現代社会

5分でわかる「日中平和友好条約」誰が結んだ?締結までの過程やその内容などを歴史好きライターが解説!

日華平和条約

1951(昭和26)年、第二次世界大戦を完全に終結させる目的で、サンフランシスコ講和条約が結ばれました。日本を含む50か国の間で条約を締結しましたが、その50か国に中国は含まれていませんでした。当時は中華人民共和国が成立したばかりでしたが、講和会議には招待されず。中国とは別の条約を締結する必要がありました。

1952(昭和27)年、当時の吉田内閣は、台湾の国民政府と日華条約締結を決断します。日中戦争の終了を宣言し、日本に対する請求権は放棄されました。しかし、中華人民共和国とは条約を結ばず、日本との関係は断絶したまま。中国と台湾の緊張した関係が続きます。

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LT貿易

戦後の日本国政府と中華人民共和国政府との関係は、改善しないままでした。それでも、民間レベルでの日中間の交流が模索されます。1952(昭和27)年に第1次、翌年に第2次の日中民間貿易協定が結ばれました。しかし、それも長続きせず、日中間の交流は一時断絶します。

1962(昭和37)年に2国間で覚書が交わされ、国交がないまま半官半民方式の貿易が行われました。覚書に署名した中国側の代表・廖承志と日本側の高碕達之助、2人の名前をとってLT貿易と呼ばれたものです。LT貿易が期限の5年を迎えると新たに覚書が交わされ、1年ごとに覚書を更新するMT貿易(メモランダムトレード)に改められました。

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第二次大戦後の中国は、台湾以外とも紛争があったな。1959年にはチベットが蜂起し、人民解放軍が鎮圧した。インドやソ連とも、中国との国境を巡る武力衝突があったぞ。つまり、戦後から1960年代までの中国は、国の内外で多くの問題を抱えていたことになるのだ。

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日中国交正常化

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長年の問題であった日本と中国の国交正常化。ここからは、どのようにして日中国交正常化が実現したのかを見てみましょう。

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日中の国交正常化へ即座に動いた田中角栄

1971(昭和46)年にアルバニア決議が採択され、国連での中国の代表権が国民政府から中国共産党に移りました。その翌年には、アメリカのニクソン大統領が中国を訪問。復権を果たした毛沢東らとの会談を実現させました。おのずと日本も中国との国交を回復させる必要に迫られるようになります。

1972(昭和47)年7月に総理大臣となった田中角栄は、就任当初から日中の関係改善に取り組む姿勢を明確に示していました。その動きに、当時の中国首相だった周恩来が即座に反応。先に会談した公明党の竹入義勝委員長に、交渉に応じる意向があることを伝えました。その意向を伝え聞いた田中は、交渉に本腰を入れることとなります。

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日中国交正常化の内容は?

1972(昭和47)年9月、田中角栄ら日本側が北京に赴いて、日中国交正常化に向けての会談が行われました。日本側が戦争責任に対して反省の意を表明したこともあり、交渉は順調に進みます。その結果、日本側・田中角栄総理と中国側・周恩来首相の両名が日中共同声明に署名。ここに日中の国交が回復しました。

この共同声明により、中国側は日本に対する戦争賠償の請求権を破棄。日本は中国と台湾が不可分であるという中国側の主張を尊重するなど、お互いが譲歩する内容になりました。その結果、中華民国(台湾)と締結していた日華条約が失効し、日本と中華民国の国交が断絶することとなります。

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