越後の軍神上杉謙信!戦国時代の熱き戦いを5分で元塾講師がわかりやすく解説!
唐沢山の戦い
輝虎にとって川中島の戦いでの成果は、越後国への信玄の侵攻を止めたことでした。ただし、戦火を何度も燃やした割には領土拡大は信濃の一部のみ。救援をお願いされた村上氏や高梨氏のかつての領土を奪還することはできなかったので、輝虎にとっては納得のいく結果ではなかったでしょう。これは相手の信玄にとっても似たようなことが言えそうです。
長期に渡る川中島の戦いの間に、かつての味方であった下野の佐野昌綱が北条氏に寝返ってしまいました。輝虎は再び服従させ唐沢山城の支配権を得るために幾度となく昌綱と攻防戦を繰り返します。この唐沢山城の戦いは10年にも渡って続くことになりました。
輝虎は難攻不落の山城である唐沢山城を攻略するのに苦労します。結局最後の戦いでも攻めきれずに撤退した輝虎は、北条と同盟を結ぶことで関東攻略を終えました。
上杉謙信誕生
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1570年12月、上杉輝虎は 法号の「謙信」をとって「上杉謙信」と名乗るように。ますます信仰の世界に入っていくようになります。謙信は生涯、毘沙門天(びしゃもんてん)を深く信仰し、軍旗にはその文字から一つとって「毘」の文字が。
そして信仰心の篤い謙信のことを人々は、「毘沙門天の化身」と畏(おそ)れていたのでした。
毘沙門天の信仰
家臣たちの内部抗争や、信玄との戦いがなかなかはっきりしない状況が続くうちに、謙信は仏門にますます傾倒していくようになります。
毘沙門天堂での信仰の時間だけでは足りないと思ったのか、ついには1556年になると出家を決意。高野山を目指す謙信に家臣が追いつき懇願された結果、謙信は出家を取りやめるのでした。もしその時出家していたら、歴史の何かが変わっていたかもしれません。
毘沙門天は勝利をもたらす戦の神様であり、福の神でもあります。謙信は信仰心あるゆえに軍神であったのでしょう。
義に篤い軍神
数多くの戦をこなしてきた謙信は、その強さから「軍神」や「越後の虎」と呼ばれるなど戦うイメージが強い武将です。しかしその一方で、仏教に傾倒したことによるのか「義を重んじる武将」のイメージも。
謙信は自分を頼ってきた武将を放っておけなかったため、参戦する戦いは関東や信州など他国の武将から救援要請によるものが多かったです。また領土の拡大にこだわり戦をしているわけではありませんでした。謙信の強さと優しさが伝わるエピソードです。
越相同盟の終焉
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謙信はかつて小田原城で戦った北条氏康と越相同盟を結びます。ただしこれも長くは続きません。氏康の死後、氏康を継いだ北条氏政はあっさり越相同盟を破棄。また、前後するように何度も戦った信玄の死。謙信は好敵手の死に涙を流したとのこと。
悲しみもつかの間、織田信長に京を追放された足利義昭から、信長撃破のため上洛を施されることに。謙信は新たな地を目指して、さらに戦い続けます。軍神であるがゆえに。
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