今回は、佐藤栄作について学んでいこう。

彼は日本人初のノーベル平和賞受賞者であり、2021年現在唯一の日本人受賞者です。しかし、なぜ佐藤がノーベル平和賞を受賞したのか知らない人もいるでしょう。

佐藤栄作がノーベル平和賞を受賞した理由や、内閣総理大臣在職中にしたことなどについて、日本史に詳しいライターのタケルと一緒に解説していきます。

ライター/タケル

資格取得マニアで、士業だけでなく介護職員初任者研修なども受講した経験あり。現在は幅広い知識を駆使してwebライターとして活動中。

政治家になる前の佐藤栄作

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まずは、政治家になる前の佐藤栄作について見ていきましょう。

政治家の多い家系に生まれる

佐藤栄作は、1901(明治34)年に山口県で生まれました。実家は酒造業でしたが、佐藤の近親者には政治家が多く、日本が国際連盟を脱退した際に日本の全権を務めた松岡洋右も佐藤の親族にあたります。そして、何よりも佐藤の次兄が元内閣総理大臣の岸信介です。岸は、中学生の時に岸家の養子となりました。

岸信介の娘の夫が、元外務大臣の安倍晋太郎です。その息子には2人の大臣経験者、安倍晋三と岸信夫がいます。特に安倍は、のちに内閣総理大臣となりました。安倍晋太郎の父である安倍寛も元衆議院議員だったなど、佐藤の家系図を見れば多くの政治家にたどり着きます。

鉄道省に入省

兄の岸信介が優等生だったのに比べると、佐藤栄作の子供の頃は野山で遊ぶ活発な少年だったようです。しかし、勉学に励むようになると成績は上昇し、東京帝国大学に入学。1924(大正13)年に東大法学部法律学科を卒業した佐藤は、鉄道省へ入省しました。

農商務省へ入省した兄の岸がすぐにエリート街道に乗ったのとは対照的に、佐藤は地方勤務が続くことになります。ですが、戦後に岸が公職追放となったのに対して、地方にいた佐藤は追放を免れました。第二次世界大戦終戦後の1947(昭和22)年、鉄道省から改編された運輸省の事務方トップである運輸次官に、佐藤が就任します。

佐藤栄作の政界入り

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官僚のトップまで昇り詰めた佐藤栄作は、第二次大戦後に政治家へ転身します。いったいどのような活動をしていたのでしょうか。

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吉田内閣で内閣官房長官に抜擢

1948(昭和23)年に運輸次官を退官した佐藤栄作は、翌年になり民主自由党に入党。政治家としての道を歩み始めます。すると、吉田茂から抜擢され、第2次吉田内閣の内閣官房長官となりました。佐藤は当時議員ではなかったので、異例の抜擢といえます。しかし、組閣してすぐに衆議院が解散し、官房長官を務めたのはわずか4か月ほどでした。

1949(昭和24)年の総選挙に初当選し、佐藤は晴れて国会議員となります。ですが、1954(昭和29)年に捜査が開始された造船疑獄では、佐藤も収賄容疑で逮捕される寸前でした。しかし、重要法案の審議中を理由に法務大臣が指揮権を発動。佐藤は逮捕を免れました。

岸内閣では兄を支える

1955(昭和30)年に自由党と日本民主党が合併し、自由民主党が生まれます。しかし、当時自由党に所属していた佐藤栄作は、自民党の旗揚げには参加しませんでした。自民党の初代総裁だった鳩山一郎と吉田茂が対立し、吉田についていく形で佐藤も結党に参加しなかったためです。

鳩山一郎が政界を引退すると、吉田や佐藤も自民党に加わります。その後、兄の岸信介が自民党総裁になると、党の総務会長として岸を支えました。さらに岸が総理となり、第2次岸内閣では大蔵大臣に就任します。続く池田勇人内閣でも通商産業大臣を務めるなど、佐藤は政界で実績を積み重ねました。

内閣総理大臣となった佐藤栄作

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政治家としての実績を積み重ねた佐藤栄作は、いよいよ総理大臣の座をうかがうようになります。ここでは、自民党総裁選挙以降の佐藤について見ていきましょう。

熾烈を極めた自民党総裁選挙

1964(昭和39)年、佐藤栄作は満を持して自民党総裁選挙に出馬しました。3期目の当選を狙う池田勇人と藤山愛一郎、それに佐藤の3人による選挙は熾烈を極めました。選挙中にはかなりの選挙工作があったとされます。結果は、池田が1回目の投票で過半数を獲得し、3選を果たしました。

ですが、間もなく池田は病で退陣することとなります。急遽党内で調整が行われ、話し合いなどの結果、佐藤が後継者として選ばれました。それを受けて、第3次池田内閣は総辞職。首班指名選挙で佐藤栄作が当選し、佐藤内閣が発足する運びとなりました。

日韓基本条約の締結

第二次大戦後、日本は諸外国とサンフランシスコ講和条約を結びましたが、韓国は参加しませんでした。そのため、日本と韓国との間で条約を結ぶ必要がありました。そのため、1951(昭和26)年から日本と韓国は何度も会談の場を設けましたが、なかなか合意には至りません。

日韓基本条約が調印されたのは、1965(昭和40)年の第1次佐藤内閣でのことでした。基本条約の他、漁業協定や文化協定なども同時に結ばれています。これにより、韓国併合条約は失効。日本から韓国へ融資を行う経済協力協定が結ばれ、韓国の日本に対する請求権も破棄されました。

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沖縄と小笠原の返還

サンフランシスコ講和条約により、沖縄はアメリカ合衆国が統治することとなります。しかし、多くの沖縄の人々は日本への復帰を望みました。1965(昭和40)年になり、佐藤栄作は内閣総理大臣として沖縄を訪問。「沖縄が日本へ復帰しないと戦後が終わらない」旨の発言をしました。

1969(昭和44)年、佐藤とニクソン大統領の2人により日米首脳会談が実現。その結果、1971(昭和46)年に沖縄返還協定が調印され、1972(昭和47)年5月15日に沖縄は日本への復帰を果たしました。小笠原諸島も沖縄に先立ち、1968(昭和43)年の佐藤政権下で日本に返還されています。

佐藤栄作のノーベル平和賞受賞

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では、なぜ佐藤栄作はノーベル平和賞を受賞したのでしょうか。その理由と、受賞が疑問視された点について詳しく見てみましょう。

広島平和記念式典に出席

1947(昭和22)年、広島市で第1回の平和祭が開かれました。被爆から2年後のことです。1951(昭和26)年からは、平和記念式典として開催。平和記念公園が開設された1954(昭和29)年より、現行とほぼ同じ形式の平和記念式典が行われるようになりました。

1971(昭和46)年の平和記念式典に、佐藤栄作が出席。平和記念式典に初めて現職の内閣総理大臣が出席したケースとなりました。佐藤は原爆資料館にも訪れています。ただし、当時は現職の総理が式典に出席することに異を唱える人もおり、式典で佐藤が献花したタイミングで女性が乱入する事件もありました。

非核三原則を提唱

1967(昭和42)年、衆議院予算委員会での野党からの質問に、佐藤総理が「核兵器を持たず、作らず、持ち込ませず」が政府の方針であるという旨の答弁をしました。さらに佐藤は、翌年の施政方針演説でも「核兵器を持たず、作らず、持ち込ませず」の非核三原則を盛り込みます。

非核三原則は、沖縄返還交渉でも引き合いに出されました。1971(昭和46)年の衆議院本会議で、非核三原則を含む「非核兵器ならびに沖縄米軍基地縮小に関する決議」が採択。非核三原則が「国是」(国の基本方針)であることが示されました。この非核三原則が評価され、1974(昭和49)年に佐藤はノーベル平和賞を受賞することとなったのです。

核の傘構想という矛盾

しかし、非核三原則には問題点があると言わざるをえません。なぜなら、核兵器を「作らず」と「持たず」は徹底していますが、「持ち込ませず」が曖昧になっているからです。外国と暗黙の了解などがあった場合には、「持ち込ませず」が守られない可能性があります。その点を警戒し、「非核2.5原則」などど表現する人がいるほどです。

また、2021年現在で日本は核兵器禁止条約に参加していません。日本国憲法第9条で軍隊を持たないとした日本は、アメリカの核の傘に守られているという事実があります。非核三原則を国是としながら核兵器禁止条約に参加しないのは、今の日本の政策における矛盾といえるでしょう。

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佐藤栄作の退陣と晩年

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長期政権を築いた佐藤栄作にも、総理の座から退く時が訪れます。佐藤の首相辞任から晩年までを一気に見ていきましょう。

異例づくめの辞任会見

佐藤栄作が内閣総理大臣であった期間は7年と8か月でした。これよりも長く連続して内閣総理大臣の座にあり続けたのは、2022年現在安倍晋三しかいません。好景気が続いたことや、ライバルとなりえる政治家がいなかったことなどがその原因といえるでしょう。しかし、長期政権を批判する意見が出るようになり、佐藤は総理を辞する決意をします。

佐藤が総理を辞任する際に行った記者会見は、異例ずくめのものとなりました。佐藤はテレビカメラに向かい、国民に語りかけるような会見を希望したのです。会場にいたすべての記者は追い出され、佐藤1人が会見場に残される形に。佐藤は質疑応答をすることなく、1人で話し続けました。

晩年の佐藤栄作

総理退任後、佐藤栄作はノーベル賞の授賞式に出席しました。しかし、それからわずか半年後の1975(昭和50)年、佐藤は病気のため亡くなります。トイレに行こうと立ち上がった時に発症した脳溢血が原因でした。葬儀は大隈重信以来の国民葬という形式で執り行われました。

佐藤は短気な性格でも知られていましたが、「待ちの佐藤」と呼ばれるほど人の話を聞くよう努めたそうです。その様子などは佐藤が倒れる前日まで日記として残され、没後に『佐藤栄作日記』として出版されました。現在では、国連大学での優れた研究に対し、佐藤栄作賞が贈られています。

佐藤栄作は非核三原則を提唱してノーベル平和賞を受賞した

7年以上も内閣総理大臣を務めた佐藤栄作。在任中に提唱した非核三原則などが評価され、日本人として初めてノーベル平和賞を受賞しました。しかし、非核三原則が徹底されているかどうか、現状では疑うべき点もあると言わざるをえません。今まさに日本は、核とのあり方を問われているといえるでしょう。

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現代社会

3分で簡単「佐藤栄作」内閣総理大臣として何をした?生い立ちやノーベル平和賞受賞などを歴史好きライターがわかりやすく解説

吉田内閣で内閣官房長官に抜擢

1948(昭和23)年に運輸次官を退官した佐藤栄作は、翌年になり民主自由党に入党。政治家としての道を歩み始めます。すると、吉田茂から抜擢され、第2次吉田内閣の内閣官房長官となりました。佐藤は当時議員ではなかったので、異例の抜擢といえます。しかし、組閣してすぐに衆議院が解散し、官房長官を務めたのはわずか4か月ほどでした。

1949(昭和24)年の総選挙に初当選し、佐藤は晴れて国会議員となります。ですが、1954(昭和29)年に捜査が開始された造船疑獄では、佐藤も収賄容疑で逮捕される寸前でした。しかし、重要法案の審議中を理由に法務大臣が指揮権を発動。佐藤は逮捕を免れました。

岸内閣では兄を支える

1955(昭和30)年に自由党と日本民主党が合併し、自由民主党が生まれます。しかし、当時自由党に所属していた佐藤栄作は、自民党の旗揚げには参加しませんでした。自民党の初代総裁だった鳩山一郎と吉田茂が対立し、吉田についていく形で佐藤も結党に参加しなかったためです。

鳩山一郎が政界を引退すると、吉田や佐藤も自民党に加わります。その後、兄の岸信介が自民党総裁になると、党の総務会長として岸を支えました。さらに岸が総理となり、第2次岸内閣では大蔵大臣に就任します。続く池田勇人内閣でも通商産業大臣を務めるなど、佐藤は政界で実績を積み重ねました。

内閣総理大臣となった佐藤栄作

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政治家としての実績を積み重ねた佐藤栄作は、いよいよ総理大臣の座をうかがうようになります。ここでは、自民党総裁選挙以降の佐藤について見ていきましょう。

熾烈を極めた自民党総裁選挙

1964(昭和39)年、佐藤栄作は満を持して自民党総裁選挙に出馬しました。3期目の当選を狙う池田勇人と藤山愛一郎、それに佐藤の3人による選挙は熾烈を極めました。選挙中にはかなりの選挙工作があったとされます。結果は、池田が1回目の投票で過半数を獲得し、3選を果たしました。

ですが、間もなく池田は病で退陣することとなります。急遽党内で調整が行われ、話し合いなどの結果、佐藤が後継者として選ばれました。それを受けて、第3次池田内閣は総辞職。首班指名選挙で佐藤栄作が当選し、佐藤内閣が発足する運びとなりました。

日韓基本条約の締結

第二次大戦後、日本は諸外国とサンフランシスコ講和条約を結びましたが、韓国は参加しませんでした。そのため、日本と韓国との間で条約を結ぶ必要がありました。そのため、1951(昭和26)年から日本と韓国は何度も会談の場を設けましたが、なかなか合意には至りません。

日韓基本条約が調印されたのは、1965(昭和40)年の第1次佐藤内閣でのことでした。基本条約の他、漁業協定や文化協定なども同時に結ばれています。これにより、韓国併合条約は失効。日本から韓国へ融資を行う経済協力協定が結ばれ、韓国の日本に対する請求権も破棄されました。

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