戦国時代の戦乱が終わり、戦で人手が減らず人々の生活が安定してくると経済が豊かになるでしょう?暮らしにゆとりができると、今度は趣味に手を出したくなるもんです。そうして趣味が高じてなんとやら、庶民のなかから優れた文化人が誕生してくる。江戸時代に発展した「元禄文化」はこんなふうに町人が活躍した文化です。
今回は「元禄文化」について、時代背景や著名人を中心に歴史オタクのライターリリー・リリコと一緒にわかりやすく解説していきます。

ライター/リリー・リリコ

興味本意でとことん調べつくすおばちゃん。座右の銘は「何歳になっても知識欲は現役」。大学の卒業論文は義経をテーマに執筆。大河ドラマや時代ものが好き。今回は江戸時代に多くの文化人を生み出した「元禄文化」についてまとめた。

1.元禄文化はどんな時代の文化?「犬公方」徳川綱吉の御代

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徳川家康が関ヶ原の戦いを勝ち抜き、江戸に幕府を置いて1603年に始まった江戸時代。戦乱の世から離れ、時とともに人々の生活は徐々に豊かになっていきました。そうして、85年後に始まった元禄年間(1688年から1704年)、京都や大阪など上方で町人たちを中心とした「元禄文化」が花開きます。時の将軍は五代目・徳川綱吉。いったいこの時代に何が起こったのでしょうか?

五代目将軍・徳川綱吉はどんな将軍だった?

1680年(延宝8年)、先代の将軍であり、兄であった徳川家綱の跡を継いで五代目の将軍となった徳川綱吉。天下の悪法などと評判の悪い「生類憐みの令」を出したことで知られていますね。しかし、徳川綱吉の治世の前半は「天和の治」と呼ばれるほどの善政だったのです。

というのも、徳川綱吉は父であり三代目将軍だった徳川家光の遺言によって儒学を学び、戦国時代の荒々しい空気を変えようと努めたのでした。そして、戦争ではなく、徳を重んじ、法令によって治められる「文治政治」の世へと推進します。まったくダメな悪い将軍というわけではなかったのです。

どんな内容?どれだけ影響があった?「生類憐みの令」

徳川綱吉が発布し、1687年から1709年まで続いたとされる「生類憐みの令」。読んで字のごとく、生き物を慈しみましょう、というもので、保護対象となったのは、犬、猫、鳥、魚類、貝類、昆虫類、そして捨て子や病人、高齢者でした。動物愛護の法令というイメージがありますが、実は人間も保護対象になっていたのです。

「生類憐みの令」の趣旨は「無闇な殺生を禁止することで、人々の仁心を育てよう」というものでしょう。しかし、行き過ぎた保護は幕府の財政を圧迫したり、人々の肉食や狩猟、漁業を禁止したりして生活を脅かしたため嫌われてしまったのです。そのため、次の将軍となった徳川家宣は早々に生類憐みの令を廃止したのでした。

平和なはずが、江戸城内で刃傷沙汰!?「赤穗事件」

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大規模な戦がなくなったとはいえ、戦国時代が終わってからまだ100年とたっていない時期。刀を腰に提げた武士たち普通に町中を歩いていますし、幕府の家臣たちもみんな武家の生まれ。現代に比べると、ふとしたことで簡単に人が死んでしまうような時代でした。

そんななか江戸城内で起こったのが、かの有名な『忠臣蔵』のもととなる「赤穗事件」です。刀を抜くことが禁止されている江戸城内で赤穂藩藩主・浅野内匠頭長矩が吉良上野介義央を切りつけたことに徳川綱吉が大激怒。浅野内匠頭は即日切腹を申し付けられ、亡くなってしまいます。

その一方、被害者の吉良上野介はお咎めなしの裁定。しかし、この時代で私闘を行ったものは喧嘩両成敗が基本です。吉良上野介もなんらかの罰を受けるべきだと、仇討ちのため大石倉之助良雄ら赤穗藩の亡き浅野内匠頭の元家臣47人が吉良上野介の邸宅へ討ち入りに入り、吉良上野介を殺害してしまったのでした。

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火災に地震、富士山噴火!度重なった自然災害

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徳川綱吉の時代は天災にも悩まされた時期でした。まず、徳川綱吉が将軍に就任して三年後の1683年、江戸で「天和の大火」が起こります。天和の大火で約50キロほどが焼け、死者は3500人を越えるとされました。規模の大きさから江戸の十大火事に数えられます。そこに追い打ちをかけるように1688年に凶作が頻発するようになり、数万人もの餓死者が出ました。

赤穗事件のあとには1704年の元禄の大地震、1707年の宝永地震と津波。特に宝永地震は記録に残る日本最大級の地震とされます。しかも、その宝永地震の49日後には富士山の大噴火が起こり、さらにその二次被害で長期間に渡って作物に影響しました。

江戸幕府や諸藩はこれらの災害からの復興のために莫大な予算を使い、財政難に陥ったとされています。

不運なだけじゃない!好景気と庶民に広まる学問

上記のような不運が重なった徳川綱吉の治世ですが、「日本の学校教育発祥の地」を掲げ、国の史跡に指定されてる湯島聖堂を建立するなど徳川綱吉自身は学問好きの人物でありました。

一方、元禄年間の初頭は好景気であり、世の中は農業や産業が発展し、町民たちが経済力を見につけて豊かになっていきます。暮らしが安定した町人たちは、寺子屋という当時の教育施設に子どもを通わせたりして、文字の読み書きやそろばんなどを学ばせました。識字率の普及により町人たちに新聞や小説などの読み物を受けいれる体勢が整ったのです。

2.芸術家たちの才能花開く「元禄文化」

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文化の担い手、文化の発祥者というのは、えてして生活に余裕のある層……たとえば、貴族や大名などといった上流階級が中心となっていました。けれど、元禄の好景気に入って町人たちにも経済的余裕が生まれ、彼らもまた芸術や学問に触れ、その発展に携わる時代になったのです。これまで貴族たちが中心になって盛り上げてきた雅な文化と比較すると、町人たちのなかで築かれた元禄文化は華美で力強い印象を受けます。

また、庶民へ読み書きが普及したのに加え、木版印刷など印刷技術が向上し、従来よりも書物や版画が手に入りやすくなったことも元禄文化の強みと言えるでしょう。

さて、この章では各ジャンルとともにその代表ともいえる人物を解説していきましょう。

市川團十郎に芳沢あやめ、坂田藤十郎!名だたる歌舞伎界のスターが誕生

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現代でも名前を聞く歌舞伎役者の「市川團十郎」さん。その初代市川團十郎が活躍したのが元禄でした。初代市川團十郎を中心として創始された歌舞伎のジャンル「荒事」は、雄々しい芸風で、活気あふれる江戸の気質と合ってたいへんなヒットとなったのです。また、今や歌舞伎では当たり前となった隈取や六方の足拍子、見得を切る所作などを演じて人気を博しました。

初代坂田藤十郎は貴人流離譚系の「やつし事」や「和事」を得意とし、初代芳沢あやめは女形として活躍します。

赤穂事件が舞台へ?人気作『仮名手本忠臣蔵』

歌舞伎作品のなかでも一、二を争う有名作『仮名手本忠臣蔵』は、前章で触れた「赤穂事件」を題材にして書かれた作品です。

非常に血生臭い事件であり、また討ち入りを終えて捕らえられた赤穂浪士たちを目撃した町人たちも多かったことでしょう。さっそく赤穂事件は歌舞伎や浄瑠璃での演目として書かれました。しかし、幕府はこの事件を面白おかしく書かれたり、風刺されることを嫌って規制をかけたのです。それを受けた作家たちは、登場人物の名前と時代を変えて「この作品はフィクションです」という、現代でもよく目にする前提をつけて発表しました。それが現代へと受け継がれてきたのです。

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江戸時代のライトノベル?仮名草子の流行

識字率と印刷技術の向上により、多くの読者を得たのが「仮名草子」です。これは漢文ではなく、仮名交じり文で書かれた文芸で、内容は娯楽作品から実用書までさまざま。現代の感覚でいうとライトノベルが近いでしょうか。代表作品としては浅井了意の『浮世物語』、鈴木正三の『因果物語』など。作者たちは教養のある僧侶や浪人などが多かったといいます。

しかし、この仮名草子をさらに娯楽色の強いものへと進め、さらに人気を博したのが次の「浮世草子」です。

町人・井原西鶴が描いた町人が主人公の『好色一代男』

仮名草子が親しまれるようになったとはいえ、その物語の主人公は僧侶や武士、浪人などであり、町人が主人公となるものではありませんでした。そんな折、俳人だった井原西鶴が『好色一代男』を発表します。

井原西鶴は町人の生まれとされ、『好色一代男』は町人が書いた町人が主人公の物語だったのです。主人公の浮世之介の俗世的な恋愛模様と庶民の生活が描かれた『好色一代男』は、従来の仮名草子よりも娯楽色が強く、町民たちの風俗や人情などが描写されました。『好色一代男』はヒット作となり、仮名草子とはまた一線を画した「浮世草子」という新たな文芸形式となります。

浄瑠璃世界を一変させた天才「近松門左衛門」

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人形浄瑠璃の戯曲作家として有名な近松門左衛門が登場したのも元禄のあたり。大阪の道頓堀で義太夫節浄瑠璃の創設者・竹本義太夫とタッグを組んで竹本座をはじめ、浄瑠璃世界に新しい風を巻き起こします。

近松門左衛門の書く浄瑠璃の脚本は、従来の浄瑠璃脚本よりも登場人物の人間性を立たせた人間ドラマとして仕上げられました。それが人気を博した結果、近松門左衛門が現れる以前の人形浄瑠璃を古浄瑠璃、以後を新浄瑠璃と区別しなければならないほどです。

当時の人形浄瑠璃は、歴史上の人物とその物語を題材にした「時代物」作品が多いなか、近松門左衛門は『曽根崎心中』を発表しました。この作品は町人の男女の悲恋を描いた物語であり、恋叶わぬ二人が心中して幕を下ろすといもの。『曽根崎心中』は人気となり新たに「世話物」というジャンルとして確立。さらに心中が流行して幕府によって禁止されるなど社会現象を起こしました。

弟子を伴って東北へ、俳聖「松尾芭蕉」と『おくのほそ道』

俳聖「松尾芭蕉」が登場したもは元禄年間より少し前。松尾芭蕉は武家の次男として生まれ、主家に仕えながら俳句を習いはじめました。しかし、主が亡くなると職を辞したのち、俳人としての活躍がはじまります。

「古池や 蛙飛び込む 水の音」
「夏草や 兵どもが 夢の跡」

など、どこかで耳にしたことのある俳句を詠んだのが「松尾芭蕉」でした。

また、古典の教科書に載る「月日は百代の過客にして、行きかふ年も又旅人也」で始まる『おくのほそ道』は、松尾芭蕉が46歳の時に弟子の河合曽良を伴って東北の旅を記した紀行文です。この度で芭蕉は各地の俳人たちと交流しながらたくさんの俳句を残しました。上記の「夏草や~」もそのひとつですね。これは岩手県の平泉でかつて栄えた奥州藤原氏の栄華の跡を詠んだもの。栄華はなくなり、今はもう夏草が生い茂るばかりの光景から寂しさや儚さを感じますね。

道端がはじまり?落語の誕生

落語のはじまりは元禄文化だとされています。その起源はふたつあるとされ、大阪・京都などの上方では道や神社の境内で、江戸ではお座敷に人を集めて面白おかしく話を聞かせたことにはじまるとか。やがて話し手のなかにも人気を出すものが現れはじめ、そこから収入を得るようになるほどの人気者が出るように。落語の原型はこうしてできあがったのでした。

元禄文化は町人中心の文化であり、平和の証

五代目将軍徳川綱吉の御代、世は好景気となり、生活に余裕を持てる町人たちが現れました。それまで文化の担い手だった貴族や大名などの上流階級とは違い、元禄文化は町人たちの活気にあふれた力強くも華やかな文化です。時代背景として度重なる災害や「生類憐みの令」による幕府の財政逼迫はありましたが、町人も文字を学んで文化の担い手や発信者となったのでした。

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日本史江戸時代

3分で簡単「元禄文化」いつ始まった?文化の特徴や主要人物も歴史オタクがわかりやすく解説

戦国時代の戦乱が終わり、戦で人手が減らず人々の生活が安定してくると経済が豊かになるでしょう?暮らしにゆとりができると、今度は趣味に手を出したくなるもんです。そうして趣味が高じてなんとやら、庶民のなかから優れた文化人が誕生してくる。江戸時代に発展した「元禄文化」はこんなふうに町人が活躍した文化です。
今回は「元禄文化」について、時代背景や著名人を中心に歴史オタクのライターリリー・リリコと一緒にわかりやすく解説していきます。

ライター/リリー・リリコ

興味本意でとことん調べつくすおばちゃん。座右の銘は「何歳になっても知識欲は現役」。大学の卒業論文は義経をテーマに執筆。大河ドラマや時代ものが好き。今回は江戸時代に多くの文化人を生み出した「元禄文化」についてまとめた。

1.元禄文化はどんな時代の文化?「犬公方」徳川綱吉の御代

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徳川家康が関ヶ原の戦いを勝ち抜き、江戸に幕府を置いて1603年に始まった江戸時代。戦乱の世から離れ、時とともに人々の生活は徐々に豊かになっていきました。そうして、85年後に始まった元禄年間(1688年から1704年)、京都や大阪など上方で町人たちを中心とした「元禄文化」が花開きます。時の将軍は五代目・徳川綱吉。いったいこの時代に何が起こったのでしょうか?

五代目将軍・徳川綱吉はどんな将軍だった?

1680年(延宝8年)、先代の将軍であり、兄であった徳川家綱の跡を継いで五代目の将軍となった徳川綱吉。天下の悪法などと評判の悪い「生類憐みの令」を出したことで知られていますね。しかし、徳川綱吉の治世の前半は「天和の治」と呼ばれるほどの善政だったのです。

というのも、徳川綱吉は父であり三代目将軍だった徳川家光の遺言によって儒学を学び、戦国時代の荒々しい空気を変えようと努めたのでした。そして、戦争ではなく、徳を重んじ、法令によって治められる「文治政治」の世へと推進します。まったくダメな悪い将軍というわけではなかったのです。

どんな内容?どれだけ影響があった?「生類憐みの令」

徳川綱吉が発布し、1687年から1709年まで続いたとされる「生類憐みの令」。読んで字のごとく、生き物を慈しみましょう、というもので、保護対象となったのは、犬、猫、鳥、魚類、貝類、昆虫類、そして捨て子や病人、高齢者でした。動物愛護の法令というイメージがありますが、実は人間も保護対象になっていたのです。

「生類憐みの令」の趣旨は「無闇な殺生を禁止することで、人々の仁心を育てよう」というものでしょう。しかし、行き過ぎた保護は幕府の財政を圧迫したり、人々の肉食や狩猟、漁業を禁止したりして生活を脅かしたため嫌われてしまったのです。そのため、次の将軍となった徳川家宣は早々に生類憐みの令を廃止したのでした。

平和なはずが、江戸城内で刃傷沙汰!?「赤穗事件」

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大規模な戦がなくなったとはいえ、戦国時代が終わってからまだ100年とたっていない時期。刀を腰に提げた武士たち普通に町中を歩いていますし、幕府の家臣たちもみんな武家の生まれ。現代に比べると、ふとしたことで簡単に人が死んでしまうような時代でした。

そんななか江戸城内で起こったのが、かの有名な『忠臣蔵』のもととなる「赤穗事件」です。刀を抜くことが禁止されている江戸城内で赤穂藩藩主・浅野内匠頭長矩が吉良上野介義央を切りつけたことに徳川綱吉が大激怒。浅野内匠頭は即日切腹を申し付けられ、亡くなってしまいます。

その一方、被害者の吉良上野介はお咎めなしの裁定。しかし、この時代で私闘を行ったものは喧嘩両成敗が基本です。吉良上野介もなんらかの罰を受けるべきだと、仇討ちのため大石倉之助良雄ら赤穗藩の亡き浅野内匠頭の元家臣47人が吉良上野介の邸宅へ討ち入りに入り、吉良上野介を殺害してしまったのでした。

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