今回は日本の政治史における「桂園時代」について取り上げる。これは日露戦争前後の10年余りを2人の政治家が交互に総理大臣を務めた時代をさすものです。派閥間で対立と妥協をかさねながら第一次桂内閣から第二次西園寺内閣までの4期を桂太郎と西園寺公望の二人が担っていた。この間に日露戦争を含めて日本は帝国主義への道を歩み、東アジアにおける植民地支配を拡大していったんです。同時に国内においては貴族政治から政党政治への歩みを始めた時代でもある。今回は桂園時代の外交関係を中心に会社員ライターのけさまると一緒に解説していきます。

ライター/けさまる

普段は鉄鋼系の事務をしながら、大学時代の人文学科での経験を生かして執筆活動に取り組む。学生時代の研究テーマはイスラームについて。

桂園時代の足掛け

2人の人物が互いに同意のうえで交互に内閣総理大臣を務めるという特殊な状況が生まれたのには現代と異なる政治背景がありました。この項ではそうした政治的背景と合わせて今回の主題である外交的背景、日本全体の時代背景を解説します。

〈時代背景〉文明開化を経て帝国主義の時代へ

具体的に桂園時代とよばれるのは第一次桂内閣が発足した1901年(明治34年)から第二次西園寺内閣総辞職するまでの1913年(大正元年)までをさすのが通常です。当時日本は江戸から明治への文明開化の時代を経て西洋技術を盛んに取り入れ、その勢いで1894年に開戦した日清戦争に勝利。列強諸国と対等な関係を築くべく帝国主義国家として歩みを進めていました。諸外国へ留学する政治家も多く、桂太郎ドイツで主に軍事額を学び、西園寺公望フランスで法律学を学ぶなど、桂園時代の築く二人も例外ではありませんでした。

〈外交背景〉日清戦争後の東アジア情勢と植民地

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日清戦争に勝利した日本は下関条約を締結。清国は日本に対して朝鮮の清国からの独立、多額の賠償金の支払い、遼東半島台湾等領土割譲を承認しました。日本もまた帝国主義国家として植民地を獲得したのです。日本はここから朝鮮の支配確立しようと目論見ますが、朝鮮駐在の日本人が朝鮮国内で事件を起こしたことなどから日本の影響力後退し、変わってロシアの影響力が朝鮮において大きくなっていきました。以降、日露戦争までの間両国は朝鮮満州支配権を巡っての交渉が続くこととなります。一方、敗戦国となった清国では西洋列強国により領地分割が進められ、各々の国家が支配権を獲得していきました。

〈政治背景〉今はなき「元老」の存在と立憲政友会

現在の日本の政治体制と当時の大きな違いの一つは「元老」の存在です。いわゆる貴族階級であり、薩長派閥のトップにいた彼ら「元勲級指導者」たちは一種の政権寡占クラブを形成し、天皇に代わって首相の選考もしていました。そのため、第一次桂内閣が成立するまでは主に彼らの中から首相が選出されていました。桂園時代を迎えて以降第一線を退き「元老」と呼ばれるようになりましたが、当時の政治活動には彼らの支持を得ることが必要不可欠であり、元老会議の決定は閣議決定以上の影響力を持っていました。元老には初代総理大臣である伊藤博文も含まれていました。

そのため、元老が総理大臣に就任した当時の内閣は政党を中心としたものではなく組閣後の結束、連携が不十分でした。その状況を打破すべく政党政治(同じ政党内の人物を中心に内閣を構成する政治形態)を目指す動きが各所で起こり始めます。伊藤博文が結成した「立憲政友会」という政党もその一つでした。この立憲政友会に所属していたのが西園寺公望であり、桂太郎はその対抗勢力という位置づけにありました。桂は時に政友会と対立し、時には妥協して折衷案を認めながら、政界で活躍します。桂園時代とはいわば、この対立落ち着き、両者が政治的に同じ方向を向いていた時期を表すとも言えるでしょう。

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桂園時代と日露戦争

桂園時代は桂太郎が1901年に第一次桂内閣を組閣し総理大臣に就任したところから始まります。その後、西園寺公望と交互に政治を担い、1906年から1908年までが第一次西園寺内閣の任期となりました。から西園寺への政権譲渡互いの合意のもとに実施されました。

第一次桂内閣と日英同盟

桂太郎
不明 - この画像は国立国会図書館ウェブサイトから入手できます。, パブリック・ドメイン, リンクによる

日英同盟の交渉は前任第4次伊藤内閣の時から始まっていましたが、イギリス側の同盟への賛否は何とも曖昧な状況でした。その後桂内閣に移ってからイギリス側から具体的な同盟の草案提出され、反対に日本が同盟への姿勢を見せる時が訪れます。当時日本では伊藤博文ロシアとも並行して交渉を行っており、イギリスへの返答には元老の中心でもある伊藤の同意が必要でした。

しかしイギリスへの返答を引き延ばすことも難しい状況であったため、桂は伊藤の不在中日英同盟の修正案を天皇へ奏上。締約国の一方が一国と交戦する場合は一方は中立を守り、二国以上と交戦する場合には参戦することを定めました。

日露戦争と植民地支配の確立

第一次桂内閣の任期における最大の事件日露戦争といえるでしょう。日本はロシアに対して「日本が韓国を支配し、ロシアが満州を支配する」という「満韓交換論」を掲げ、これをロシア側に提示。しかし、日本側が自国に有利な条件を提示したこともあり交渉上手くいかず1904年にとうとう日露戦争が開戦しました。

桂は戦闘行為陸海軍一任し、自らの職務は外交政策や戦費の調達、治安維持、そして人心の統一であるとしてこれに注力。日本軍は開戦早々に朝鮮の首都であった漢城を制圧し、さらに進軍を進めました。この勢いを以て日本は韓国への支配を確立。やがて、当時ロシア側と交渉していた「満韓交換論」から満韓ともに日本の支配下に置くという考え方に移行していきます。その後日露戦争に勝利した日本はポーツマス条約によって南樺太半分割譲され、韓国、遼東半島の支配権を一定程度まで確立。しかし、日本側にも交渉を長引かせる財政的な余裕がなかったことで日清戦争時のように賠償金を獲得することはできず、戦時中の重税に苦しんできた国民に対して大きな不信感を抱かせる結果となりました。

第一次西園寺内閣と韓国保護国化、満州問題

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不明 - この画像は国立国会図書館ウェブサイトから入手できます。, パブリック・ドメイン, リンクによる

日露戦争後に残された課題は主に3つありました。それは満州問題韓国保護国化、そして財政問題です。戦後の桂内閣は各省から提出される来年度の予算案を最小限にとどめさせた状態で西園寺公望後任に指名しました。こうして桂園時代における第一次西園寺内閣が発足します。日露戦争勝利という実績を上げた「準元老」ともいえる立場で西園寺内閣介入していきました。西園寺公望は伊藤の後継者として政友会総裁となって総理大臣に就任し、内相に任命された原敬らとともに執政に取り組みました。

課題への対応として満州では遼陽に総督府が設けられ、「軍政実施要領」を制定し、諸外国の活動は事実上排除されていました。また、韓国にも統監府を設置し、伊藤博文を統監に指名します。一方ポーツマス条約で賠償金獲得できなかったことが大きな痛手となり、財政ひっ迫してました。その結果、諸税値上げ等を断行するほか政府に手だてはなく、これらが国民の生活に戦勝の成果として還元されることはあまりありませんでした。

桂園間の情意投合の時代

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やがて1908年から1911年までを第二次桂内閣が、1911年(大正元年)から1912年まで第二次西園寺内閣が政治を行いました。この間両者は第一次西園寺内閣組閣時と同様に互いの合意の上で交互政権を担いました。この体制は第三次桂内閣まで続きますが、第三次桂内閣組閣時には既に両者の合意関係破綻していたため、第二次西園寺内閣までを桂園時代と呼ぶのが一般的です。

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第二次桂内閣と韓国併合

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Sunjong of Korean Empire - "서울대이태진교수의동경대생들에게들려준한국사 : 메이지일본의한국침략사", Yi Tae-jin (2005) p. 211. ISBN 89-7626-999-3, パブリック・ドメイン, リンクによる

日本は日露戦争を経て韓国に対して一定の支配権を確立していましたが、これを併合するとなると同盟国のイギリス国境の隣接するロシアの同意が不可欠でした。このころの外交関係はというと日露戦争後移民問題などから日米関係冷え込みが見られるようになります。そのタイミングでアメリカから「満州鉄道中立化提案」が出され、これは日露満州支配における優位性を覆すことが狙いでした。日露共同でこれを拒否し、日露仏親密化へとつながりました。経緯はどうあれロシアとの対立緩和されたタイミングで桂は韓国併合断行します。

併合後の韓国支配においては憲法施行せず、いっさいの政務を統括する総督を設置することを閣議決定しました。その後覚書によって警察行政日本政府に委託され憲兵警察制度が導入されました。この制度は日本の朝鮮統治における「武断政治」象徴となりました。そして内閣総辞職時に桂は明治天皇から元勲優遇の詔勅を受け、正式元老の仲間入りを果たしました。

第二次西園寺内閣と辛亥革命への対応

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第二次桂内閣の後、再び第二次西園寺内閣が組閣されました。そしてこの発足から2か月も立たないうちに清国にて辛亥革命が起こります。これを受けて内閣では満州の現状維持等決定し、今後の混乱に備えて英露、とくにイギリスとは意思統一の元立憲君主制清国に促し官軍革命軍調停を斡旋するよう方針決定しました。

しかし、イギリスはすでに清国統治能力を見限り始めていたため「内政干渉になってしまう」ということを理由に日本からの事態収束策拒否します。さらにイギリス秘密裏官軍革命軍間仲介を行い停戦させたことで日本はイギリスから出遅れた形となりました。その後中国の南京臨時政府が設けられると孫文臨時大統領に就任し、中華民国が成立。これにより当初閣議決定していた、清国への立憲君主制導入頓挫したことになり、桂を始めとする政治関係者から西園寺内閣への不信感が高まりました。

桂園時代には、世界的な事件がたくさん起こっており、それに伴い国内情勢についても不安定な時代でした。日露戦争を経て、台湾に続いて満州、朝鮮を植民地化し、アジア諸国が西洋諸国に植民地化される中で日本は列強国への仲間入り。日本の植民地化を回避できた一方、日本は帝国主義思想のもと国家的侵略行為を進めてきたとも言えます。これらの代償は財政問題となって常に彼らに降りかかっており、日韓関係等においては後世までその影響が続いているのです。

桂園時代以降、桂と西園寺はともに政治の表舞台から退き日本の政治は次世代に引き継がれていきます。

桂園時代の終焉

桂園時代は一般的に前項の第二次西園寺内閣までとされています。第二次西園寺内閣での重要課題辛亥革命後の外交関係と、日露戦争後の財政立て直しでしたが、この財政政策において西園寺は有効な手立てが見つからず、桂や政友会の中心的存在だった原敬らは不満を募らせました。こういった経緯もあり情意投合の時代は終わりを迎えたのでした。

第三次桂内閣を組閣

前項の第二次西園寺内閣の任期中明治天皇没し、皇太子嘉仁が践祚、時代は大正に移ります。それから間もなく内大臣兼侍従長いわば天皇の専属補佐官就任天皇を中心とする宮中政府はそれぞれ独立した機関であり、表面上桂は政治の表舞台から裏方へ回ったともいえます。

やがて西園寺内閣総辞職すると、その後継首相を巡って連日元老会議が開かれていました。しかし当時の政府内適任者は見つからず、宮中にいたに白羽の矢が立ちます。最終的に桂は即位後間もない大正天皇より宮中からの政府入りを許可する勅語を受け、第三次桂内閣が発足。しかしこれは「宮中府中(政府)の別を紊す(乱す)」として世論から酷評を受けました。あくまで内大臣という宮中の人間と政府は別物であり行政において表面上交わるべきではないというのが世間の認識でした。

その後西園寺の援護を受けつつ新党結成を目指しますが、内閣への不信感を拭うことはできませんでした。最終的に第三次桂内閣はわずか2か月余りしか続かず、総辞職後まもなく病床に伏した桂は1913年10月にこの世を去ります。

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西園寺公望の撤退、新たな政治世代へ

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第三次桂内閣総辞職後の西園寺には再び内閣を組閣するという意欲はなく宮中のことに尽力したいと考えていました。そして1914年西園寺は政友会総裁辞任し、後継者には後に初の平民宰相となる原敬が就任しました。西園寺は総裁辞任後政治の表舞台から姿を消しますが、政友会資金管理をしながら密に情報やり取りしていました。桂の辞職後には海軍大将であった山本を筆頭に第一次山本内閣、桂園時代の前に板垣退助とともに不完全ながら初の政党内閣(隈板内閣)を発足させた大隈による第一次大隈内閣、といった新たな政治世代に移りかわります。そして時代は元老等の貴族階級を中心とした政治から政党政治の時代へと移り変わっていくのです。

政治、外交面における移り変わりの時代

桂園時代は外交、国内政治ともに大きな移り変わりの時期でした。外交においては東アジアにおける植民地を拡大するとともにその支配権を確立し、こうした動きからやがて日本は世界大戦の渦中へ歩みを進めていくことになります。

また内閣において桂園時代は、従来の貴族階級中心の組閣と政党を組んでその政党を中心に組閣する政党政治の移り変わりのときでもありました。戦争への歩みは多くの犠牲を生んだ過ちです。列強国との対等な関係を目指した彼らの政治手腕と情熱、そして当時の元老との政治駆け引きについては現在でも賛否両論となっています。

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現代社会

桂園時代とは?日露戦争を経て植民地支配に至る歴史を会社員ライターが分かりやすくわかりやすく解説!

今回は日本の政治史における「桂園時代」について取り上げる。これは日露戦争前後の10年余りを2人の政治家が交互に総理大臣を務めた時代をさすものです。派閥間で対立と妥協をかさねながら第一次桂内閣から第二次西園寺内閣までの4期を桂太郎と西園寺公望の二人が担っていた。この間に日露戦争を含めて日本は帝国主義への道を歩み、東アジアにおける植民地支配を拡大していったんです。同時に国内においては貴族政治から政党政治への歩みを始めた時代でもある。今回は桂園時代の外交関係を中心に会社員ライターのけさまると一緒に解説していきます。

ライター/けさまる

普段は鉄鋼系の事務をしながら、大学時代の人文学科での経験を生かして執筆活動に取り組む。学生時代の研究テーマはイスラームについて。

桂園時代の足掛け

2人の人物が互いに同意のうえで交互に内閣総理大臣を務めるという特殊な状況が生まれたのには現代と異なる政治背景がありました。この項ではそうした政治的背景と合わせて今回の主題である外交的背景、日本全体の時代背景を解説します。

〈時代背景〉文明開化を経て帝国主義の時代へ

具体的に桂園時代とよばれるのは第一次桂内閣が発足した1901年(明治34年)から第二次西園寺内閣総辞職するまでの1913年(大正元年)までをさすのが通常です。当時日本は江戸から明治への文明開化の時代を経て西洋技術を盛んに取り入れ、その勢いで1894年に開戦した日清戦争に勝利。列強諸国と対等な関係を築くべく帝国主義国家として歩みを進めていました。諸外国へ留学する政治家も多く、桂太郎ドイツで主に軍事額を学び、西園寺公望フランスで法律学を学ぶなど、桂園時代の築く二人も例外ではありませんでした。

〈外交背景〉日清戦争後の東アジア情勢と植民地

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日清戦争に勝利した日本は下関条約を締結。清国は日本に対して朝鮮の清国からの独立、多額の賠償金の支払い、遼東半島台湾等領土割譲を承認しました。日本もまた帝国主義国家として植民地を獲得したのです。日本はここから朝鮮の支配確立しようと目論見ますが、朝鮮駐在の日本人が朝鮮国内で事件を起こしたことなどから日本の影響力後退し、変わってロシアの影響力が朝鮮において大きくなっていきました。以降、日露戦争までの間両国は朝鮮満州支配権を巡っての交渉が続くこととなります。一方、敗戦国となった清国では西洋列強国により領地分割が進められ、各々の国家が支配権を獲得していきました。

〈政治背景〉今はなき「元老」の存在と立憲政友会

現在の日本の政治体制と当時の大きな違いの一つは「元老」の存在です。いわゆる貴族階級であり、薩長派閥のトップにいた彼ら「元勲級指導者」たちは一種の政権寡占クラブを形成し、天皇に代わって首相の選考もしていました。そのため、第一次桂内閣が成立するまでは主に彼らの中から首相が選出されていました。桂園時代を迎えて以降第一線を退き「元老」と呼ばれるようになりましたが、当時の政治活動には彼らの支持を得ることが必要不可欠であり、元老会議の決定は閣議決定以上の影響力を持っていました。元老には初代総理大臣である伊藤博文も含まれていました。

そのため、元老が総理大臣に就任した当時の内閣は政党を中心としたものではなく組閣後の結束、連携が不十分でした。その状況を打破すべく政党政治(同じ政党内の人物を中心に内閣を構成する政治形態)を目指す動きが各所で起こり始めます。伊藤博文が結成した「立憲政友会」という政党もその一つでした。この立憲政友会に所属していたのが西園寺公望であり、桂太郎はその対抗勢力という位置づけにありました。桂は時に政友会と対立し、時には妥協して折衷案を認めながら、政界で活躍します。桂園時代とはいわば、この対立落ち着き、両者が政治的に同じ方向を向いていた時期を表すとも言えるでしょう。

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