
3分で簡単「箱根駅伝」なぜ人気?創設された理由や尽力した人物などを歴史好きライターがわかりやすく解説!
箱根駅伝は、ある人物の願いを込めて創設されたものです。その人物の尽力があったおかげで、箱根駅伝が盛り上がりを見せているといえるでしょう。
箱根駅伝に人気がある理由や、箱根駅伝創設に尽力した人物などについて、日本史やスポーツに詳しいライターのタケルと一緒に解説していきます。
- 箱根駅伝の始まり
- もともと駅伝は祝賀行事だった
- 金栗四三の願いが箱根駅伝となる
- 箱根駅伝第1回大会の出場校は4校だけ
- 「日本マラソンの父」金栗四三とは?
- 金栗四三は3度のオリンピックに出場した
- 金栗四三はスポーツの普及に尽力した
- 箱根駅伝は他の駅伝とはどう違うのか?
- 箱根駅伝は標高差800メートルを上って下る
- 箱根駅伝は10人全員が20キロメートル以上を走る
- なぜ箱根駅伝は正月の風物詩となったのか?
- 箱根駅伝は正月三が日にテレビで見られる
- チームスポーツを好む国民性が箱根駅伝を応援させる
- 箱根駅伝の魅力はプロや企業ではなく学生が懸命に走ること
- 箱根駅伝が抱える課題とは?
- 箱根駅伝の全国化
- 箱根駅伝後の燃え尽き症候群
- 箱根駅伝には日本のスポーツ普及への願いが込められている
この記事の目次

ライター/タケル
資格取得マニアで、士業だけでなく介護職員初任者研修なども受講した経験あり。現在は幅広い知識を駆使してwebライターとして活動中。
もともと駅伝は祝賀行事だった
駅伝の元祖とされるレースが、1917(大正6)年に行われました。レース名を「東京奠都五十年奉祝・東海道駅伝徒歩競走」といいます。「奠都」(てんと)とは、都を定めること。つまり、日本の首都が事実上東京に移ってから50年になったことを祝ったものです。
古代中国には、都と地方をつないで馬で行き来する、駅伝という制度がありました。この都市と都市とを結んで走る様子になぞらえて、長距離走のリレーを駅伝と名付けたのです。初めての駅伝は、京都から東京まで全長516キロメートルのコースを23人で夜通し走るという、とても過酷なものでした。
金栗四三の願いが箱根駅伝となる
前項で紹介した駅伝競走で、アンカーを務めた選手の1人が金栗四三です。金栗四三は、日本のマラソン選手として初めてオリンピックに出場しました。ですが、ストックホルム五輪では途中棄権するという満足いかない結果に。悔しい思いをした金栗は、日本でのスポーツ振興と選手強化の必要性を感じていました。
初めて行われた駅伝競走に手応えを感じた金栗は、箱根路で駅伝競走を開催するという構想を思い立ちます。大学や当時の師範学校などに声を掛け、レース開催を提唱。その結果、1920(大正9)年に第1回の箱根駅伝が開催されることとなりました。
箱根駅伝第1回大会の出場校は4校だけ
現在の箱根駅伝は、毎年1月2日と3日の2日間で定着しています。しかし、第1回箱根駅伝は2月14・15日に行われました。当時は駅伝の選手を10人揃えられる学校が少なく、出場したのはわずか4校だけでした。レースは、午前の講義が終わった午後1時にスタートしました。
現在のレベルでは、6時間あればどのチームも往路または復路を走り切れます。しかし、当時の往路優勝タイムは約7時間半、4位のチームにいたっては9時間近くもかかりました。そのため、地元の青年団がたいまつでコースを照らしたという逸話が残っています。そのかいもあって、4校とも無事に全行程を完走できました。
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