今回は、箱根駅伝について学んでいこう。

箱根駅伝は、ある人物の願いを込めて創設されたものです。その人物の尽力があったおかげで、箱根駅伝が盛り上がりを見せているといえるでしょう。

箱根駅伝に人気がある理由や、箱根駅伝創設に尽力した人物などについて、日本史やスポーツに詳しいライターのタケルと一緒に解説していきます。

ライター/タケル

資格取得マニアで、士業だけでなく介護職員初任者研修なども受講した経験あり。現在は幅広い知識を駆使してwebライターとして活動中。

箱根駅伝の始まり

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まずは、箱根駅伝が創設された理由やその経緯について見ていきましょう。

もともと駅伝は祝賀行事だった

駅伝の元祖とされるレースが、1917(大正6)年に行われました。レース名を「東京奠都五十年奉祝・東海道駅伝徒歩競走」といいます。「奠都」(てんと)とは、都を定めること。つまり、日本の首都が事実上東京に移ってから50年になったことを祝ったものです。

古代中国には、都と地方をつないで馬で行き来する、駅伝という制度がありました。この都市と都市とを結んで走る様子になぞらえて、長距離走のリレーを駅伝と名付けたのです。初めての駅伝は、京都から東京まで全長516キロメートルのコースを23人で夜通し走るという、とても過酷なものでした。

金栗四三の願いが箱根駅伝となる

前項で紹介した駅伝競走で、アンカーを務めた選手の1人が金栗四三です。金栗四三は、日本のマラソン選手として初めてオリンピックに出場しました。ですが、ストックホルム五輪では途中棄権するという満足いかない結果に。悔しい思いをした金栗は、日本でのスポーツ振興と選手強化の必要性を感じていました。

初めて行われた駅伝競走に手応えを感じた金栗は、箱根路で駅伝競走を開催するという構想を思い立ちます。大学や当時の師範学校などに声を掛け、レース開催を提唱。その結果、1920(大正9)年に第1回の箱根駅伝が開催されることとなりました。

箱根駅伝第1回大会の出場校は4校だけ

現在の箱根駅伝は、毎年1月2日と3日の2日間で定着しています。しかし、第1回箱根駅伝は2月14・15日に行われました。当時は駅伝の選手を10人揃えられる学校が少なく、出場したのはわずか4校だけでした。レースは、午前の講義が終わった午後1時にスタートしました。

現在のレベルでは、6時間あればどのチームも往路または復路を走り切れます。しかし、当時の往路優勝タイムは約7時間半、4位のチームにいたっては9時間近くもかかりました。そのため、地元の青年団がたいまつでコースを照らしたという逸話が残っています。そのかいもあって、4校とも無事に全行程を完走できました。

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「日本マラソンの父」金栗四三とは?

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箱根駅伝の創設に尽力した金栗四三。彼はいったいどのような人物なのでしょうか。

金栗四三は3度のオリンピックに出場した

金栗四三は、1891(明治24)年熊本県で生まれました。名前の読み方には諸説ありましたが、2018(平成30)年に金栗がドラマ化された際、彼ゆかりの自治体が「かなくりしそう」に統一する意向を示しています。高校までを熊本県で過ごした金栗は、特待生として東京高等師範学校(現在の筑波大学)に入学し、そこでマラソンを本格的に始めました。

1911(明治44)年、ストックホルム五輪の国内予選会に金栗が参加。その大会で、マラソンの世界記録を27分も縮めるという快挙を達成しました。翌年、日本は初めてオリンピックに参加し、金栗もその一員となります。それ以降、金栗は3度もオリンピックのマラソンで走りました。

金栗四三はスポーツの普及に尽力した

金栗四三は、競技者として優秀だっただけでなく、アイデアマンでもありました。まだ運動靴が日本で普及していなかった頃、オリンピックでゴム底の靴を見た金栗は、職人に頼んで足袋にゴム底をつけさせました。金栗足袋と名付けられた特製の履物を、金栗ら日本人の選手がマラソンで履くようになります。

オリンピックに3度出場した金栗は、スポーツ振興の重要性を痛感。箱根駅伝や福岡国際マラソンなどを創設しました。また、現代ほどではなかった女子のスポーツ普及にも力を注ぐようになります。初めての女子テニス大会などを開き、1923(大正12)年には関東女子体育連盟を結成しました。

箱根駅伝は他の駅伝とはどう違うのか?

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ところで、箱根駅伝の人気は近年高まりを見せています。数多あるその他の駅伝と、箱根駅伝はどう違うのでしょうか。

箱根駅伝は標高差800メートルを上って下る

箱根駅伝で最大といえる特徴は、国道1号の標高最高地点を通過することではないでしょうか。それにより、5区と6区は標高差800メートル以上を上り下りするという、他の駅伝ではほぼ見られない過酷な区間となっています。5区には「山上り」、6区は「山下り」という、それぞれの通称があるほどです。

標高の高い地点は気温が低くなるため、5区と6区の選手は袖のあるユニフォームやアームウォーマーを着用しています。上りの続く5区はスタミナなどの適性が必要とされ、活躍した選手が「山の神」と呼ばれることも。逆に6区は下りが大半を占めるため、スピードに対応できるランナーが起用されます。

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箱根駅伝は10人全員が20キロメートル以上を走る

箱根駅伝は、全長217.1キロメートルを、10人のランナーで走破するものです。最長区間は、「花の2区」と呼ばれる2区と、復路で2区と同じコースを走る9区。23.1キロメートルあります。5区と6区が最も短いですが、それでも20.8キロメートルもあり、容易に走れる距離ではありません。

つまり、箱根駅伝では10人のランナーが全員20キロメートル以上を走ることになります。20キロといえば、ほぼハーフマラソンの距離です。真冬にコンディションの良い選手を10人揃え、なおかつ全員にハーフマラソンを走れるだけの脚力が必要。そういった難しさが箱根駅伝にはあるのです。

なぜ箱根駅伝は正月の風物詩となったのか?

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では、なぜ箱根駅伝は日本人の正月に欠かせないものとなったのでしょうか。それには、以下のことが考えられます。

箱根駅伝は正月三が日にテレビで見られる

箱根駅伝の中継は、1953(昭和28)年にラジオで行われたのが最初です。1987(昭和62)年より、日本テレビ系列が全区間で生中継するようになりました。完全生中継実現までに時間を要したのは、東京の市街地から箱根の山中まで、あらゆる場所から電波を絶やさずに配信する技術の開発が難しかったためです。

完全生中継が実現し、新春の風物詩として箱根駅伝は定着。視聴率は30%を超えるほどの人気コンテンツとなりました。正月三が日のテレビは、ドラマやバラエティなどの特別番組で占められがちです。それら以外のものを見たいという人々の受け皿に、箱根駅伝がなったといえるでしょう。

チームスポーツを好む国民性が箱根駅伝を応援させる

2020(令和2)年にスポーツ庁が実施した調査によると、「この1年間でどんなスポーツを現地で観戦したか?」という問いの答えで多かったのは、順にプロ野球・Jリーグ・高校野球・ラグビー(ワールドカップや大学ラグビーなど)・マラソン(駅伝含む)でした。上位はほとんどがチームスポーツです。

好きなスポーツの問いには、大相撲・フィギュアスケート・テニス・ゴルフなどの個人種目も上位に入りますが、観戦となるとチームスポーツが好まれる傾向にあります。オリンピックでは日本チームを応援し、野球やサッカーでは地元のチームを応援。チームを応援することが好きな日本人が箱根駅伝を好むのは、必然かもしれません。

箱根駅伝の魅力はプロや企業ではなく学生が懸命に走ること

日本人は、未完成のものを好みます。魔除けのために家をあえて未完成の状態にしたり、キャラクターを育成するスマホのゲームが売れたりなど。そういった日本人が、箱根駅伝で若者たちがひたむきに走る姿を見ることを好むのは、不思議ではありません。

そういったひたむきさを求める人が増えたため、予選会も生中継されるようになりました。本戦においても、総合優勝争いだけでなく、区間成績やシード権争いにも注目が集まっています。各種記録は、レース中でもニュースサイトなどオンラインで逐一調べられるようになりました。選手の成長や頑張りを見られる箱根駅伝は、日本人の好みに合っているといえるでしょう。

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箱根駅伝が抱える課題とは?

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現在は大人気の箱根駅伝ですが、果たして課題というものはあるのでしょうか。

箱根駅伝の全国化

箱根駅伝を主催しているのは、関東学生陸上競技連盟です。これは、箱根駅伝が関東の大学により争われていることを意味します。2010年代以降に優勝している、青山学院大学・駒澤大学・東海大学などは、もちろんすべて関東の大学です。関西など他地区の大学は、どんなに願っても現状のルールでは箱根駅伝に出場できません。

箱根駅伝の人気により、将来有望なランナーが関東の大学に集まるようになりました。そのため、地区によるレベルの差が生じ、選手育成に偏りが出ています。その状況を危惧する有識者から、箱根駅伝を全国化してはどうかという意見が、近年聞かれるようになりました。

箱根駅伝後の燃え尽き症候群

箱根駅伝が人気になったあまり、箱根駅伝にただならぬ情熱を注ぐ選手が増えたのも事実です。しかし、箱根駅伝にこだわりすぎるあまり、大学卒業後に伸び悩む陸上選手が増えています。いわゆる燃え尽き症候群というもので、高校野球の甲子園大会後の選手などにも現れる症状です。

そもそも箱根駅伝は、金栗四三の手により、陸上選手の育成を目的として創設されました。しかし、学生時代に競技のピークを迎えてしまっては、大会本来の趣旨から外れていると言わざるをえません。箱根駅伝は、多くの人に陸上競技の素晴らしさを知ってもらえる絶好の機会ではありますが、もっと選手の将来にも考慮していくべきでしょう。

箱根駅伝には日本のスポーツ普及への願いが込められている

「マラソンの父」金栗四三は、スポーツ振興や陸上選手の育成を願い、箱根駅伝を創設しました。選手やチーム、運営などが努力して大会を盛り上げた結果、現代では箱根駅伝が一大イベントとして定着しています。しかし、箱根駅伝が巨大化したため、選手育成の不均衡や選手の燃え尽き症候群などの問題も起きました。2024年に第100回大会を迎えるのを機に、箱根駅伝を金栗の理念に立ち返って変革すべきではないでしょうか。

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現代社会

3分で簡単「箱根駅伝」なぜ人気?創設された理由や尽力した人物などを歴史好きライターがわかりやすく解説!

今回は、箱根駅伝について学んでいこう。

箱根駅伝は、ある人物の願いを込めて創設されたものです。その人物の尽力があったおかげで、箱根駅伝が盛り上がりを見せているといえるでしょう。

箱根駅伝に人気がある理由や、箱根駅伝創設に尽力した人物などについて、日本史やスポーツに詳しいライターのタケルと一緒に解説していきます。

ライター/タケル

資格取得マニアで、士業だけでなく介護職員初任者研修なども受講した経験あり。現在は幅広い知識を駆使してwebライターとして活動中。

箱根駅伝の始まり

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まずは、箱根駅伝が創設された理由やその経緯について見ていきましょう。

もともと駅伝は祝賀行事だった

駅伝の元祖とされるレースが、1917(大正6)年に行われました。レース名を「東京奠都五十年奉祝・東海道駅伝徒歩競走」といいます。「奠都」(てんと)とは、都を定めること。つまり、日本の首都が事実上東京に移ってから50年になったことを祝ったものです。

古代中国には、都と地方をつないで馬で行き来する、駅伝という制度がありました。この都市と都市とを結んで走る様子になぞらえて、長距離走のリレーを駅伝と名付けたのです。初めての駅伝は、京都から東京まで全長516キロメートルのコースを23人で夜通し走るという、とても過酷なものでした。

金栗四三の願いが箱根駅伝となる

前項で紹介した駅伝競走で、アンカーを務めた選手の1人が金栗四三です。金栗四三は、日本のマラソン選手として初めてオリンピックに出場しました。ですが、ストックホルム五輪では途中棄権するという満足いかない結果に。悔しい思いをした金栗は、日本でのスポーツ振興と選手強化の必要性を感じていました。

初めて行われた駅伝競走に手応えを感じた金栗は、箱根路で駅伝競走を開催するという構想を思い立ちます。大学や当時の師範学校などに声を掛け、レース開催を提唱。その結果、1920(大正9)年に第1回の箱根駅伝が開催されることとなりました。

箱根駅伝第1回大会の出場校は4校だけ

現在の箱根駅伝は、毎年1月2日と3日の2日間で定着しています。しかし、第1回箱根駅伝は2月14・15日に行われました。当時は駅伝の選手を10人揃えられる学校が少なく、出場したのはわずか4校だけでした。レースは、午前の講義が終わった午後1時にスタートしました。

現在のレベルでは、6時間あればどのチームも往路または復路を走り切れます。しかし、当時の往路優勝タイムは約7時間半、4位のチームにいたっては9時間近くもかかりました。そのため、地元の青年団がたいまつでコースを照らしたという逸話が残っています。そのかいもあって、4校とも無事に全行程を完走できました。

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