現代社会

「立憲政友会」とは?歴代総裁と二大政党制成立に至る歴史を現役会社員ライターが分かりやすくわかりやすく解説!

加藤高明護憲三派内閣発足

政友本党政友会本流として活動してきた床次清浦内閣でしたが、清浦内閣以前から非政党内閣連続していたことで、政友会改造派を中心に第二次護憲運動(藩閥政治への逆戻りに反対する運動)が起こります。その影響で政友本党は選挙で議席数を獲得できず、清浦内閣は退陣。これに代わって発足したのが加藤高明を首相とした護憲三派内閣です。護憲三派とは、第二次護憲運動を推し進めた高橋是清率いる政友会改造派加藤高明の所属する憲政会(詳細は後述)、犬養毅らの所属する革新倶楽部の3つの政党を指しており、前述した3名の会合によって成立しました。しかし、その後革新倶楽部政友会に吸収され、加藤高明内閣総辞職時には護憲三派解消されました。

二大政党、立憲民政党との関係

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立憲民政党反政友会政党として1927年6月に結成されました。その前身は憲政会政友本党です。当時第一党であった政友会に対抗すべく第二党であった憲政会と第三党であった政友本党が連合して打倒政友会を目指したものでした。憲政会とは前述の西園寺公望と交互に政権を担った桂太郎が主導となって結成した立憲同志会をルーツに持つ政党。民政党結成に際して初代総裁となったのは憲政会の浜口雄幸でした。これ以降10年以上にわたって民政党は反政友会政党として活動を続けることとなり、加藤高明内閣以降、政友会とともに二大政党制を確立していきます。

立憲民政党の結成

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加藤高明による護憲三派内閣の総辞職後、護憲三派解散すると憲政会第一党となり加藤高明憲政会内閣が発足しました。しかしその後若槻憲政会内閣を経て政権は再び政友会に戻り、陸軍出身の田中義一政友会内閣が成立します。この田中内閣の発足をきっかけに、再び政権を政友会から奪取すべく結成されたのが立憲民政党でした。民政党は発足時に、普通選挙を実施し、議会中心政治を行うことを目標理念に掲げて活動を開始しました。

政友会との対立

立憲民政党は結成直後から田中政友会内閣への批判を展開しました。それは主に以下の二点からでした。一つは松島遊郭疑惑です。これは1926年に発覚した松島遊郭移転を巡る贈収賄事件で、当時政友会幹部の岩崎勲の関与が疑われていました。公判中に岩崎は病死し罪に問われぬままとなっていましたが、民政党員で弁護士経験を持つ斎藤は岩崎の有罪を確信し、政友会の不道徳を追求しました。

これ以降も民政党は政友会の対抗勢力として問題が起きるごとにその責任を追及するという構図定着していきました。

田中義一内閣の対応

一方の田中義一政友会内閣は発足当時党内の分裂問題等に追われ、民政党の追及に対して守勢に立たされました。こうした状況下でも政友会が政権を維持できたのは、政策有効に機能したからです。当時の日本では好況であった大戦景気から一転して戦後不況に陥っており、田中内閣は党内の混乱の平定と合わせて、適切な金融政策の実施が求められました。田中内閣は高橋是清を指名して対応に当たらせ、この金融恐慌を乗り切ります。

そして外交政策に関しては列国協調路線(欧米の列強国との協調を重視する方針)を一貫して主張。これは国際的民主化、すなわちデモクラシーの波を受け入れロシア協力関係を築くことを主張した民政党とは相反する方針でしたが、この路線選択が直近の日本の安全保障に結び付いたと言えます。

浜口民政党内閣の成立、民政党の政権獲得と「憲政の常道」

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田中率いる政友会内閣は順調に思われましたがその後中国にて蒋介石による北伐が開始されるとその混乱日本にも波及し、これに対してうまく立ち回ることができなかった田中内閣は総辞職することとなりました。その後政権民政党に移り、浜口民政党内閣が発足します。

この度の浜口内閣発足が意味するものは、二大政党制確立でした。すなわち政友会と民政党の二大政党が交互に政権の座に就き、政策を競うことでより憲政発展させるという一つの様式が確立されたと言えます。この二大政党制の確立は「憲政の常道」と言われ、これは現代政治体制の礎が確立されたともいえることでした。ここから政友会は新総裁犬養毅を迎え、野党として浜口民政党内閣に対抗していくことになるのです。

\次のページで「現代にも繋がる政党内閣と二大政党制の成立」を解説!/

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