今回は「憲政の常道」についてその政治的背景や深い言葉の意味を現役講師ライター明東碧吾と一緒にわかりやすく解説していきます。
- 憲政の常道は実はスローガン?
- 憲政の常道が生まれたのは第一次護憲運動!
- 憲政の常道と呼ばれるのはいつ?
- 憲政の常道は普通選挙運動がきっかけ?
- 第二次護憲運動が決め手!
- 護憲三派が主役の憲政の常道!
- 憲政の常道になった日本。でも世の中はかなりは大変だった?
- 恐慌の始まり?大戦で潤う日本経済!
- 恐慌続きで経済が大変!その1【戦後恐慌〜震災恐慌】
- 恐慌続きで経済が大変!その2【金融恐慌】
- 恐慌続きで経済が大変!その3【世界恐慌〜昭和恐慌】
- 憲政の常道の危機?浜口雄幸首相撃たれる!
- 戦争に向かう日本。憲政の常道の弱点が軍部の動きを加速する!
- 憲政の常道の終わりは政党内閣の終わり?
- 憲政の常道の終焉その1【血盟団事件】
- 憲政の常道の終焉その2【五・一五事件】
- 実は終わりではなかった憲政の常道!
- 戦後も続いてた憲政の常道!
- 今でも使うの憲政の常道?
- 政党政治の源流は憲政の常道!
この記事の目次
ライター/明東碧吾
現役で塾の文系講師を務め、社会科の指導は生徒から好評を受けている。豊富な社会科の知識を中心に楽しく、面白い授業を展開している。
憲政の常道は実はスローガン?
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憲政の常道は大正から昭和にかけて行われた政治の慣例のことを指します。しかし、この言葉が誕生したのは第一次護憲運動になるのです。しかも第一次護憲運動中は一つのスローガンとして掲げられた言葉でした。どのような意味合いになるのかを詳しく見ていきましょう。
憲政の常道が生まれたのは第一次護憲運動!
憲政の常道はもともと、イギリス流の議会政治を目指すために用いられた言葉になります。第一次護憲運動(1912〜13年)では「憲政擁護・閥族打破」というスローガンを掲げていたことは有名ですね。ただ、この運動の中で、当時の内閣の考え方に反対するために主張されたのが「憲政の常道」だったのです。第一次護憲運動では藩閥内閣として発足した第三次桂内閣を反対し、倒閣させようとします。実際に第三次桂内閣は53日で総辞職し、貴族院を中心とする清浦奎吾内閣がその後に成立しました。つまり、政党政治実現のための動きが少し実現したのです。ただ、貴族院は政党から選出された議員が多いというわけではないことから、本当の政党内閣の実現は達成されませんでした。そうしたことで憲政の常道も一つのスローガンとなってしまったのです。
憲政の常道と呼ばれるのはいつ?
Mochizuki, Kotaro – Japan to-day; a souvenir of the Anglo-Japanese exhibition held in London 1910 https://archive.org/details/japantodaysouven00mochrich/, パブリック・ドメイン, リンクによる
憲政の常道とは「立憲政友会」と「立憲民政党」のうち、衆議院で多数を占める政党の総裁が交互に政権を担当する政治パターンのことをいいます。つまり、第二次護憲運動後に成立した加藤高明内閣から政党政治の終わりとなる五・一五事件の犬養毅内閣までがその期間となるのです。もっとまとめると政党内閣の時代=憲政の常道となります。
つまり、普通選挙で当選した議員が集結する衆議院で多数を占める政党が政権を担当する政党政治を行う。今の政党政治に似ていますね。現在の政治のもとになる状況がこの時代に完成していたということになります。憲政の常道が確立することで、政党政治を展開できたのです。
憲政の常道は普通選挙運動がきっかけ?
憲政の常道についての意味は少しわかってきたかと思います。では、どのような背景で憲政の常道が完成したのでしょうか。それは第一次護憲運動で達成できなかった普通選挙実現のための運動に大きく影響します。この普通選挙運動が貴族院を中心とする内閣に対する反対運動につながり、第二次護憲運動を展開するようになりました。では、第二次護憲運動にクローズアップしていきましょう。
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