江戸時代までは未発達だった日本の医学は、明治以降に欧米の医療技術を導入することで発展を遂げた、と思っていないか? 江戸時代の日本の医療も実はレベルが高く、世界で初めて全身麻酔を成功させたのも江戸時代の日本人だったんです。
この記事では全身麻酔を成功させた日本人医師、華岡青洲という人物について元米国科学教師チロと一緒に解説して行くぞ。
チロ

ライター/チロ

放射能調査員や電気工事士など様々な「科学」に関係する職を経験したのち、教員の道へ。理科教員10年を契機に米国へ留学、卒業後は現地の高校でも科学教師として勤務した。帰国後は「フシギ」を愛するフリーランスティーチャー/サイエンスライターとして活躍中。

華岡青洲ってどんな人?

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Hanaoka Seishu - http://ceb.nlm.nih.gov/proj/ttp/hanaokagallery.html, パブリック・ドメイン, リンクによる

華岡青洲は江戸時代中期〜後期に活躍した医師です。1760年に紀州藩(現在の和歌山県)の漢方医の息子として生まれた青洲は小さな頃より父から医学の基礎を学び、20代には京の都で伝統的な東洋医学と最新の西洋医学を学びました。

当時の医療は漢方薬の処方による内科治療が中心だったのですが、青洲は外科治療を積極的に導入し多くの患者の命を救ったのです。また青洲は彼を慕って集まってきた多くの若者のために「春林軒」という私塾を設立し医術を伝授したため、医療教育の先駆者とも言われています。

日本の医学を変えた青州の業績

江戸時代を代表する医師、華岡青洲にはその後の日本における医療のあり方を大きく変えた数多くの業績があります。いったいどのような業績なのでしょうか?

全身麻酔を世界で初めて成功させた

image by iStockphoto

青洲の業績の中で最も特筆すべきなのは、前述の通り全身麻酔の実施です。西洋医学に基づく外科治療を学んだ青洲ですが、麻酔の技術がないことが手術実行の大きな妨げになっていました。たしかに麻酔なしで体を切られるなんて、絶対にいやですよね?

そこで青洲は中国古代の文献に着目しました。あの有名な歴史書「三国志」に華佗(かだ)という医師が麻沸散という粉末薬で患者の意識を失わせ、その間に手術をしたという記述があったのです。しかし1000年以上前のことなので真偽は不明であり、麻沸散がどのような成分だったのかも分かりません。しかし病気で苦しむ人々を手術で救いたいと考えた青洲は、なんと20年近くもの研究の末「通仙散」という麻酔薬を完成させ、全身麻酔による乳がんの切除手術を成功させました。アメリカでジエチルエーテルを用いた麻酔手術が成功する40年以上も前の、1804年のことでした。

現代医学の世界で「業績」と認められるためには英文による論文発表が必要なため、世界的に初の全身麻酔として知られているのはこのアメリカの事例。しかし日本麻酔科学会は青洲の偉業を讃えるため、彼が通仙散の主原料として用いたチョウセンアサガオを会のロゴマークのモチーフにしています。

東洋医学と西洋医学を融合させた

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青洲が全身麻酔を実現できたのは先入観にとらわれず、東洋医学の知識と西洋医学の技術を見事に融合させたから。当時の医療といえば、古代中国から連綿と続く漢方医学。事実、青洲が京で最初に身につけたのも「古方派」という古典の教えを忠実に守る漢方医学でした。

しかし、当時はオランダから輸入された西洋医学が徐々に日本へ浸透し始めた時期。杉田玄白がオランダ語の医学書を翻訳し「解体新書」を敢行したのもちょうどこの頃です。当時は古来の漢方医学の医師と、西洋医学に基づいて治療を行う蘭方医は明確に区別されていたのですが、青洲は漢方医を生業とする家系にも関わらず、積極的に西洋医学も学び自身の医術の中に取り入れていきます。

薬品の化学合成が難しかった19世紀初頭。西洋医学の外科手術を実現するために、麻酔効果をもつ漢方薬を調合するという境界を超えた青洲の柔軟な姿勢がなければ、世界初の全身麻酔を用いた外科手術は成功しなかったでしょう。

現在でも使われている薬をつくった

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明治以降、それまで主流だった漢方医学は非科学的なものとされ西洋医学が日本における医学の正統とされました。しかし天然で発見される化学物質の医学への応用が進むにつれ、生薬を用いる漢方薬の効果も次第に見直され、1976年からは健康保険も適用されるようになっています。

実は青洲、現在も日本で処方されている漢方薬の考案者でもあるんです。そのうちのいくつかをご紹介しましょう。「十味敗毒湯(じゅうみはいどくとう)」は、皮膚疾患や湿疹、水虫等に効果があるとされる飲み薬。「中黄膏(ちゅうおうこう)」は、やけどやすり傷、痔にも効果のある軟膏。「紫雲膏(しうんこう)」はやけどや痔に効く軟膏です。

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青州を支えた家族ってどんな人

青洲の偉業は一人で成し遂げたものではなく、周囲の人たちの支えがあり初めて可能だったと言われています。中でも重要な役割を果たしたのは彼の周囲の女性たち。一体どのように関わったのでしょう?

妹・於勝(おかつ)

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父の元で医学を学んでいた青洲は22歳の時、医学の勉強のため京の都に行くことを決めます。しかし決して裕福ではなかった華岡家に青洲を京に送り出すお金はありませんでした。しかし妹の於勝が「私が機織りをして稼ぐお金でお兄ちゃんを京に送って」と懇願し、青洲の遊学の夢が叶ったのです。

於勝は結婚することもなく日々せっせと機織りを行い青洲を支えたのですが、なんと31歳の時に乳がんで亡くなってしまいます。青洲が乳がんの治療に心血を注いだのは、医師なのに於勝を助けられなかった悔しい気持ちがあったからではないでしょうか。

母・於継(おつぎ)

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青洲が開発した全身麻酔薬「通仙散」の主成分は毒をもつチョウセンアサガオ。さらに猛毒のトリカブトまで含まれていたので、分量を間違えるわけにはいきませんでした。青洲は動物実験を繰り返し安全な分量を確かめていったのですが、実際に患者に投与する前には人体実験が欠かせません。しかし一体誰にお願いしたらいいのか…。そう頭を悩ませていたとき、人体実験へ名乗りを上げた人物がいました。青洲の母・於継と妻・加恵です。

失敗を恐れ、一旦は申し出を拒んだ青洲ですが二人の熱意に負け最終的に母と妻に通仙散を処方します。於継は半日意識を失った後、無事回復。世界で初めて全身麻酔をかけられた人物となりました。

妻・加恵(かえ)

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しかし青洲の人体実験の対象となった人物として最も有名なのは妻・加恵でしょう。加恵は麻酔薬投与後、なんと3日間も意識を失い続けました。なんとか意識を回復し通仙散の効果は確認できたものの、その代償として加恵は両目の視力を失ってしまいます。

美談として語られることの多いこの逸話ですが、「妻を夫の所有物とみなす男尊女卑的行為」だとして非難されることもあるようです。しかし貧乏な町医者に過ぎなかった当時の華岡家は、紀伊の名家である加恵の実家より力関係が完全に下。青洲が加恵に気を使わなくてはいけない立場だったことを考えると、青洲が嫌がる妻に無理やり麻酔薬を飲ませたというのは、考えられないそうです。

子孫もお医者さん?

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代々医師の家系であった華岡家。青洲の子孫も代々医療に携わってきたようです。現在子孫の方々は東京都で歯科医師をされていたり、札幌で青洲の名を冠した病院を運営されているなど人々の健康を守るため医学の分野で活躍されています。

\次のページで「華岡青州は江戸時代のブラックジャック!」を解説!/

華岡青州は江戸時代のブラックジャック!

対症療法が主流だった江戸時代。紀州の片田舎に突如現れた鬼才、華岡青洲が世間に与えた衝撃は計り知れません。東洋医学と西洋医学を駆使して他の医師が匙を投げた患者を次々に治療していく様は、まるで手塚治虫氏の漫画「ブラックジャック」のようだったに違いありません。しかしブラックジャックとの一番の違いは、青洲は高額な報酬を求めなかったこと。一般患者の診療に一生を捧げたと言われています。

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江戸時代理科生物

世界で初めて全身麻酔を行なった華岡青洲ってどんな人?妻が人体実験で失明したって本当?元米国科学教師チロが詳しくわかりやすく解説!


江戸時代までは未発達だった日本の医学は、明治以降に欧米の医療技術を導入することで発展を遂げた、と思っていないか? 江戸時代の日本の医療も実はレベルが高く、世界で初めて全身麻酔を成功させたのも江戸時代の日本人だったんです。
この記事では全身麻酔を成功させた日本人医師、華岡青洲という人物について元米国科学教師チロと一緒に解説して行くぞ。
チロ

ライター/チロ

放射能調査員や電気工事士など様々な「科学」に関係する職を経験したのち、教員の道へ。理科教員10年を契機に米国へ留学、卒業後は現地の高校でも科学教師として勤務した。帰国後は「フシギ」を愛するフリーランスティーチャー/サイエンスライターとして活躍中。

華岡青洲ってどんな人?

Image from
Hanaoka Seishu – http://ceb.nlm.nih.gov/proj/ttp/hanaokagallery.html, パブリック・ドメイン, リンクによる

華岡青洲は江戸時代中期〜後期に活躍した医師です。1760年に紀州藩(現在の和歌山県)の漢方医の息子として生まれた青洲は小さな頃より父から医学の基礎を学び、20代には京の都で伝統的な東洋医学と最新の西洋医学を学びました。

当時の医療は漢方薬の処方による内科治療が中心だったのですが、青洲は外科治療を積極的に導入し多くの患者の命を救ったのです。また青洲は彼を慕って集まってきた多くの若者のために「春林軒」という私塾を設立し医術を伝授したため、医療教育の先駆者とも言われています。

日本の医学を変えた青州の業績

江戸時代を代表する医師、華岡青洲にはその後の日本における医療のあり方を大きく変えた数多くの業績があります。いったいどのような業績なのでしょうか?

全身麻酔を世界で初めて成功させた

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青洲の業績の中で最も特筆すべきなのは、前述の通り全身麻酔の実施です。西洋医学に基づく外科治療を学んだ青洲ですが、麻酔の技術がないことが手術実行の大きな妨げになっていました。たしかに麻酔なしで体を切られるなんて、絶対にいやですよね?

そこで青洲は中国古代の文献に着目しました。あの有名な歴史書「三国志」に華佗(かだ)という医師が麻沸散という粉末薬で患者の意識を失わせ、その間に手術をしたという記述があったのです。しかし1000年以上前のことなので真偽は不明であり、麻沸散がどのような成分だったのかも分かりません。しかし病気で苦しむ人々を手術で救いたいと考えた青洲は、なんと20年近くもの研究の末「通仙散」という麻酔薬を完成させ、全身麻酔による乳がんの切除手術を成功させました。アメリカでジエチルエーテルを用いた麻酔手術が成功する40年以上も前の、1804年のことでした。

現代医学の世界で「業績」と認められるためには英文による論文発表が必要なため、世界的に初の全身麻酔として知られているのはこのアメリカの事例。しかし日本麻酔科学会は青洲の偉業を讃えるため、彼が通仙散の主原料として用いたチョウセンアサガオを会のロゴマークのモチーフにしています。

東洋医学と西洋医学を融合させた

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青洲が全身麻酔を実現できたのは先入観にとらわれず、東洋医学の知識と西洋医学の技術を見事に融合させたから。当時の医療といえば、古代中国から連綿と続く漢方医学。事実、青洲が京で最初に身につけたのも「古方派」という古典の教えを忠実に守る漢方医学でした。

しかし、当時はオランダから輸入された西洋医学が徐々に日本へ浸透し始めた時期。杉田玄白がオランダ語の医学書を翻訳し「解体新書」を敢行したのもちょうどこの頃です。当時は古来の漢方医学の医師と、西洋医学に基づいて治療を行う蘭方医は明確に区別されていたのですが、青洲は漢方医を生業とする家系にも関わらず、積極的に西洋医学も学び自身の医術の中に取り入れていきます。

薬品の化学合成が難しかった19世紀初頭。西洋医学の外科手術を実現するために、麻酔効果をもつ漢方薬を調合するという境界を超えた青洲の柔軟な姿勢がなければ、世界初の全身麻酔を用いた外科手術は成功しなかったでしょう。

現在でも使われている薬をつくった

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明治以降、それまで主流だった漢方医学は非科学的なものとされ西洋医学が日本における医学の正統とされました。しかし天然で発見される化学物質の医学への応用が進むにつれ、生薬を用いる漢方薬の効果も次第に見直され、1976年からは健康保険も適用されるようになっています。

実は青洲、現在も日本で処方されている漢方薬の考案者でもあるんです。そのうちのいくつかをご紹介しましょう。「十味敗毒湯(じゅうみはいどくとう)」は、皮膚疾患や湿疹、水虫等に効果があるとされる飲み薬。「中黄膏(ちゅうおうこう)」は、やけどやすり傷、痔にも効果のある軟膏。「紫雲膏(しうんこう)」はやけどや痔に効く軟膏です。

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