今回は飛鳥時代に行われた「遣隋使」は知っているか?奈良時代の重要な出来事で、あの聖徳太子(厩戸王)も関わっている。しかし、遠く離れた隋へ命がけで出かけていくわけですが、いったいなにをしに行ったんでしょうな?
今回はその「遣隋使」について、相手国である隋についても交えながら歴史オタクのライターリリー・リリコと一緒にわかりやすく解説していきます。

ライター/リリー・リリコ

興味本意でとことん調べつくすおばちゃん。座右の銘は「何歳になっても知識欲は現役」。大学の卒業論文は義経をテーマに執筆。大河ドラマや時代ものが好き。今回は過去にさらっと解説した「遣隋使」をより詳しくまとめた。

1.遥か海の向こう、隋へ!

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592年、飛鳥(現在の奈良県高市郡明日香村付近)に都がおかれて始まった「飛鳥時代」。最初の天皇は、初の女性天皇となった「推古天皇」でした。しかし、女性天皇であるために天皇を補佐する摂政という役職もまた初めて設けられることになります。そうして、摂政となったのが「聖徳太子(厩戸王)」でした。

摂政就任後、聖徳太子はさっそく新しい制度を朝廷に導入します。それが603年の「冠位十二階」、604年の「十七条の憲法」。そして、さらにアジアの超大国「隋」へ朝貢を行った「遣隋使」です。今回は「遣隋使」について解説していきましょう。

聖徳太子の「冠位十二階」と「十七条の憲法」

遣隋使も重要ですが、「冠位十二階」と「十七条の憲法」も大事なので、ここで軽く解説しておきましょう。

603年に設けられた「冠位十二階」。これは日本初の位階制度です。冠の色によって階級を表すものでしたが、実は、ただ色分けして階級をわかりやすくしただけではありません。当時の朝廷の役職は世襲で親から子へと受け継がれていくものでした。聖徳太子はこの世襲制度を打破し、身分の貴賤に関わらず能力のある人間や功績を上げた人を役人にして活躍してもらおうとしたのです。

翌年の604年に制定されたのが「十七条の憲法」。読んで字のごとく十七個の条文で構成される憲法です。ただ、憲法と言っても現代の憲法とは少し違い、国民が守るべき法律(最高法規)ではなく、当時の役人に向けられた「役人の心得」でした。そのなかでもとくに重要なのが三つ。「一に曰く、和をもって貴しとなし」は豪族同士の争いがひどかったため、みんな仲良くやりなさい、というもの。「二に曰く、篤く三宝を敬え」は三宝(仏、宝、僧)、つまり仏教とその教え、そして僧侶を大事にしなさい、ということ。「三に曰く、詔を承りては必ず謹め」は天皇の命令に絶対に従いなさい、という意味でした。天皇を中心とした政治を行おうという意図がわかりますね。

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聖徳太子が決めた「遣隋使」はなにをするの?

「遣隋使」は、倭国(日本)から海を隔てた大陸の超大国「隋」へ行き、隋の技術や制度、文化を学ぶこと、そして、「朝貢」を目的としました。朝貢とは強い影響力を持つ国に貢物をすることで、大国と自国で君臣関係にし、大国から冊封を受けることです。倭国では弥生時代から行われており、古代の邪馬台国の卑弥呼も魏に対して朝貢をしているんですよ。

ただ、簡単に隋へ使節を送る!と言っても、当時は非常に難しいことだったのです。飛鳥時代に正確な天気予報などありませんし、航海術も未熟でした。倭国を出てユーラシア大陸に行くのは命がけの行為だったのです。

隋へ行こう!でも、どんな皇帝が治めているの?

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日本が飛鳥時代を迎える頃、中国では「隋」が栄えていました。中国にはこれまでにいくつもの国が地域に分かれて王朝を立てて争っていましたが、隋は300年ぶりに中国全土を統一した帝国となりました。ちなみに、300年前の統一王朝は220年に滅亡した漢王朝。その後、魏・呉・蜀の対立する三国時代をへての隋の時代です。

隋の初代皇帝となった文帝が長安を都と定め、隋を建国。周辺諸国を滅ぼし、中国統一を成し遂げました。文帝は官僚登用の難関試験「科挙」をはじめ、貨幣統一や新制度の創設などで中央政権化を推し進めた皇帝でもあります。

朝廷が遣隋使を派遣したのは、文帝の息子「煬帝(ようだい)」の時代でした。しかし、煬帝は非情な暴君として名を残しています。煬帝は即位後、北京から杭州を結ぶ約2500キロの「京杭大運河」の建設のために100万人の民衆を強制的に働かせたり、朝鮮半島の高句麗へ戦争をしかけるも何度も失敗したりしていました。おまけに、残酷な刑を復活させたり、約束した恩賞を払わなかったりして煬帝の人望は民からも臣からも右肩下がりまっしぐら。各地で反乱が勃発し、618年に殺害され、彼もろとも隋は滅んでしまいます。

隋は300年ぶりの中国統一王朝でしたが、実は37年ほどしか続かなかった非常に短命な王朝でもあるのです。

2.何回行った?何をした?遣隋使のお仕事

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朝廷が隋へ遣隋使を送ったのは三回から五回……いや、六回、八回だ。なんてふうに、正確に何回行われたかはあやふやなんです。というのも、倭国側の歴史書『倭国書紀』と隋側の歴史書『隋書』で記録が違っているから。記念すべき第一回目の遣隋使も実は『倭国書紀』には記録されていないんです。

この章では遣隋使の業績として特に覚えておくべき第二回目を中心に解説していきます。

『倭国書紀』に記されなかった第一回遣隋使

隋の歴史書『隋書』にのみ記載される第一回目の遣隋使が送られたのは600年のこと。そのときの隋は初代の皇帝・文帝の時代でした。

隋の歴史書『隋書』によると、派遣された遣隋使たちは文帝にお目通り叶い、倭国の政治や習俗について話します。しかし、文帝は「それは道理が通らないから改めなさい」と批判されてしまうのです。

それを聞いた朝廷は。文帝の言葉が屈辱的だと感じたため、この第一回の遣隋使を『倭国書紀』に記録しなかった、とされています。

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小野妹子、国書を携え隋へ

遣隋使といえば、もっとも有名なのが「小野妹子」ですね。また、小野妹子は平安時代の官僚・小野篁や、絶世美女・小野小町の祖先とされています。小野一族は政治に文化にと、歴史に残る人物をたくさん世に送り出したんですね。

さて、小野妹子が第二回遣隋使として隋に派遣されたのが607年のこと。危険な旅の果てにようやく隋の煬帝に謁見し、聖徳太子が託した国書を渡します。そこには、このように書かれていました。

「日出づるところの天子、書を日没するところの天子に致す。つつがなきや」

現代風に訳すと「日が昇る国(倭国)の王の私が、日の沈む国(隋)の王の煬帝に手紙を送ります。調子はどうですか?」です。

ところで、前章で遣隋使の目的のひとつとして「朝貢」がありましたね。けれど、こんなふうな手紙を送たら、果たして隋は庇護してくれるのだろうか、と心配になりませんか?

もちろん、この国書を呼んだ煬帝は怒ります。「二度とこんな無礼な手紙を見せるな」と。暴君として君臨している煬帝のことですから、小野妹子がその場で処刑されてもおかしくありませんが……。

ところが、小野妹子は無事に帰朝します。ただし、今回、倭国は隋から冊封を受けませんでした。隋から冊封されると、朝廷は倭国の君主だと認められますが、それは同時に隋と君臣関係になるということ。なので、冊封を受けないことによって、逆に、倭国は隋から自立した対等な国として認定されたのでした。

暴君の怒り「日出づるところの天子」「日没するところの天子」と「中華思想」

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小野妹子が持ってきた国書に煬帝が怒った理由として、ふたつのことが考えられます。

まず、冒頭に書かれた「日出づるところの天子」と「日没するところの天子」について。日出づるところの天子とは、倭国の大王(天皇)のこと。日没するところの天子は煬帝をさします。太陽は東(日本側)から登って西(中国側)に沈みますから、地理的には間違ってませんが……。政治的な比喩表現として考えると、「これから発展する国の天子(日本の天皇)」と「これから没落する国の天子(煬帝)」に受け取ることができます。隋が衰退していくイメージがどうしてもぬぐえませんよね。

ふたつめは、「中華思想」です。中華思想とは、中華が世界の中心であり、文化や思想が最もすばらしいものとする思想のこと。この思想にもとづき、隋は周辺諸国と冊封体制を作っていたのでした。また、中華思想のなかでは皇帝は世界の中心であり、代表である「天子」です。その唯一の天子を倭国の大王が自称したことは、なかなかに許し難いことでした。

煬帝の怒りはどこへ?なぜ小野妹子が帰朝できたのか

このころの隋は高句麗を狙って遠征を繰り返していました。暴君として有名な煬帝ですが、もし、倭国が高句麗側についてしまったら、また厄介なことになるのは明白です。なので、不快感や怒りをぐっと抑え、倭国からのあの国書を受け入れたのでした。

そして、隋は小野妹子の帰朝に文林郎(ぶんりんろう/秘書省の文官)の裴世清(はいせいせい)を同行させて国交がはじまります。

ただ、煬帝から受け取った返書を帰国途中に失くしてしまったのです。小野妹子はその責任を負って流罪になりました。……が、すぐに許された上に、小野妹子は冠位十二階でも最上位に大出世。再び遣隋使に任命され、第三回の派遣にも参加することに。大事な返書を失くしたのに、なぜ小野妹子はすぐに許されたのか。これについては、煬帝の返書の内容を隠すために失くしたことにした、という説があります。返書の内容が隠蔽しなければならないほど、ひどかったのでしょうかね。

第三回目以降の遣隋使と留学生たち

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第三回の遣隋使は第二回目の翌年608年。小野妹子の再派遣に、裴世清の帰国。そして、のちに「大化の改新」の功労者となる高向玄理(たかむこのくろまろ)、南淵請安(みなぶちのしょうあん)、僧・旻(みん)らを派遣しました。

彼らのうち、高向玄理と南淵請安は、618年の隋の滅亡と次の「唐」をその目にしてから640年に帰国。南淵請安は塾を開き、その生徒には「中大兄皇子」や「中臣鎌足」がいました。そして、当時の調停を牛耳っていた蘇我氏を排斥した「乙巳の変」のあと、高向玄理と旻は国博士に任命されて改革に貢献します。

聖徳太子の強気な外交が大成功した「遣隋使」

飛鳥時代、日本初の摂政となった「聖徳太子(厩戸王)」。彼がはじめた「遣隋使」は、中国を統一した「隋」へ使者を送って国交を開くというもの。外交相手となる隋の二代目の皇帝・煬帝の大運河開発事業や朝鮮半島の高句麗への遠征などで暴君と恐れられていました。しかし、そんな隋と煬帝相手に聖徳太子は「日出づるところの天子、書を日没するところの天子に致す。つつがなきや」から始まる国書を小野妹子を含む遣隋使たちに持たせます。この国書に対して煬帝はもちろん怒りますが、高句麗への遠征を考えると倭国を敵に回すことは得策でないと考え、受け入れられることに。その結果、遣隋使は大成功。第三回、第四回と続けられ、高向玄理や、南淵請安、僧の旻など有能なものたちを次々に隋に派遣しました。そうしてもたらされた隋の知識や学問は、のちの「大化の改新」とその後の改革で大いに貢献したのです。

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日本史飛鳥時代

3分で簡単「遣隋使」隋ってどこ?なぜ隋に行く必要があった?歴史オタクがわかりやすく解説

今回は飛鳥時代に行われた「遣隋使」は知っているか?奈良時代の重要な出来事で、あの聖徳太子(厩戸王)も関わっている。しかし、遠く離れた隋へ命がけで出かけていくわけですが、いったいなにをしに行ったんでしょうな?
今回はその「遣隋使」について、相手国である隋についても交えながら歴史オタクのライターリリー・リリコと一緒にわかりやすく解説していきます。

ライター/リリー・リリコ

興味本意でとことん調べつくすおばちゃん。座右の銘は「何歳になっても知識欲は現役」。大学の卒業論文は義経をテーマに執筆。大河ドラマや時代ものが好き。今回は過去にさらっと解説した「遣隋使」をより詳しくまとめた。

1.遥か海の向こう、隋へ!

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592年、飛鳥(現在の奈良県高市郡明日香村付近)に都がおかれて始まった「飛鳥時代」。最初の天皇は、初の女性天皇となった「推古天皇」でした。しかし、女性天皇であるために天皇を補佐する摂政という役職もまた初めて設けられることになります。そうして、摂政となったのが「聖徳太子(厩戸王)」でした。

摂政就任後、聖徳太子はさっそく新しい制度を朝廷に導入します。それが603年の「冠位十二階」、604年の「十七条の憲法」。そして、さらにアジアの超大国「隋」へ朝貢を行った「遣隋使」です。今回は「遣隋使」について解説していきましょう。

聖徳太子の「冠位十二階」と「十七条の憲法」

遣隋使も重要ですが、「冠位十二階」と「十七条の憲法」も大事なので、ここで軽く解説しておきましょう。

603年に設けられた「冠位十二階」。これは日本初の位階制度です。冠の色によって階級を表すものでしたが、実は、ただ色分けして階級をわかりやすくしただけではありません。当時の朝廷の役職は世襲で親から子へと受け継がれていくものでした。聖徳太子はこの世襲制度を打破し、身分の貴賤に関わらず能力のある人間や功績を上げた人を役人にして活躍してもらおうとしたのです。

翌年の604年に制定されたのが「十七条の憲法」。読んで字のごとく十七個の条文で構成される憲法です。ただ、憲法と言っても現代の憲法とは少し違い、国民が守るべき法律(最高法規)ではなく、当時の役人に向けられた「役人の心得」でした。そのなかでもとくに重要なのが三つ。「一に曰く、和をもって貴しとなし」は豪族同士の争いがひどかったため、みんな仲良くやりなさい、というもの。「二に曰く、篤く三宝を敬え」は三宝(仏、宝、僧)、つまり仏教とその教え、そして僧侶を大事にしなさい、ということ。「三に曰く、詔を承りては必ず謹め」は天皇の命令に絶対に従いなさい、という意味でした。天皇を中心とした政治を行おうという意図がわかりますね。

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