フランツ・カフカは、プラハのユダヤ人家庭に生まれた小説家。生前はそれほど高く評価されなかったが、亡くなったあと友人のマックス・ブロードにより、遺稿が発表されたことをきっかけに再評価されるようになった。

第一次世界大戦後、敗戦により精神的危機に陥ったドイツの様相を思わせる『変身』は一読の価値がある。そんなカフカの生涯や世界観について、世界史に詳しいライターひこすけと一緒に解説していきます。

ライター/ひこすけ

アメリカの歴史や文化を専門とする元大学教員。カフカの小説は高校生のときに初めて読んで衝撃を受けた。恐ろしいほど暗くて奇妙なカフカの世界観の源泉について考えてみることにした。

フランツ・カフカとはどんな人物?

image by PIXTA / 1333105

フランツ・カフカは、1883年7月3日にプラハのユダヤ人家庭に生まれました。生前はそれほど高く評価されませんでしたが、1924年6月3日に亡くなったあと、友人のマックス・ブロードが遺稿を発表。それをきっかけに再評価されるようになりました。実存主義文学と評され、世界的なブームに。現在では20世紀文学を代表する作家と位置づけられています。

ユダヤ家庭に生まれたフランツ・カフカ

フランツ・カフカの父ヘルマンは高級小間物店を経営する商人。母はユーリエです。二人ともユダヤ人で、家では父はチェコ語、母はドイツ語を話していたとのこと。母は多くの成功者や学者を輩出しているユダヤの名門の出身でした。カフカは自分では、母方の血をより多く受け継いで作家になったと思っていました。

カフカは長男。2年後に、二男ゲオルク、その2年後に3男のハインリヒが生れましたが、二人とも幼くして亡くなりました。続いて3人の女の子が生まます。妹たちには大きな影響を受け、成人してからは、精神面でも物質面でもいろいろ助けてもらっていました。その反面、厳格な父とは、生涯、心が通わなかったようです。この家庭環境は、カフカの代表作である『変身』に投影されました。

初等教育時代に作家になる夢を抱くように

フランツ・カフカは1889年9月、小学校に入学するものの、成績はパッとしませんでした。もの静かで目立たない、勉強の嫌いな子どもでした。1893年にギムナジウムに入学。授業の大半がラテン語と古代ギリシャ語でした。彼はここでホメロスなどの古典を学び、当初は成績優等生だったものの、しだいに降下。卒業試験にやっと合格するありさまでした。

このときカフカが目覚めたのがボート。これをきっかけに生涯、スポーツを愛しました。また、ダーウィン・ニーチェに関心をもち、実証主義、社会主義にも触れるようになったのもこのころ。初等教育時代、彼は作家になるという夢を育んだようです。

大学時代からカフカは小説執筆に熱中

image by PIXTA / 61135741

1901年、カフカはプラハ大学に入学。最初は科学を専攻。次に法学専攻、美術史、ドイツ文学と専攻を転々とします。また、詩や創設の朗読会、有名作家の講演会にも積極的に参加するようになりました。

大学時代にマックス・ブロートと出会う

1902年10月に出会ったのがマックス・ブロート。カフカの死後、彼の作品を世界に紹介した人物です。マックスは新進作家として名をなしていました。マックスはカフカの才能を見出し、勉強会に誘ったり朗読会を催したりします。このころのカフカと父の仲は険悪。成績も振るわず、かろうじて大学終了試験に合格しました。

1907年10月、フランツ・カフカはイタリアの保険会社のプラハ支店に就職。激務のために小説執筆もできず、プラハ市内の「労働者障害保険協会」に転職しました。このころ、4歳年下のフェリーツエという女性と知り合い、熱烈なラブレターを送るように。ゆとりがある職場だったため執筆を再開させたのもこのころです。

\次のページで「恋多き男だったフランツ・カフカ」を解説!/

恋多き男だったフランツ・カフカ

1914年8 月。フェリーツエと婚約するものの、結婚によって執筆が妨げられることを恐れて、結婚を決断できず懊悩。二人の間を取り持とうと相談に乗ってくれたフェリーツエの友達グレーテと親しくなります。グレーテの名前は代表作『変身』で、主人公の妹に使われました。結局、カフカは婚約を解消。その直後第一次世界大戦が勃発します。小説で身を立てる夢は頓挫。カフカは戦争についてはほとんど言及していません。

1915年1月、まさに戦争のさなか、カフカはフェリーツエトと再会。1917年にふたたび婚約します。しか、カフカは肺結核と診断。12月に婚約解消しました。その前後も多くの女性と交際。交際が始まるとすぐに大量の手紙を送るのがカフカ流でした。カフカは女性との関係が終わると、もらった手紙を処分。しかし、相手の女性はカフカの手紙を保存していることが多く、今でも残っています。

スポーツマンだが病弱なフランツ・カフカ

image by PIXTA / 1333105

結核と診断されたカフカは、会社に長期休暇を申請。チェーラワという村に、妹と一緒に住み込んで、ヘブライ語の勉強を始めます。ここでの体験が『城』に反映されました。

長期療養と職場復帰を繰り返すフランツ・カフカ

カフカはこの村での8カ月が、いちばん幸せだったと述べています。このときの妹の献身的な世話は『変身』にも反映されました。その後、長期療養と職場復帰を繰り返します。それを許してくれたのが「労働者障害保健協会」という職場。ずいぶんと寛容だったことが分かります。

この間、ユーリエと言う女性と知り合い、熱烈な恋に落ちて婚約。またもいろいろな不安と迷いに襲われ、婚約を解消しました。そして1922年7月、39歳で最後の恋人ドーラと出会います。しかしながらカフカの病状が悪化。ウィーン郊外のサナトリウムに移りますが、1924年8月3日に亡くなりました。最後を看取ったのは21歳のドーラ。遺体はプラハのユダヤ人墓地に葬られました。

友だちも恋人も多かったカフカの人生

病弱なカフカの生涯は暗いものに感じられます。しかし実際は、大学ではテニス、保険会社に勤めているころは水泳、サナトリウムではスキーに熱中するなど、スポーツマンとしての一面もありました。

さらには、朗読会にもよく参加し、友人もたくさんいたそうです。友人たちの証言によると、カフカはもの静かで、繊細で優しい、人の話に良く耳を傾ける人柄。恋人も途切れることなくおり、その人生は、決して暗いものではありませんでした。

短編集をたくさん残したフランツ・カフカ

image by PIXTA / 64944386

生前に発表されたカフカの作品はほとんど短編。未完のまま終わったものも多数あります。生きているときに出版された小説は7作のみ。作家として不動の地位を築いたのは、友人のマックス・ブロードが遺稿を発表してからです。

\次のページで「出版は生前と死後に分かれている」を解説!/

出版は生前と死後に分かれている

生前に出版されたものは、『観察』(1912)、『火夫』(1913)、『変身』(1916)、『判決』(1916)、『流刑地にて』(1919)、『田舎医者』(1920)、『断食芸人』(1924)の7作品のみ。死後、マックスにより発表されたのが、『審判』(1925)、『城』(1926)、『失踪者』(1927)、『アメリカ』(1927)などです。

死後にカフカは再評価され、実存主義的見地から注目されるようになりました。カフカの不条理な世界観は、若者を中心に世界的なブームに。カフカの死後、ちょうどドイツではナチス・ヒットラーがユダヤ人大量虐殺の道を進み始めます。現実世界も不条理な出来事に襲われ、余計の多くの人の心を惹きつけたのでしょう。現在では20世紀を代表する文学と言われるようになりました。

代表作となるのが『変身』

カフカの代表作として不動の地位を築いているのが、第一次世界大戦後のドイツの精神的危機を思わせる暗くて奇妙な小説『変身』です。とても暗い作品ですが、カフカ自身は友人の前でこの作品を朗読する時には、笑ったり拭き出したりしていました。

執筆されたのは1912年11月ころ。1915年の月刊誌『ディ・ヴァイセン・ブレッター』10月号に掲載されています。カフカ自身、他の短編と合わせて出版を目指しましたが、採算が合わないと実現しませんでした。

カフカの『変身』のストーリーは意味不明

image by PIXTA / 37931535

『変身』のスタートは朝。主人公のグレゴール・ザムザが目を覚ますと、巨大なムシになっていました。なぜムシになったのか、どんなムシなのかは記されていません。突然、理解不可能な不条理がグレゴールを襲います。

ある朝、ムシになった男が主人公

それまでのグレゴールの生活はまじめそのもの。両親と妹を養い、それなりに良い家に住まわせ、妹グレーテが音楽学校に行く資金を貯めていました。そのためグレゴールは、ムシになった体で、必死に外へ出て働こうとしますが当然無理。この場面は読むだけで切なくなります。

一匹の大きなムシを見た父は泣き、母はへたりこみ、様子を見に来た支配人は逃げ出しました。妹は、気持ちが悪いと思いながらも必死に耐えました。家族がこのムシを見て、なぜ、グレゴールだと分かったかは記されていません。このあたりも意味不明です。

不条理を受け入れる家族たち

家族は不条理な事実を受け入れ、生活費を稼ぐために、両親とグレーテは働きに出ます。グレーテは働きながらムシの世話もしました。一家の稼ぎ手が一家の重荷になってから、家族は徐々に変化。不条理な事実を受け入れ、立ち直っていきます。しかしながらグレーテは、ムシの世話が徐々に重荷になってきました。

グレゴールは天井や壁をじょうずにはい回るようになり、それなりに平穏な暮らしをしていました。しかしある日、父はムシのグレゴールにリンゴを投げつけます。グレゴールは、背中にリンゴをのめりこませたまま傷で苦しみました。仕事で忙しいグレーテは、ムシの世話をする女を雇います。女はムシを怖がりもせず、からかうありさまでした。

\次のページで「カフカの『変身』はハッピーエンド?」を解説!/

カフカの『変身』はハッピーエンド?

image by PIXTA / 64040523

カフカの『変身』は、ムシになってしまった男の悲しい話。しかし、どこかハッピーエンドを思わせる終わり方をしています。そんな終わり方もまた不条理なものでした。

家族に見放されたムシのグレゴール

家族の家の一室を3人の紳士に貸し出すことに。そんなとき、グレーテのバイオリンを聞いた紳士は、部屋にグレーテを呼んで演奏させることになります。その音色に感動したグレゴールは、部屋から出て紳士たちの部屋をのぞきました。紳士たちは化け物がいると激怒。家賃を払わず部屋を引き払いました。

この一件をきっかけに、グレーテがムシのグレゴールを見捨てることを提案。家族は同意します。グレゴールは、絶望しながらも家族を恨むことなく息絶えました。父、母、妹は、久しぶりに揃って散策へ。父母はムシがいなくなった今、グレーテに素敵なお婿さんを見つけてやることを誓います。

カフカはムシを何の象徴と捉えた?

家族の心の変容は冷たいと言っていいのでしょうか。このムシは家を出て行くべきだと言うグレーテは冷徹な女性なのでしょうか。今まで一生懸命働いて、家族に良い暮らしをさせてきたグレゴールに対する家族の態度は賛否が分かれます。

また、グレゴールが変身したムシの種類も不明。毛虫のようなもの、ゴキブリのようなもの、いろいろ考えてしまいます。ドイツ語の原文では「鳥や小さな動物も含む有害生物一般」。当時のヨーロッパの人々の解釈では「ごきぶり」だったようです。

不条理の文学の最高峰のカフカ

カフカの名声は1930年から1940年代に高まり、サリンジャーやメイラーなど多くの作家に影響を与えました。 カフカの作品は、孤独でありながらユーモラス、現実的でありながら夢の世界をさまようような雰囲気がありました。そのため作品の解釈も多種多様。カミュの『ペスト』とともに「不条理の文学」の地位を築きました。

" /> 不条理の文学の最高峰となる小説家「カフカ」について元大学教員が5分でわかりやすく解説 – ページ 2 – Study-Z
ドイツヨーロッパの歴史世界史

不条理の文学の最高峰となる小説家「カフカ」について元大学教員が5分でわかりやすく解説

恋多き男だったフランツ・カフカ

1914年8 月。フェリーツエと婚約するものの、結婚によって執筆が妨げられることを恐れて、結婚を決断できず懊悩。二人の間を取り持とうと相談に乗ってくれたフェリーツエの友達グレーテと親しくなります。グレーテの名前は代表作『変身』で、主人公の妹に使われました。結局、カフカは婚約を解消。その直後第一次世界大戦が勃発します。小説で身を立てる夢は頓挫。カフカは戦争についてはほとんど言及していません。

1915年1月、まさに戦争のさなか、カフカはフェリーツエトと再会。1917年にふたたび婚約します。しか、カフカは肺結核と診断。12月に婚約解消しました。その前後も多くの女性と交際。交際が始まるとすぐに大量の手紙を送るのがカフカ流でした。カフカは女性との関係が終わると、もらった手紙を処分。しかし、相手の女性はカフカの手紙を保存していることが多く、今でも残っています。

スポーツマンだが病弱なフランツ・カフカ

image by PIXTA / 1333105

結核と診断されたカフカは、会社に長期休暇を申請。チェーラワという村に、妹と一緒に住み込んで、ヘブライ語の勉強を始めます。ここでの体験が『城』に反映されました。

長期療養と職場復帰を繰り返すフランツ・カフカ

カフカはこの村での8カ月が、いちばん幸せだったと述べています。このときの妹の献身的な世話は『変身』にも反映されました。その後、長期療養と職場復帰を繰り返します。それを許してくれたのが「労働者障害保健協会」という職場。ずいぶんと寛容だったことが分かります。

この間、ユーリエと言う女性と知り合い、熱烈な恋に落ちて婚約。またもいろいろな不安と迷いに襲われ、婚約を解消しました。そして1922年7月、39歳で最後の恋人ドーラと出会います。しかしながらカフカの病状が悪化。ウィーン郊外のサナトリウムに移りますが、1924年8月3日に亡くなりました。最後を看取ったのは21歳のドーラ。遺体はプラハのユダヤ人墓地に葬られました。

友だちも恋人も多かったカフカの人生

病弱なカフカの生涯は暗いものに感じられます。しかし実際は、大学ではテニス、保険会社に勤めているころは水泳、サナトリウムではスキーに熱中するなど、スポーツマンとしての一面もありました。

さらには、朗読会にもよく参加し、友人もたくさんいたそうです。友人たちの証言によると、カフカはもの静かで、繊細で優しい、人の話に良く耳を傾ける人柄。恋人も途切れることなくおり、その人生は、決して暗いものではありませんでした。

短編集をたくさん残したフランツ・カフカ

image by PIXTA / 64944386

生前に発表されたカフカの作品はほとんど短編。未完のまま終わったものも多数あります。生きているときに出版された小説は7作のみ。作家として不動の地位を築いたのは、友人のマックス・ブロードが遺稿を発表してからです。

\次のページで「出版は生前と死後に分かれている」を解説!/

次のページを読む
1 2 3 4
Share: