3分で簡単「佐藤栄作」内閣総理大臣として何をした?生い立ちやノーベル平和賞受賞などを歴史好きライターがわかりやすく解説
吉田内閣で内閣官房長官に抜擢
1948(昭和23)年に運輸次官を退官した佐藤栄作は、翌年になり民主自由党に入党。政治家としての道を歩み始めます。すると、吉田茂から抜擢され、第2次吉田内閣の内閣官房長官となりました。佐藤は当時議員ではなかったので、異例の抜擢といえます。しかし、組閣してすぐに衆議院が解散し、官房長官を務めたのはわずか4か月ほどでした。
1949(昭和24)年の総選挙に初当選し、佐藤は晴れて国会議員となります。ですが、1954(昭和29)年に捜査が開始された造船疑獄では、佐藤も収賄容疑で逮捕される寸前でした。しかし、重要法案の審議中を理由に法務大臣が指揮権を発動。佐藤は逮捕を免れました。
岸内閣では兄を支える
1955(昭和30)年に自由党と日本民主党が合併し、自由民主党が生まれます。しかし、当時自由党に所属していた佐藤栄作は、自民党の旗揚げには参加しませんでした。自民党の初代総裁だった鳩山一郎と吉田茂が対立し、吉田についていく形で佐藤も結党に参加しなかったためです。
鳩山一郎が政界を引退すると、吉田や佐藤も自民党に加わります。その後、兄の岸信介が自民党総裁になると、党の総務会長として岸を支えました。さらに岸が総理となり、第2次岸内閣では大蔵大臣に就任します。続く池田勇人内閣でも通商産業大臣を務めるなど、佐藤は政界で実績を積み重ねました。
内閣総理大臣となった佐藤栄作
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政治家としての実績を積み重ねた佐藤栄作は、いよいよ総理大臣の座をうかがうようになります。ここでは、自民党総裁選挙以降の佐藤について見ていきましょう。
熾烈を極めた自民党総裁選挙
1964(昭和39)年、佐藤栄作は満を持して自民党総裁選挙に出馬しました。3期目の当選を狙う池田勇人と藤山愛一郎、それに佐藤の3人による選挙は熾烈を極めました。選挙中にはかなりの選挙工作があったとされます。結果は、池田が1回目の投票で過半数を獲得し、3選を果たしました。
ですが、間もなく池田は病で退陣することとなります。急遽党内で調整が行われ、話し合いなどの結果、佐藤が後継者として選ばれました。それを受けて、第3次池田内閣は総辞職。首班指名選挙で佐藤栄作が当選し、佐藤内閣が発足する運びとなりました。
日韓基本条約の締結
第二次大戦後、日本は諸外国とサンフランシスコ講和条約を結びましたが、韓国は参加しませんでした。そのため、日本と韓国との間で条約を結ぶ必要がありました。そのため、1951(昭和26)年から日本と韓国は何度も会談の場を設けましたが、なかなか合意には至りません。
日韓基本条約が調印されたのは、1965(昭和40)年の第1次佐藤内閣でのことでした。基本条約の他、漁業協定や文化協定なども同時に結ばれています。これにより、韓国併合条約は失効。日本から韓国へ融資を行う経済協力協定が結ばれ、韓国の日本に対する請求権も破棄されました。
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