今回は、第五福竜丸事件について学んでいこう。

マグロの遠洋漁業をしていた第五福竜丸が、水爆実験により被爆したという悲惨な事件は、世界中に衝撃を与えたぞ。

第五福竜丸事件が起きた原因や、その後の原水爆禁止運動に与えた影響などを、日本史に詳しいライターのタケルと一緒に解説していきます。

ライター/タケル

資格取得マニアで、士業だけでなく介護職員初任者研修なども受講した経験あり。現在は幅広い知識を駆使してwebライターとして活動中。

核兵器とその使用について

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はじめに、第五福竜丸事件を知るためには、核兵器について知る必要があります。まずは核兵器の開発や使用について見ていきましょう。

核兵器の開発

核分裂反応により大きなエネルギーが発生することは、1930年代に発見されていました。しかし、発電のために原子力が使われだしたのは、1950年代に入ってからのことです。1939(昭和14)年、第二次世界大戦が勃発したのを機に原子爆弾の開発が進められました。平和利用される前に兵器として原子力が使われたのは、不幸というしかありません。

アメリカでは、極秘裏のうちに核開発が進んでいました。作戦本部の場所からマンハッタン計画と呼ばれ、多くの予算と人員が投入されます。そして、1945(昭和20)年7月に、3発の原子爆弾が完成。そのうちの1発を、アメリカ国内の砂漠で人類初の核実験として爆発させました。

広島と長崎に落とされた原子爆弾

2021年までに、地球上で核兵器が実戦使用されたことは2回あります。日本人であれば、その2回がどこだったかはすぐにわかるでしょう。もちろん広島長崎の2か所です。マンハッタン計画で作られた原子爆弾2発が、すぐさま実戦で使われました。

1945(昭和20)年8月6日、広島に原爆が投下。3日後の8月9日には、長崎に投下されました。2つの都市は一瞬にして壊滅し、数十万人の尊い命が奪われることとなります。投下から70年以上たった現在でも、原爆による後遺症で苦しむ人は存在するのです。

事件の被害者となった第五福竜丸とは?

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では、事件の名前にもなった第五福竜丸とは、いったいどのような船だったのでしょうか。事件の経過も合わせて見ていきましょう。

\次のページで「第五福竜丸とはどのような船だったのか」を解説!/

第五福竜丸とはどのような船だったのか

第五福竜丸はもともとは和歌山県の船で、名前を第七事代丸といいました。1947(昭和22)年に進水して以来、カツオ漁船として操業。1953(昭和28)年に静岡県の焼津港に移されて、マグロ漁船に改造されます。その時に、名前を第五福竜丸と改められました。

第五福竜丸は、長さ約30メートル・総トン数約140トンの船でした。当時としては平均的な大きさの船だったようですが、現在焼津港で操業している遠洋マグロ漁船は、長さ50メートル・総トン数400トン前後です。そのような決して大きくはない木造の船が、その後に世界を動かすこととなります。

事件当日の第五福竜丸

1954(昭和29)年1月に、第五福竜丸は焼津港を出港しました。乗組員は、久保山愛吉無線長ら23人。ミッドウェー海域を通り、マーシャル諸島海域でマグロのはえ縄漁をしていました。マーシャル諸島は当時アメリカ合衆国の信託統治領で、1986年に独立国となっています。

3月1日、第五福竜丸はマーシャル諸島のビキニ環礁近くで操業していました。その約160キロメートル先で、アメリカの水爆実験が行われたのです。爆発と轟音に危険を察知した乗組員は、急いではえ縄を収納しましたが、その間にいわゆる死の灰を浴び続けます。その灰は、船の甲板に足跡がつくほど積もりました。

帰港後の第五福竜丸と乗組員の被害状況

第五福竜丸の乗組員23人は、マーシャル海域で被爆した後すぐに帰港。ですが、海の上だったため、満足に人や船を洗浄できませんでした。帰港までの間に、火傷・倦怠感・頭痛・脱毛などの症状が乗組員に現れます。しかし、今より放射線症に関する知識がなかったため、乗組員は自らの被害をよく認識できなかったようです。

2週間かけて帰港した乗組員は、すぐに検査を受診。その結果、23人全員の被爆が認められました。そのことが新聞で報じられたとたん、重大事件として世間を騒がせることとなります。そして、事件から半年たった9月に久保山無線長の容態が急変し、事件で犠牲者が出ました。

第五福竜丸事件の原因となったのは?

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では、なぜ第五福竜丸は不幸な事件に巻き込まれたのでしょうか。その原因について詳しく見てみましょう。

キャッスル作戦とは?

1954年の3月から5月にかけて、アメリカにより計6回の核実験がマーシャル諸島で行われました。場所は、ビキニ環礁とエニウェトク環礁の2か所。アメリカが開発した水爆の性能を確かめるのが目的でした。この6度にわたる実験は、キャッスル作戦と呼ばれました。

第五福竜丸が被爆したのは、キャッスル作戦の最初に起きた爆発が原因です。アメリカはあらかじめ危険水域を設定しており、第五福竜丸はその外で操業していたはずでした。しかし、アメリカ側の想定を超えた爆発が発生。本来無関係だったはずの水爆実験に巻き込まれたのが、第五福竜丸事件の真相です。

\次のページで「核保有国による数多の核実験」を解説!/

核保有国による数多の核実験

第二次世界大戦が終わったのにもかかわらず、アメリカが何度も水爆実験したのには差し迫る理由がありました。第二次大戦の戦後処理を巡ってアメリカとソ連が対立するようになり、世界が両国を中心とする2つの勢力に分かれます。イデオロギーが異なる2つの勢力の対立は、冷戦と呼ばれました。

対立したアメリカとソ連は、核開発競争に乗り出します。武力を誇示し合うことがエスカレートした結果、2国で地球全体を攻撃しうる数まで核が作られました。さらには、イギリスやフランス、中国なども追随して核を開発。核の脅威を核の保有で対抗するという、負の連鎖に陥っていたのです。

第五福竜丸事件が与えた影響とは?

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第五福竜丸事件は、その後多くの影響を与えることになります。主なものを詳しく見てみましょう。

漁業に対する深刻な風評被害

実は、ビキニ環礁での水爆実験で被爆したのは第五福竜丸だけではありませんでした。当時の厚生省による調査だけでも、800隻以上の船が被爆したとされます。それらの船が水揚げしたマグロを合わせると、400トン以上になりました。しかし、そのマグロはすべて廃棄処分になります。

事件が明るみに出た当日から、漁業に対する風評被害がしばらく続きました。市場は閉鎖され、事件とは本来関係のない魚にも値段が付きませんでした。第五福竜丸の乗組員は、放射線が伝染するという間違った情報が広まったため、漁業から離れざるをえない状況に追い込まれます。

原水爆禁止世界大会の開催

第五福竜丸の事件が明るみに出ると、原水爆を禁止しようという運動の機運が高まりました。東京の主婦の手により始まった署名運動は、またたく間に全国に広がります。集められた署名の数は、日本国内だけで3000万以上。その結果、広島市で原水爆禁止世界大会が開かれることとなりました。

第1回の原水爆禁止世界大会が開催されたのは、事件の翌年である1955(昭和30)年の8月6日。広島市に原子爆弾が投下されてから、ちょうど10年にあたる日です。アメリカ・オーストラリア・中国・インドネシアなど11カ国の要人を含む、5000人が参加しました。それ以降、形を変えながら毎年大会は行われています。

部分的核実験禁止条約の発効

第五福竜丸事件に加え、1962(昭和37)年にキューバ危機が発覚。アメリカとソ連という核を大量保有する2カ国の対立は、全世界に核の脅威を思い起こさせることになります。その後、アメリカとソ連は話し合いに応じ、核実験を規制することに合意。1963年に、部分的核実験禁止条約が発効されました。

アメリカとソ連、それにイギリスを含む3カ国で調印された条約は、現在日本を含む100カ国以上が署名などにより参加しています。ただし、フランスや中国など、一部の核保有国が条約に参加していません。また、禁止した核実験は、あくまでも「部分的」です。水中や空中などの核実験は禁止された一方で、地下実験は除外されました。

\次のページで「現在の第五福竜丸と核兵器の状況」を解説!/

現在の第五福竜丸と核兵器の状況

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第五福竜丸事件は、原水爆禁止運動が世界中で起こるきっかけとなりました。果たして、現在の第五福竜丸と世界の核兵器は、いったいどのようになっているのでしょうか。

展示されている第五福竜丸

被爆した第五福竜丸は、さらに改造された後、東京水産大学の練習船として使われていました。ですが、1967(昭和42)年に廃船となります。しばらくは東京湾の埋立地に放置されていましたが、それを東京都の職員が発見。第五福竜丸を保存しようという運動が全国で起こります。

1976(昭和51)年、東京都江東区の夢の島公園内に東京都立第五福竜丸展示館が開館。第五福竜丸の船体やエンジン、船体に積もったいわゆる死の灰などが展示されています。核兵器による悲惨な事件が再び起きないようにという願いを込め、その展示館は建設されました。

進まぬ核の廃絶

2019年現在で核兵器保有を公表している国は、国連の常任理事国(アメリカ・ロシア・イギリス・フランス・中国)と、インド・パキスタン・北朝鮮の計8カ国です。所有が確実視されている国や核開発の疑惑が持たれている国などを含めると、10以上の国が核兵器を所有していると考えても良いでしょう。

1996(平成8)年、国連総会で包括的核実験禁止条約が採択。2017(平成29)年には、同じく国連総会で核兵器禁止条約が採択されました。しかし、包括的核実験禁止条約はまだ発効しておらず、核兵器禁止条約においては日本が参加していません。核廃絶を望んでいながら、核の傘に依存するという体質は変わっていないのです。

第五福竜丸事件を風化させてはならない

マグロ漁業に従事していた第五福竜丸は、遠方で行われていた水爆実験に巻き込まれ、乗組員全員が被爆するという事態となりました。その事件がきっかけとなり、原水爆禁止世界大会の開催や核の実験・使用を禁止する数々の条約発効などにつながります。しかし、核兵器の開発や保持をする国は増える一方です。今こそ第五福竜丸事件で得た教訓を見つめ直し、核の恐ろしさを後世まで語り継ぐべきでしょう。

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現代社会

原水爆禁止運動のきっかけとなった「第五福竜丸事件」とは?事件の概要やその後の影響などを歴史好きライターがわかりやすく解説!

今回は、第五福竜丸事件について学んでいこう。

マグロの遠洋漁業をしていた第五福竜丸が、水爆実験により被爆したという悲惨な事件は、世界中に衝撃を与えたぞ。

第五福竜丸事件が起きた原因や、その後の原水爆禁止運動に与えた影響などを、日本史に詳しいライターのタケルと一緒に解説していきます。

ライター/タケル

資格取得マニアで、士業だけでなく介護職員初任者研修なども受講した経験あり。現在は幅広い知識を駆使してwebライターとして活動中。

核兵器とその使用について

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はじめに、第五福竜丸事件を知るためには、核兵器について知る必要があります。まずは核兵器の開発や使用について見ていきましょう。

核兵器の開発

核分裂反応により大きなエネルギーが発生することは、1930年代に発見されていました。しかし、発電のために原子力が使われだしたのは、1950年代に入ってからのことです。1939(昭和14)年、第二次世界大戦が勃発したのを機に原子爆弾の開発が進められました。平和利用される前に兵器として原子力が使われたのは、不幸というしかありません。

アメリカでは、極秘裏のうちに核開発が進んでいました。作戦本部の場所からマンハッタン計画と呼ばれ、多くの予算と人員が投入されます。そして、1945(昭和20)年7月に、3発の原子爆弾が完成。そのうちの1発を、アメリカ国内の砂漠で人類初の核実験として爆発させました。

広島と長崎に落とされた原子爆弾

2021年までに、地球上で核兵器が実戦使用されたことは2回あります。日本人であれば、その2回がどこだったかはすぐにわかるでしょう。もちろん広島長崎の2か所です。マンハッタン計画で作られた原子爆弾2発が、すぐさま実戦で使われました。

1945(昭和20)年8月6日、広島に原爆が投下。3日後の8月9日には、長崎に投下されました。2つの都市は一瞬にして壊滅し、数十万人の尊い命が奪われることとなります。投下から70年以上たった現在でも、原爆による後遺症で苦しむ人は存在するのです。

事件の被害者となった第五福竜丸とは?

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では、事件の名前にもなった第五福竜丸とは、いったいどのような船だったのでしょうか。事件の経過も合わせて見ていきましょう。

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