越後の軍神上杉謙信!戦国時代の熱き戦いを5分で元塾講師がわかりやすく解説!
第二次川中島の戦い
第一次川中島の戦いの後、信玄は北条氏、今川氏と三国同盟を締結、万全を期して再度景虎へと侵攻。1555年、第二次川中島の戦いです。景虎は山城である旭山城がネックとなり、思うように戦うことができませんでした。膠着状態が続き、協定を結ぶことでひとまず停戦に。
第三次川中島の戦い
今川義元が仲裁に入り結んだ協定もむなしく、信玄は停戦協定で手放した領土を取り戻すべく、またもや信州に攻め入ることに。1557年、第三次川中島の戦いが起こります。この戦で優勢だったのは信玄。攻め入られれば即座に撤退する啄木鳥戦法を使って相手軍を混乱させ、景虎との全面衝突を避けながら、領土を次々と拡大。そして景虎はやむを得ず退陣。
第三次川中島の戦いから時を経て、15代将軍足利義昭と面会した景虎は関東管領職に。北条氏が支配する関東平野への侵略をスタートすることになったのはそのため。
小田原城の戦い
1560年5月、景虎は北条氏康の討伐を断行します。越後国から関東へ向かう道中、上野国の箕輪城主である長野業正(ながのなりまさ)の支援を受けながら北条方の諸城を次々と攻略。関東諸将らの協力を受けながら、関東にまで拠点を作り、北条軍をどんどん追い詰めていきます。武蔵国にも軍を進め、各城を手中に。そして小田原城を含めた諸城を包囲して、攻撃を開始。景虎の猛攻により、北条氏康が籠城を決断し追い込むまでに至りました。
結果は景虎の勝利とはいきませんでした。勝利目前で無断で陣を引き払う軍がいたり、武田信玄のけん制の動きがあったり戦力は減少、膠着状態になり、景虎軍は撤退することに。
宿敵との戦いは続く
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小田原城の戦いの裏側でまた動きがあります。1560年の桶狭間の戦いで敗れた駿河の今川義元は武田信玄の同盟相手。景虎によって小田原城に追い詰められていた北条氏がこのまま倒されてしまえば、甲斐は上杉家の領土に囲まれてしまうことに。
これはよからぬと思った武田信玄は謙信の本拠地、越後を目指して侵攻を開始します。武田軍の本陣は川中島南部にある海津城、そう、四たび川中島の戦いの始まりです。
第四次川中島の戦い
1561年3月、景虎は正虎と名を改めます。同年またもや勃発、第四次川中島の戦い。正虎のいる越後を目指す信玄は本隊と別動隊の挟み撃ちを策略。正虎がいるであろう妻女山に向かうよう別働隊に指示。
これを察知した正虎は、信玄の別働隊より一足先に正虎は妻女山から去り、敵陣の八幡原に向けて侵攻を開始します。本陣に正虎が現れたことで、武田軍は予想していなかった展開にうまく戦いを進めることができません。激しい攻防の最たるは敵本陣での正虎と信玄の直接対決で、息を飲むような戦いでした。本陣に景虎一人で乗り込んだのですから。遅れて現れた別動隊により、上杉軍を退陣させたもののこの時の武田軍のダメージは相当大きかったのでした。
第五次川中島の戦い
1561年12月、正虎はまたもや名を改め、将軍足利義輝の文字をとり、輝虎とします。戦と改名とが交錯するかのように。そして1564年、第五次川中島の戦いが勃発。信玄は陸奥の蘆名氏と手を組み、蘆名軍が越後に攻め入っている隙に飛騨を制圧。正虎は蘆名氏を倒し、武田軍を討つために再度川中島に侵攻。しかし結局、決着は着きません。川中島の戦い、本当にラストです。長かった川中島の戦いは終焉を迎え、ようやく両者の抗争は収束するに至りました。
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