恋多き男だったフランツ・カフカ
1914年8 月。フェリーツエと婚約するものの、結婚によって執筆が妨げられることを恐れて、結婚を決断できず懊悩。二人の間を取り持とうと相談に乗ってくれたフェリーツエの友達グレーテと親しくなります。グレーテの名前は代表作『変身』で、主人公の妹に使われました。結局、カフカは婚約を解消。その直後第一次世界大戦が勃発します。小説で身を立てる夢は頓挫。カフカは戦争についてはほとんど言及していません。
1915年1月、まさに戦争のさなか、カフカはフェリーツエトと再会。1917年にふたたび婚約します。しか、カフカは肺結核と診断。12月に婚約解消しました。その前後も多くの女性と交際。交際が始まるとすぐに大量の手紙を送るのがカフカ流でした。カフカは女性との関係が終わると、もらった手紙を処分。しかし、相手の女性はカフカの手紙を保存していることが多く、今でも残っています。
スポーツマンだが病弱なフランツ・カフカ
結核と診断されたカフカは、会社に長期休暇を申請。チェーラワという村に、妹と一緒に住み込んで、ヘブライ語の勉強を始めます。ここでの体験が『城』に反映されました。
長期療養と職場復帰を繰り返すフランツ・カフカ
カフカはこの村での8カ月が、いちばん幸せだったと述べています。このときの妹の献身的な世話は『変身』にも反映されました。その後、長期療養と職場復帰を繰り返します。それを許してくれたのが「労働者障害保健協会」という職場。ずいぶんと寛容だったことが分かります。
この間、ユーリエと言う女性と知り合い、熱烈な恋に落ちて婚約。またもいろいろな不安と迷いに襲われ、婚約を解消しました。そして1922年7月、39歳で最後の恋人ドーラと出会います。しかしながらカフカの病状が悪化。ウィーン郊外のサナトリウムに移りますが、1924年8月3日に亡くなりました。最後を看取ったのは21歳のドーラ。遺体はプラハのユダヤ人墓地に葬られました。
友だちも恋人も多かったカフカの人生
病弱なカフカの生涯は暗いものに感じられます。しかし実際は、大学ではテニス、保険会社に勤めているころは水泳、サナトリウムではスキーに熱中するなど、スポーツマンとしての一面もありました。
さらには、朗読会にもよく参加し、友人もたくさんいたそうです。友人たちの証言によると、カフカはもの静かで、繊細で優しい、人の話に良く耳を傾ける人柄。恋人も途切れることなくおり、その人生は、決して暗いものではありませんでした。
短編集をたくさん残したフランツ・カフカ
生前に発表されたカフカの作品はほとんど短編。未完のまま終わったものも多数あります。生きているときに出版された小説は7作のみ。作家として不動の地位を築いたのは、友人のマックス・ブロードが遺稿を発表してからです。
\次のページで「出版は生前と死後に分かれている」を解説!/