そして1761年、33歳の時には七年戦争に外科医として従軍しました。ちょうどその時、生涯の伴侶となるアンとも出会います。アンは上流階級の娘で、詩人としても活躍していました。収入が不安定だったこともあり、婚約には7年もの月日がかかったそうですよ。
歯の治療・研究を始める
戦争が終わり帰国後、ジョンは歯科医のジェームズ・スペンスと協力して歯の治療と研究に従事しました。そこで「ヒト歯の博物学および歯疾患の報告」を発表。するとこれが医学界で知名度をあげるきっかけとなりました。
その後もジョンの論文は解剖学と博物学の分野で評価され、1767年には王立協会フェローとなりました。王立協会フェローとは「数学・工学・医学を含む自然知識の向上への多大な貢献」をした人に対してロンドンの王立協会から贈られる称号のこと。
1768年には兄ウィリアムの助けもあって聖ジョージ病院の常勤外科医となり、実習生たちからは大変な人気を浴びていたそうですよ。その4年後には自宅で解剖講座を開くほどになりました。
手に入れるためには手段を選ばない!
もともと研究熱心だったジョンですが、このあたりからさらに没頭します。さまざまな逸話が生まれるんですよ。
その1つに、当時ロンドンで注目を集めていた、身長が249センチもある巨人症のチャールズ・バーンという人物の話があります。ジョンは彼の標本を作るために人を雇って、彼がいつ死ぬかの見張りをさせていたそうですよ。バーンはジョンの狙いを知ると、標本にされないように「死後は棺桶に重りをつけて海に沈めてくれ」と遺言を残したそうです。しかし、ジョンはバーンが22歳で亡くなったと聞くと、遺体を海に沈めようと運んでいた葬儀業者に金をつんで遺体を盗み出すという暴挙を行いました。彼の標本はグラスゴーのハンテリアン博物館に展示されています。
ちなみにジョン・ハンターの肖像画をよ~く見ると、後方にバーンの標本が描かれているんですよ。
このようにジョンは手に入れるためなら手段を選ばない性格で、これまでも墓荒らしや賄賂などの裏ルートを駆使して特徴的な人間の標本を作製してきました。
彼の自宅には、表と裏に2つの出入り口があり、裏の入り口を使って死体の搬入・搬出を行っていたそうですよ。こうして集めた標本などのコレクションは14000点にも及びます。
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