今回は戦国時代の武将、上杉謙信について見ていこう。上杉謙信は戦国最強と言われる強さを誇っていたが、一方で義に熱い男としても有名です。強さと優しさ両方を持つ武将の生きざまをぜひ知ってほしい。

日本史に詳しいライター織部かよこと一緒に解説していきます。

ライター/織部かよこ

学生時代から日本史が好きな法学部卒の元塾講師。越後の軍神、上杉謙信は歴史ゲームでも強いキャラで気に入っていた。ただ強いだけではなく心に秘めた何かがある。どうしてそれほど強くて魅力があるのか改めて知りたくなり調べてみることにした。

長尾虎千代、越後に生まれる

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(unknown) - http://www.casimages.com/img.php?i=100129125457634608.jpg, パブリック・ドメイン, リンクによる

上杉謙信は、1530年に越後国(現在の新潟県)で越後の守護に仕えた長尾為景(ながおためかげ)の末子として生まれました。幼い頃、虎千代(とらちよ)と名づけられたのは庚虎生まれだったから。1536年に為景が隠居した後、林泉寺に入門し学問や武道を学んで過ごすことに。この頃の生活が謙信の信仰深さの根底にあるのですね。

栃尾城の戦い

1543年に虎千代は元服し、名を景虎(かげとら)に改めます。元服とは、男子が成人になったことを示す通過儀礼の儀式。

長尾家は兄の晴景が隠居した為景の代わりに家督を継いでいたが、病弱のため頼りなく思われていました。長尾家は内紛が続き、争いも盛んでしたが、晴景はうまく納めることができません。次第に景虎を推す声が強くなったこともあり、栃尾城に入城することになりました。

この頃景虎は若干15歳。若い城主ゆえ制圧できだろうと思ったのか、栃尾城は近隣の豪族に攻め入られることに。景虎は少数の城兵を二隊に分け、一隊を敵本陣の背後に急襲。混乱する敵軍を今度は城内から攻め入り敵は壊滅。周辺の武将の力も借りて華々しく初陣を終えるのでした。

越後統一

初陣以降も戦歴を重ね続け勢いは止まりません。1548年には晴景の養子に入り家督を継ぎ、春日山城に入城。1550年に室町幕府13代将軍足利義輝(あしかがよしてる)の命により、越後国主の地位を確立し守護代になります。

一方長く続いていた内乱は板木城の制圧や坂戸城の戦いを経て収まり、1551年には、越後統一を果たすのでした。

内乱で敵対関係にあった長尾正景のもとに景虎の姉、仙桃院が政景に嫁ぐのは和睦の証。政景と仙桃院の子、景勝は、謙信の死後上杉家を継ぐのは深遠な話です。

川中島の戦い

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越後統一後も、全国各地で戦はとどまることがない時代でした。景虎の戦いも終わることはありません。

1552年は越後国へ逃亡してきた関東管領、上杉憲政(うえすぎのりまさ)を保護し、相模国の北条氏康と敵対関係に。武田信玄に領国を追われた信濃の守護、小笠原長時を保護して、は武田信玄とも対立を深めることになります。そして1553年、川中島の戦いが勃発。川中島の戦いは1553年から12年も続く長い戦いです。

第一次川中島の戦い

この頃になると幕府の力が弱くなり、各地で大名が領土支配を進めていました。武田信玄も西の信濃へと侵攻を始めます。

1553年、第一次川中島の戦いの始まりの時です。村上氏や高梨氏の救援要請を受けた景虎は、信濃国に出陣。信玄と対峙し、武田軍を討ち破ります。この時、両者が対峙したのが千曲川と犀川に挟まれた戦地、川中島。以後この地で幾度となく、宿敵同士の戦いが。

 

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第二次川中島の戦い

第一次川中島の戦いの後、信玄は北条氏、今川氏と三国同盟を締結、万全を期して再度景虎へと侵攻。1555年、第二次川中島の戦いです。景虎は山城である旭山城がネックとなり、思うように戦うことができませんでした。膠着状態が続き、協定を結ぶことでひとまず停戦に。

 

第三次川中島の戦い

今川義元が仲裁に入り結んだ協定もむなしく、信玄は停戦協定で手放した領土を取り戻すべく、またもや信州に攻め入ることに。1557年、第三次川中島の戦いが起こります。この戦で優勢だったのは信玄。攻め入られれば即座に撤退する啄木鳥戦法を使って相手軍を混乱させ、景虎との全面衝突を避けながら、領土を次々と拡大。そして景虎はやむを得ず退陣。

第三次川中島の戦いから時を経て、15代将軍足利義昭と面会した景虎は関東管領職に。北条氏が支配する関東平野への侵略をスタートすることになったのはそのため。

小田原城の戦い

1560年5月、景虎は北条氏康の討伐を断行します。越後国から関東へ向かう道中、上野国の箕輪城主である長野業正(ながのなりまさ)の支援を受けながら北条方の諸城を次々と攻略。関東諸将らの協力を受けながら、関東にまで拠点を作り、北条軍をどんどん追い詰めていきます。武蔵国にも軍を進め、各城を手中に。そして小田原城を含めた諸城を包囲して、攻撃を開始。景虎の猛攻により、北条氏康が籠城を決断し追い込むまでに至りました。

結果は景虎の勝利とはいきませんでした。勝利目前で無断で陣を引き払う軍がいたり、武田信玄のけん制の動きがあったり戦力は減少、膠着状態になり、景虎軍は撤退することに。

宿敵との戦いは続く

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小田原城の戦いの裏側でまた動きがあります。1560年の桶狭間の戦いで敗れた駿河の今川義元は武田信玄の同盟相手。景虎によって小田原城に追い詰められていた北条氏がこのまま倒されてしまえば、甲斐は上杉家の領土に囲まれてしまうことに。

これはよからぬと思った武田信玄は謙信の本拠地、越後を目指して侵攻を開始します。武田軍の本陣は川中島南部にある海津城、そう、四たび川中島の戦いの始まりです。

第四次川中島の戦い

1561年3月、景虎は正虎と名を改めます。同年またもや勃発、第四次川中島の戦い。正虎のいる越後を目指す信玄は本隊と別動隊の挟み撃ちを策略。正虎がいるであろう妻女山に向かうよう別働隊に指示。

これを察知した正虎は、信玄の別働隊より一足先に正虎は妻女山から去り、敵陣の八幡原に向けて侵攻を開始します。本陣に正虎が現れたことで、武田軍は予想していなかった展開にうまく戦いを進めることができません。激しい攻防の最たるは敵本陣での正虎と信玄の直接対決で、息を飲むような戦いでした。本陣に景虎一人で乗り込んだのですから。遅れて現れた別動隊により、上杉軍を退陣させたもののこの時の武田軍のダメージは相当大きかったのでした。

第五次川中島の戦い

1561年12月、正虎はまたもや名を改め、将軍足利義輝の文字をとり、輝虎とします。戦と改名とが交錯するかのように。そして1564年、第五次川中島の戦いが勃発。信玄は陸奥の蘆名氏と手を組み、蘆名軍が越後に攻め入っている隙に飛騨を制圧。正虎は蘆名氏を倒し、武田軍を討つために再度川中島に侵攻。しかし結局、決着は着きません。川中島の戦い、本当にラストです。長かった川中島の戦いは終焉を迎え、ようやく両者の抗争は収束するに至りました。

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唐沢山の戦い

輝虎にとって川中島の戦いでの成果は、越後国への信玄の侵攻を止めたことでした。ただし、戦火を何度も燃やした割には領土拡大は信濃の一部のみ。救援をお願いされた村上氏や高梨氏のかつての領土を奪還することはできなかったので、輝虎にとっては納得のいく結果ではなかったでしょう。これは相手の信玄にとっても似たようなことが言えそうです。

長期に渡る川中島の戦いの間に、かつての味方であった下野の佐野昌綱が北条氏に寝返ってしまいました。輝虎は再び服従させ唐沢山城の支配権を得るために幾度となく昌綱と攻防戦を繰り返します。この唐沢山城の戦いは10年にも渡って続くことになりました。

輝虎は難攻不落の山城である唐沢山城を攻略するのに苦労します。結局最後の戦いでも攻めきれずに撤退した輝虎は、北条と同盟を結ぶことで関東攻略を終えました。

上杉謙信誕生

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1570年12月、上杉輝虎は 法号の「謙信」をとって「上杉謙信」と名乗るように。ますます信仰の世界に入っていくようになります。謙信は生涯、毘沙門天(びしゃもんてん)を深く信仰し、軍旗にはその文字から一つとって「毘」の文字が。

そして信仰心の篤い謙信のことを人々は、「毘沙門天の化身」と畏(おそ)れていたのでした。

毘沙門天の信仰

家臣たちの内部抗争や、信玄との戦いがなかなかはっきりしない状況が続くうちに、謙信は仏門にますます傾倒していくようになります。

毘沙門天堂での信仰の時間だけでは足りないと思ったのか、ついには1556年になると出家を決意。高野山を目指す謙信に家臣が追いつき懇願された結果、謙信は出家を取りやめるのでした。もしその時出家していたら、歴史の何かが変わっていたかもしれません。

毘沙門天は勝利をもたらす戦の神様であり、福の神でもあります。謙信は信仰心あるゆえに軍神であったのでしょう。

義に篤い軍神

数多くの戦をこなしてきた謙信は、その強さから「軍神」や「越後の虎」と呼ばれるなど戦うイメージが強い武将です。しかしその一方で、仏教に傾倒したことによるのか「義を重んじる武将」のイメージも。

謙信は自分を頼ってきた武将を放っておけなかったため、参戦する戦いは関東や信州など他国の武将から救援要請によるものが多かったです。また領土の拡大にこだわり戦をしているわけではありませんでした。謙信の強さと優しさが伝わるエピソードです。

越相同盟の終焉

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謙信はかつて小田原城で戦った北条氏康と越相同盟を結びます。ただしこれも長くは続きません。氏康の死後、氏康を継いだ北条氏政はあっさり越相同盟を破棄。また、前後するように何度も戦った信玄の死。謙信は好敵手の死に涙を流したとのこと。

悲しみもつかの間、織田信長に京を追放された足利義昭から、信長撃破のため上洛を施されることに。謙信は新たな地を目指して、さらに戦い続けます。軍神であるがゆえに。

\次のページで「第一次七尾城の戦い」を解説!/

第一次七尾城の戦い

謙信はこの頃権力を放っていた織田信長との戦のために京へのルートとして能登国支配に着手し、1576年11月、第一次七尾城の戦いが起こります。謙信は能登国に進み、熊木城、穴水城など能登国のいくつかの城を攻略した後、七尾城への攻略を目指しましたが、しかし七尾城は難攻不落の巨城だったため、なかなか攻めるのが大変でした。攻略のために七尾城の南側に支城として石動山城を築くまでの大掛かりなものだったとか。

第二次七尾城の戦い

1577年に春日山城に一時撤退している間に上杉軍が前年に攻略していた能登の諸城は次々に落とされてしまいました。関東から救援の依頼もあったのですが、再び能登に侵攻して諸城を攻め落とし、七尾城を再び包囲し、第二次七尾城の戦いが始まります。このとき、城内では疫病が流行り、国主の畠山春王丸の死去も重なって兵士の士気は下がっていて事態は困難な様相。しかし、謙信は調略をしかけます。謙信と通じた遊佐続光らが反乱を起こし、織田信長と通じていた長続連らを撃破、ついに七尾城を獲得するのでした。

手取川の戦い

謙信が七尾城を攻めていた1577年8月、織田軍は長続連の援軍要請を受けて七尾城を救援するために、総大将の柴田勝家の下、羽柴秀吉、滝川一益らの軍勢は、越前の北ノ庄城から出兵。

加賀一向宗の妨害や、秀吉が勝家と意見が合わずに自軍を引き上げてしまうなど、行程はなかなか勝家の思うようには進みません。さらには大和の信貴山城で松永久秀が謀反を起こしたことも重なり信長が北陸へと向かう予定も中止。士気の乱れが続く織田軍は9月18日に手取川を渡り水島に陣を張るものの、七尾城が陥落していることすら知りませんでした。

謙信、有終の美

織田軍が手取川を越えたことを知ると、謙信は数万の大軍を率いて一気に南下し、織田軍のすぐそばの松任城にまで進みました。9月23日に七尾城の陥落と上杉軍が松任城に着陣していることを知り、織田軍は撤退を開始。謙信自らが率いる上杉軍は23日夜、手取川まで追撃し撃破。

こうして織田軍の侵攻をとめ、翌年3月に謙信が急死するまで能登は上杉の勢力下に置かれることになるのです。

軍神、眠る 軍神が残したもの

1578年、3月に謙信は春日山城で倒れ、昏睡状態になり意識が回復しないまま49歳で死去しました。死因は脳溢血といわれています。

養子の景勝、景虎のいずれを後継者にするか決めていなかったので、後継を争って勃発したのが御館の乱。この戦いで、勝利した上杉景勝が、謙信の後継者として上杉家の当主、米沢藩の初代藩主になります。

義に篤い武将、上杉謙信。彼の戦について調べれば調べるほど彼の強さと優しさに胸が熱くなりそうです。たくさんの戦の記録がありますので調べ物をしながらタイムスリップしてみるとさらに彼の魅力を知ることができるでしょう。

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日本史

越後の軍神上杉謙信!戦国時代の熱き戦いを5分で元塾講師がわかりやすく解説!

唐沢山の戦い

輝虎にとって川中島の戦いでの成果は、越後国への信玄の侵攻を止めたことでした。ただし、戦火を何度も燃やした割には領土拡大は信濃の一部のみ。救援をお願いされた村上氏や高梨氏のかつての領土を奪還することはできなかったので、輝虎にとっては納得のいく結果ではなかったでしょう。これは相手の信玄にとっても似たようなことが言えそうです。

長期に渡る川中島の戦いの間に、かつての味方であった下野の佐野昌綱が北条氏に寝返ってしまいました。輝虎は再び服従させ唐沢山城の支配権を得るために幾度となく昌綱と攻防戦を繰り返します。この唐沢山城の戦いは10年にも渡って続くことになりました。

輝虎は難攻不落の山城である唐沢山城を攻略するのに苦労します。結局最後の戦いでも攻めきれずに撤退した輝虎は、北条と同盟を結ぶことで関東攻略を終えました。

上杉謙信誕生

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1570年12月、上杉輝虎は 法号の「謙信」をとって「上杉謙信」と名乗るように。ますます信仰の世界に入っていくようになります。謙信は生涯、毘沙門天(びしゃもんてん)を深く信仰し、軍旗にはその文字から一つとって「毘」の文字が。

そして信仰心の篤い謙信のことを人々は、「毘沙門天の化身」と畏(おそ)れていたのでした。

毘沙門天の信仰

家臣たちの内部抗争や、信玄との戦いがなかなかはっきりしない状況が続くうちに、謙信は仏門にますます傾倒していくようになります。

毘沙門天堂での信仰の時間だけでは足りないと思ったのか、ついには1556年になると出家を決意。高野山を目指す謙信に家臣が追いつき懇願された結果、謙信は出家を取りやめるのでした。もしその時出家していたら、歴史の何かが変わっていたかもしれません。

毘沙門天は勝利をもたらす戦の神様であり、福の神でもあります。謙信は信仰心あるゆえに軍神であったのでしょう。

義に篤い軍神

数多くの戦をこなしてきた謙信は、その強さから「軍神」や「越後の虎」と呼ばれるなど戦うイメージが強い武将です。しかしその一方で、仏教に傾倒したことによるのか「義を重んじる武将」のイメージも。

謙信は自分を頼ってきた武将を放っておけなかったため、参戦する戦いは関東や信州など他国の武将から救援要請によるものが多かったです。また領土の拡大にこだわり戦をしているわけではありませんでした。謙信の強さと優しさが伝わるエピソードです。

越相同盟の終焉

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謙信はかつて小田原城で戦った北条氏康と越相同盟を結びます。ただしこれも長くは続きません。氏康の死後、氏康を継いだ北条氏政はあっさり越相同盟を破棄。また、前後するように何度も戦った信玄の死。謙信は好敵手の死に涙を流したとのこと。

悲しみもつかの間、織田信長に京を追放された足利義昭から、信長撃破のため上洛を施されることに。謙信は新たな地を目指して、さらに戦い続けます。軍神であるがゆえに。

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