が回復し始めました。第一次世界大戦向けに日本企業が作っていた物資が大量に余ります。大量の在庫となって抱えてしまったため、不景気になってしまいました。この不景気が戦後恐慌です。

さらにこの恐慌に追い打ちをかけたのが、1923年の関東大震災による震災恐慌でした。震災で経営が悪化した企業が「震災手形」と呼ばれるお金が準備できない不渡りの手形を作ってしまいます。つまり、各銀行が大量の企業の貸しを引き受けたまま、お金が戻ってこない状態になったのです。

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恐慌続きで経済が大変!その2【金融恐慌】

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不明 - 毎日新聞社「昭和史第5巻 昭和の幕開く」より。, パブリック・ドメイン, リンクによる

震災恐慌の最中、当時の大蔵大臣(現在の財務大臣のこと)である片岡直温が衆議院の予算委員会で経営状況の悪い状況の銀行を暴露してしまいます。この発言を聞いた預金者たちは自分の預金だけをおろしたいと銀行に殺到してしまったのです。この騒ぎが「取り付け騒ぎ」といいます。各地の銀行にこの騒ぎが飛び火してしまい、多くの銀行が破産や休業に追い込まれました。この経済状態の悪化を「金融恐慌」といいます。

恐慌続きで経済が大変!その3【世界恐慌〜昭和恐慌】

取り付け騒ぎをモラトリアム(支払猶予令)で無理やり押さえ込み、何とか金融恐慌を脱しました。しかし、1929年にアメリカのニューヨークで突然株価が大暴落する世界恐慌が起きました。日本は度重なる恐慌の出口として金輸出解禁で貿易を盛んにしようとしていましたが、逆に世界の物価が下落したため、輸入が増加して金が流出してしまいます。この金輸出解禁によって、日本国内の金回りが悪くなり、最悪の不景気である「昭和恐慌」が起きたのです。

憲政の常道の危機?浜口雄幸首相撃たれる!

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三人日 - 投稿者自身による作品, CC 表示-継承 4.0, リンクによる

昭和恐慌がおさまらない中、協調外交を取ろうとした内閣総理大臣の浜口雄幸は1930年にロンドン海軍軍縮会議にて海軍の了承なしに軍縮条約に調印してしまいます。このことが天皇が兵を率いている権利を犯している(統帥権干犯問題)といい、東京駅で狙撃される事件が起きました。この事件で立憲民政党の浜口内閣が倒れ、同じ党の若槻礼次郎が内閣総理大臣になります。

戦争に向かう日本。憲政の常道の弱点が軍部の動きを加速する!

立憲民政党の協調外交と昭和恐慌の収束が見えないことから、今度は立憲政友会の犬養毅が内閣総理大臣になりました。犬養毅は昭和恐慌を収めるために金輸出の再禁止を行います。これで、紙幣の増刷が可能になり、世の中に出回るお金の量を増やしました。この動きが日本円の相場を暴落させることになりましたが、日本製品が半値近くまで下がったことにより、輸出が急増することになり、恐慌からの出口が見えてきました。

こうした激動の政治展開に不満が高まり、軍部の青年将校たちは「国家改造運動」を起こすようになりました。つまり、軍部が強くなり、戦争への道を歩み始めるのです。

憲政の常道の終わりは政党内閣の終わり?

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関東軍関係者? - 太平洋戦争研究会編『満州帝国』河出書房新社、1996年、59頁より転載, パブリック・ドメイン, リンクによる

政党内閣の時代が始まることで生まれた憲政の常道ですが、政治とお金の問題が見えてきました。恐慌のせいで不景気なのに政府はお金儲けばかり考えているとい不満が高まります。また、協調外交と国際情勢に対話を図ろうとしていた立憲民政党のやり方に対して、軍部が1932年に柳条湖事件から始まる「満州事変」を起こしました。そうしたことから、憲政の常道で確立した政党政治の体制が崩壊の危機に瀕してきます。では、実際にどのように終わったのかを詳しくみていきましょう。

憲政の常道の終焉その1【血盟団事件】

昭和恐慌を収束させた犬養毅内閣ですが、世論は憲政の常道による政策の変動などで政党政治への不満が高まってきました。その中で、テロリズムを訴えて国家改造を図ろうとするものが出てきました。

1932年2月に「一人一殺」を訴える血盟団という結社が立憲政友会の重鎮でもあった井上準之助前大蔵大臣三井合名会社理事長の團琢磨(だんたくま)を暗殺する事件を起こしました。いわゆる、血盟団事件です。ここからテロリズムと軍部がつながっていきます。

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憲政の常道の終焉その2【五・一五事件】

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Osaka Asahi Shimbun - http://www.city-okayama.ed.jp/~kibic/inukaitsuyoshi.htm, パブリック・ドメイン, リンクによる

血盟団事件は結社の中心になった人物や実行犯が逮捕され、収束したように見えました。しかし、結社の残党と海軍の青年将校や陸軍士官学校の本科生などが結びつき、軍閥政府への国家改造を目指すために動き出しました。

1932年5月15日に海軍の青年将校たちは首相官邸を襲撃します。有名な五・一五事件です。襲撃を受けた内閣総理大臣の犬養毅は襲撃の中心人物であった者を客間に誘導し、話をしようとします。しかし、将校たちが「問答無用」と叫び、銃撃されてしまいました。

犬養毅が暗殺されたことで、海軍大将の斎藤実が次の内閣総理大臣に指名され、挙国一致内閣を組織します。ここから内閣では軍の意向が強く反映されることになりました。

また、斎藤実内閣が成立したことで、加藤高明からはじまった政党内閣と第一党の総裁が内閣を組織する憲政の常道はわずか8年間という短い期間で終了してしまったのです。

実は終わりではなかった憲政の常道!

1932年の五・一五事件によって終わった憲政の常道ですが、第二次世界大戦後でも一時的に続いていました。また、今でも「憲政の常道」という言葉は使われることがあります。戦後の憲政の常道について見ていきましょう。

戦後も続いてた憲政の常道!

憲政の常道は五・一五事件で終了しました。しかし、戦後の日本では憲政の常道の慣習を守ろうとする風潮もありました。もともと、憲政の常道とは議会での第一党が政権を担当するべきという考えのもと内閣を組織することを指します。

戦後の混乱期でまだ日本国憲法が施行されていないときには憲政の常道を守るということで、首相に指名されても断るといったこともありました。また、1954年の日本国憲法下の状況でも吉田茂内閣退陣後に野党の第一党になった民主党の鳩山一郎が内閣総理大臣になりました。ただ、発足一ヶ月程度で解散しています。

ただ、戦後は55年体制の成立で、自由民主党が政権をになってきたため、憲政の常道の慣例は薄れていきました

今でも使うの憲政の常道?

現在でも憲政の常道という言葉を耳にすることがあります。ただ、あまりいい意味では使われていません。現在では野党が与党の内閣総理大臣職をたらい回しにすることを批判するために使用される言葉となっています。

2008年に福田康夫内閣が総辞職をした際に民主党の小沢一郎代表が主張した言葉の中にも憲政の常道という言葉を使用していました。現在では慣例としてではなく、批判するための言葉としても使用するようになっています。

 

政党政治の源流は憲政の常道!

憲政の常道は日本の政党政治の基本ができた大切な期間だったといえます。しかし、政治のあり方が未熟であったことと経済的な不安や国際情勢の変化が大きかったため、8年という短い期間で終わってしまいました。しかし、この期間での政治が今の政党政治にも活かされています。つまり、憲政の常道を知ることで現代社会の政党政治を考えることができるのです。

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大正昭和現代社会

憲政の常道とは?スローガン?政治ルール?現役講師が深いところまで優しくわかりやすく解説!

大正期に広がった大正デモクラシーから普通選挙法や政党内閣などが生まれた。この中で憲政の常道と呼ばれる時期があったことは耳にしたことがあるか。
今回は「憲政の常道」についてその政治的背景や深い言葉の意味を現役講師ライター明東碧吾と一緒にわかりやすく解説していきます。

ライター/明東碧吾

現役で塾の文系講師を務め、社会科の指導は生徒から好評を受けている。豊富な社会科の知識を中心に楽しく、面白い授業を展開している。

憲政の常道は実はスローガン?

image by iStockphoto

憲政の常道は大正から昭和にかけて行われた政治の慣例のことを指します。しかし、この言葉が誕生したのは第一次護憲運動になるのです。しかも第一次護憲運動中は一つのスローガンとして掲げられた言葉でした。どのような意味合いになるのかを詳しく見ていきましょう。

憲政の常道が生まれたのは第一次護憲運動!

憲政の常道はもともと、イギリス流の議会政治を目指すために用いられた言葉になります。第一次護憲運動(1912〜13年)では「憲政擁護・閥族打破」というスローガンを掲げていたことは有名ですね。ただ、この運動の中で、当時の内閣の考え方に反対するために主張されたのが「憲政の常道」だったのです。第一次護憲運動では藩閥内閣として発足した第三次桂内閣を反対し、倒閣させようとします。実際に第三次桂内閣は53日で総辞職し、貴族院を中心とする清浦奎吾内閣がその後に成立しました。つまり、政党政治実現のための動きが少し実現したのです。ただ、貴族院は政党から選出された議員が多いというわけではないことから、本当の政党内閣の実現は達成されませんでした。そうしたことで憲政の常道も一つのスローガンとなってしまったのです。

憲政の常道と呼ばれるのはいつ?

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Mochizuki, Kotaro – Japan to-day; a souvenir of the Anglo-Japanese exhibition held in London 1910 https://archive.org/details/japantodaysouven00mochrich/, パブリック・ドメイン, リンクによる

憲政の常道とは「立憲政友会」「立憲民政党」のうち、衆議院で多数を占める政党の総裁が交互に政権を担当する政治パターンのことをいいます。つまり、第二次護憲運動後に成立した加藤高明内閣から政党政治の終わりとなる五・一五事件の犬養毅内閣までがその期間となるのです。もっとまとめると政党内閣の時代=憲政の常道となります。

つまり、普通選挙で当選した議員が集結する衆議院で多数を占める政党が政権を担当する政党政治を行う。今の政党政治に似ていますね。現在の政治のもとになる状況がこの時代に完成していたということになります。憲政の常道が確立することで、政党政治を展開できたのです。

憲政の常道は普通選挙運動がきっかけ?

憲政の常道についての意味は少しわかってきたかと思います。では、どのような背景で憲政の常道が完成したのでしょうか。それは第一次護憲運動で達成できなかった普通選挙実現のための運動に大きく影響します。この普通選挙運動が貴族院を中心とする内閣に対する反対運動につながり、第二次護憲運動を展開するようになりました。では、第二次護憲運動にクローズアップしていきましょう。

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