今回は、日中平和友好条約について学んでいこう。

第二次世界大戦後、長らく日本と中国の国交は断絶されていた。しかし、日中平和友好条約の締結により、日本と中国の外交関係を発展させようという動きが強まったな。

日中平和友好条約を結んだ日本の総理大臣や、条約の内容・締結までの過程などを、日本史に詳しいライターのタケルと一緒に解説していきます。

ライター/タケル

資格取得マニアで、士業だけでなく介護職員初任者研修なども受講した経験あり。現在は幅広い知識を駆使してwebライターとして活動中。

中華人民共和国の成立

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まずは、中華人民共和国が第二次世界大戦後に成立したときの様子を見ていきましょう。

中華人民共和国の建国宣言

第二次世界大戦が終結すると、中国共産党と国民政府の対立が激化します。ソ連の後押しで勢い付く共産党軍が、終始国民政府軍を圧倒。蒋介石率いる国民党は、台湾に逃れました。1949(昭和24)年10月、当時の最高指導者であった毛沢東により、中華人民共和国の建国が宣言されます。

1954(昭和29)年に開かれた第1期全国人民代表大会で、中華人民共和国憲法を採択。中国共産党による一党独裁体制が事実上始まりました。毛沢東政権の足固めは進められ、三反五反運動により公務員や資本家らの腐敗・汚職を徹底的に排除。その一方で、共産党による独裁を批判した者を次々と失脚させ、その数は数十万人にも及んだとされます。

文化大革命

反右派闘争により、批判勢力の排除に成功した毛沢東。大躍進政策を発動し、中国国内の工業や農業を発展させようと試みますが、成果は出ず。かえって数千万人規模の死者を出す大飢饉を引き起こしてしまいました。それにより、毛沢東は一時失脚することとなります。

1966(昭和41)年、新しい社会主義文化を作り上げるという大義名分で、毛沢東は文化大革命を唱えました。しかし、その実像は、毛沢東が自らの復権を画策したものです。紅衛兵と呼ばれる若者が、毛沢東の政敵を次々と攻撃。中国各地で大量虐殺が行われました。

第二次世界大戦後の日中関係

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では、第二次世界大戦が終戦を迎えた後の、日本と中国の関係はどうだったのでしょうか。

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日華平和条約

1951(昭和26)年、第二次世界大戦を完全に終結させる目的で、サンフランシスコ講和条約が結ばれました。日本を含む50か国の間で条約を締結しましたが、その50か国に中国は含まれていませんでした。当時は中華人民共和国が成立したばかりでしたが、講和会議には招待されず。中国とは別の条約を締結する必要がありました。

1952(昭和27)年、当時の吉田内閣は、台湾の国民政府と日華条約締結を決断します。日中戦争の終了を宣言し、日本に対する請求権は放棄されました。しかし、中華人民共和国とは条約を結ばず、日本との関係は断絶したまま。中国と台湾の緊張した関係が続きます。

LT貿易

戦後の日本国政府と中華人民共和国政府との関係は、改善しないままでした。それでも、民間レベルでの日中間の交流が模索されます。1952(昭和27)年に第1次、翌年に第2次の日中民間貿易協定が結ばれました。しかし、それも長続きせず、日中間の交流は一時断絶します。

1962(昭和37)年に2国間で覚書が交わされ、国交がないまま半官半民方式の貿易が行われました。覚書に署名した中国側の代表・廖承志と日本側の高碕達之助、2人の名前をとってLT貿易と呼ばれたものです。LT貿易が期限の5年を迎えると新たに覚書が交わされ、1年ごとに覚書を更新するMT貿易(メモランダムトレード)に改められました。

日中国交正常化

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長年の問題であった日本と中国の国交正常化。ここからは、どのようにして日中国交正常化が実現したのかを見てみましょう。

日中の国交正常化へ即座に動いた田中角栄

1971(昭和46)年にアルバニア決議が採択され、国連での中国の代表権が国民政府から中国共産党に移りました。その翌年には、アメリカのニクソン大統領が中国を訪問。復権を果たした毛沢東らとの会談を実現させました。おのずと日本も中国との国交を回復させる必要に迫られるようになります。

1972(昭和47)年7月に総理大臣となった田中角栄は、就任当初から日中の関係改善に取り組む姿勢を明確に示していました。その動きに、当時の中国首相だった周恩来が即座に反応。先に会談した公明党の竹入義勝委員長に、交渉に応じる意向があることを伝えました。その意向を伝え聞いた田中は、交渉に本腰を入れることとなります。

日中国交正常化の内容は?

1972(昭和47)年9月、田中角栄ら日本側が北京に赴いて、日中国交正常化に向けての会談が行われました。日本側が戦争責任に対して反省の意を表明したこともあり、交渉は順調に進みます。その結果、日本側・田中角栄総理と中国側・周恩来首相の両名が日中共同声明に署名。ここに日中の国交が回復しました。

この共同声明により、中国側は日本に対する戦争賠償の請求権を破棄。日本は中国と台湾が不可分であるという中国側の主張を尊重するなど、お互いが譲歩する内容になりました。その結果、中華民国(台湾)と締結していた日華条約が失効し、日本と中華民国の国交が断絶することとなります。

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日中平和友好条約の締結

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日中の国交正常化が実現するも、平和条約の締結までにはさらに時間を必要としました。条約締結までの過程と結ばれた条約の内容は、どのようなものだったのでしょうか。

福田赳夫内閣で機運が高まった日中平和友好条約の締結

1972(昭和47)年の日中共同声明により、国交の正常化は実現します。しかし、その先にある平和条約を結ぼうという動きには、なかなか結びつきませんでした。この頃の中国は、ソ連と激しく対立した時期にありました。さらには、周恩来が病気がちになるなど、平和条約のための交渉が進まない状況にあったのです。

1976(昭和51)年に、周恩来と毛沢東が相次いで死去。四人組が逮捕されて文化大革命が沈静化すると、事態が急変します。1977(昭和52)年になり、日本の総理は三木武夫から福田赳夫に交代。中国も鄧小平が復権を果たし、ようやく平和条約を締結させようという動きが活発になりました。

日中平和友好条約のもととなった平和五原則とは?

1954(昭和29)年、中国の周恩来首相とインドのネール首相が共同声明を発表。その中で示されたのが平和五原則です。チベットを巡る問題を解決するために2国が取り決めたもので、その内容は、領土や主権の尊重・相互不可侵・内政不干渉・平等互恵・平和共存の5つからなります。

日中国交正常化に続き、条約締結においてもこの平和五原則を踏襲しようとする動きがありました。しかし、反覇権条項に中国側が難色を示したとされます。ですが、「両国のいずれもアジア・太平洋地域において覇権を求めるべきではなく、他のいかなる国や集団による試みにも反対する」といった表現を使うことで合意しました。

日中平和友好条約の締結と鄧小平の来日

1978(昭和53)年7月から、北京で事務方による交渉が繰り返されました。そして、8月に入り、ついに日中平和友好条約の締結が実現。日本側・園田直と中国側・黄華の両国外相の手により署名されました。平和五原則を基礎として、経済・文化・民間交流を発展させることなどが盛り込まれています。

10月になり、中国から実質トップであった鄧小平が来日。東京で批准書を交わし、日中平和友好条約が発効されました。昭和天皇との会見も実現し、初めて中国の指導者が天皇との対面を果たします。その他にも、鄧小平は日本の企業を精力的に視察して回り、のちに改革開放路線を進めるきっかけになったとする説もあるほどです。

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日中平和友好条約締結後の日中関係

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日中平和友好条約を締結した日本と中国。その後の関係はどうなっているのでしょうか。

天安門事件と中国の人権問題

1989(平成元)年、民主化デモを軍隊が武力で鎮圧するという、天安門事件が起きました。多くの死傷者を出した事実を西側諸国が重く見て、中国に対し経済制裁を加えるようになります。その後も、中国における人権問題は後を絶たず。ウイグル族への人権侵害は、現在でも世界中から非難の的になっています。

1997(平成9)年には香港、1999(平成11)年にはマカオが中国に返還されました。しかし、一国二制度とされていた香港の民主化を認めず、中央政府が民主派を排除することに。法改正により、香港の立法会議員選挙に出馬する者を審査するようになります。よって、民主派候補の出馬は困難となりました。

 

日本の最大貿易相手国は中国に

鄧小平政権下で四つの近代化が掲げられ、改革開放政策に乗り出した中国。人民公社を廃止し、深圳や厦門を経済特区とするなど、数々の近代化が推し進められました。また、社会主義体制にありながら市場経済を導入し、経済体制の改革を図ります。その結果、1990年代より中国の経済は急速に発展しました。

2001(平成13)年に、中国はWTO(世界貿易機関)加盟を果たします。一大市場としての地位を確立した中国に、海外資本が次々と流入。2010年代には、日本を抜いて中国がGDP世界2位となりました。その頃より、中国が日本にとって最大の貿易相手国となります

自由で開かれたインド太平洋構想

経済発展を成し遂げた中国は、2012(平成24)年より習近平体制となりました。すると、外交などで強硬路線を取るようになります。南シナ海においては、ほぼ全域の領有権を強く主張するようになり、南沙諸島に人工島や基地を建設しました。日本とも、尖閣諸島の領有権を巡る争いが絶えません。

2016(平成28)年、安倍晋三首相が自由で開かれたインド太平洋戦略を提唱しました。国際秩序に基づいて、アジアやアフリカの平和と安定を目指すとしたものです。名前こそ出してはいませんが、特に近年台頭する中国を念頭に置いているのは間違いないでしょう。

日中平和友好条約を遵守するためにも日本と中国の関係改善は必要

日中共同声明を受け、日本と中国は平和条約の締結に力を注ぎます。ですが、交渉は難航し、福田赳夫内閣により日中平和友好条約が締結されるまで6年を要しました。平和五原則を基本とし、覇権を求めないことや経済・文化の交流を図ることなどが条約で定められています。しかし、2010年代から中国が強硬姿勢を見せているため、改めて日中平和友好条約の意義を見つめ直す時期に来ているといえるでしょう。

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現代社会

3分で簡単「日中平和友好条約」誰が結んだ?締結までの過程やその内容などを歴史好きライターがわかりやすく解説!

今回は、日中平和友好条約について学んでいこう。

第二次世界大戦後、長らく日本と中国の国交は断絶されていた。しかし、日中平和友好条約の締結により、日本と中国の外交関係を発展させようという動きが強まったな。

日中平和友好条約を結んだ日本の総理大臣や、条約の内容・締結までの過程などを、日本史に詳しいライターのタケルと一緒に解説していきます。

ライター/タケル

資格取得マニアで、士業だけでなく介護職員初任者研修なども受講した経験あり。現在は幅広い知識を駆使してwebライターとして活動中。

中華人民共和国の成立

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まずは、中華人民共和国が第二次世界大戦後に成立したときの様子を見ていきましょう。

中華人民共和国の建国宣言

第二次世界大戦が終結すると、中国共産党と国民政府の対立が激化します。ソ連の後押しで勢い付く共産党軍が、終始国民政府軍を圧倒。蒋介石率いる国民党は、台湾に逃れました。1949(昭和24)年10月、当時の最高指導者であった毛沢東により、中華人民共和国の建国が宣言されます。

1954(昭和29)年に開かれた第1期全国人民代表大会で、中華人民共和国憲法を採択。中国共産党による一党独裁体制が事実上始まりました。毛沢東政権の足固めは進められ、三反五反運動により公務員や資本家らの腐敗・汚職を徹底的に排除。その一方で、共産党による独裁を批判した者を次々と失脚させ、その数は数十万人にも及んだとされます。

文化大革命

反右派闘争により、批判勢力の排除に成功した毛沢東。大躍進政策を発動し、中国国内の工業や農業を発展させようと試みますが、成果は出ず。かえって数千万人規模の死者を出す大飢饉を引き起こしてしまいました。それにより、毛沢東は一時失脚することとなります。

1966(昭和41)年、新しい社会主義文化を作り上げるという大義名分で、毛沢東は文化大革命を唱えました。しかし、その実像は、毛沢東が自らの復権を画策したものです。紅衛兵と呼ばれる若者が、毛沢東の政敵を次々と攻撃。中国各地で大量虐殺が行われました。

第二次世界大戦後の日中関係

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では、第二次世界大戦が終戦を迎えた後の、日本と中国の関係はどうだったのでしょうか。

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