現代社会

5分でわかる「日中平和友好条約」誰が結んだ?締結までの過程やその内容などを歴史好きライターが解説!

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日中国交正常化の1年前、日本で行われた卓球の世界選手権に中国も出場した。まだ国交はなかったが、試合のために選手などが来日したのだ。これにより、アメリカと中国の交流が生まれ、その後のニクソン大統領による訪中や日中国交正常化につながったぞ。このアメリカと中国による一連の外交は、「ピンポン外交」とも呼ばれているな。

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日中平和友好条約の締結

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日中の国交正常化が実現するも、平和条約の締結までにはさらに時間を必要としました。条約締結までの過程と結ばれた条約の内容は、どのようなものだったのでしょうか。

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福田赳夫内閣で機運が高まった日中平和友好条約の締結

1972(昭和47)年の日中共同声明により、国交の正常化は実現します。しかし、その先にある平和条約を結ぼうという動きには、なかなか結びつきませんでした。この頃の中国は、ソ連と激しく対立した時期にありました。さらには、周恩来が病気がちになるなど、平和条約のための交渉が進まない状況にあったのです。

1976(昭和51)年に、周恩来と毛沢東が相次いで死去。四人組が逮捕されて文化大革命が沈静化すると、事態が急変します。1977(昭和52)年になり、日本の総理は三木武夫から福田赳夫に交代。中国も鄧小平が復権を果たし、ようやく平和条約を締結させようという動きが活発になりました。

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日中平和友好条約のもととなった平和五原則とは?

1954(昭和29)年、中国の周恩来首相とインドのネール首相が共同声明を発表。その中で示されたのが平和五原則です。チベットを巡る問題を解決するために2国が取り決めたもので、その内容は、領土や主権の尊重・相互不可侵・内政不干渉・平等互恵・平和共存の5つからなります。

日中国交正常化に続き、条約締結においてもこの平和五原則を踏襲しようとする動きがありました。しかし、反覇権条項に中国側が難色を示したとされます。ですが、「両国のいずれもアジア・太平洋地域において覇権を求めるべきではなく、他のいかなる国や集団による試みにも反対する」といった表現を使うことで合意しました。

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日中平和友好条約の締結と鄧小平の来日

1978(昭和53)年7月から、北京で事務方による交渉が繰り返されました。そして、8月に入り、ついに日中平和友好条約の締結が実現。日本側・園田直と中国側・黄華の両国外相の手により署名されました。平和五原則を基礎として、経済・文化・民間交流を発展させることなどが盛り込まれています。

10月になり、中国から実質トップであった鄧小平が来日。東京で批准書を交わし、日中平和友好条約が発効されました。昭和天皇との会見も実現し、初めて中国の指導者が天皇との対面を果たします。その他にも、鄧小平は日本の企業を精力的に視察して回り、のちに改革開放路線を進めるきっかけになったとする説もあるほどです。

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中国の外交には、パンダ外交というものもあるぞ。ニクソン大統領が中国を訪問した際には、毛沢東主席から2頭のパンダが贈られた。日本にも、日中国交正常化を記念する形で、ランランとカンカンという名前のパンダ2頭が贈られたことがあったな。現在は、パンダを贈与するのでなく貸し出すという形に改められたが、パンダの人気ぶりは変わらないようだ。

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