高峰譲吉という人物を知っているか?明治から大正にかけて世界的に活躍した化学者なのですが、一般にはあまり知られていないな。
彼の人生や業績について、大学生時代は化学専攻だったというライターチロと一緒に解説していきます。
チロ

ライター/チロ

放射能調査員や電気工事士など様々な「科学」に関係する職を経験したのち、教員の道へ。理科教員10年を契機に米国へ留学、卒業後は現地の高校でも科学教師として勤務した。帰国後は「フシギ」を愛するフリーランスティーチャー/サイエンスライターとして活躍中。

高峰譲吉は何をした人?

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匿名 - Science history Institute [1], パブリック・ドメイン, リンクによる

高峰譲吉は明治から大正にかけて活躍した人物です。主な業績は身体機能において重要な役割を持つ副腎髄質ホルモン「アドレナリン」の発見なのですが… 譲吉は科学者・官僚・発明家・事業家と様々な顔を持つため、何をした人なのかを一言で言い表すのは難しい人物。あえて挑戦するならば「異世界転生の小説みたいな人生をリアルで送った人」でしょうか? 一体どんな人生だったのか、見ていきましょう!

高峰譲吉のドラマティックな人生

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彼の人生はまさに波乱万丈そのもの。大河ドラマにしたら絶対面白いと思いますが、あまりに波乱万丈すぎてロケやCGにめちゃめちゃお金がかかってしまいそうです。

(1) 生まれは江戸時代!

長崎市(1870年代)
内田九一 - Ebay.com, パブリック・ドメイン, リンクによる

譲吉は嘉永7年(1854)に加賀藩で藩医の息子として生まれました。そうです。なんと生まれたのは江戸時代!自由に旅行もできなかった時代でしたが、超優秀だったため慶応元年(1865)にはわずか11歳で藩から選ばれ英語の勉強のため長崎に派遣されます。

慶応元年の長崎はグラバーが日本で最初の蒸気機関を走らせたり、坂本龍馬が亀山社中を結成したりという、まさに日本の歴史の表舞台。現在で言うと小学校高学年の譲吉は、大きなカルチャーショックを受けたに違いありません。

(2) 米国人と結婚してアメリカへ移住

Mulberry Street NYC c1900 LOC 3g04637u edit.jpg
By Detroit Publishing Co. , publisher - This image is available from the United States Library of Congress's Prints and Photographs division under the digital ID det.4a31829. This tag does not indicate the copyright status of the attached work. A normal copyright tag is still required. See Commons:Licensing for more information., Public Domain, Link

明治維新後も学問の道をひた走り、工部大学校(現・東京大学工学部)を主席を卒業後、明治13年(1880)にはイギリスへ留学します。子どもの頃はちょんまげを結っていたはずの譲吉が、断髪令からわずか数年後には外国で大学生になっているのです。まるで異世界転生のような感覚だったに違いありません。

卒業後は帰国し農商務省の官僚になるのですが、高い英語力を買われすぐアメリカに派遣されます。そこで出会ったアメリカ人女性と恋に落ち、すぐ婚約。結構やり手ですね!その後、日本に帰国しますが、明治23年(1890)、日本での官僚としても立場を全て投げ打って渡米。目的は「化学者として一発当てること!」結構ギャンブラーな性格だったのかもしれません。

(3) 研究所を燃やされる!

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譲吉はアメリカに自分の研究所を設立し、研究生活に入ります。そこで譲吉は世界化学史・医学史に燦然と輝く画期的な発見を連発。製薬のライセンス契約によって瞬く間に億万長者に上り詰めました。さらに「日本酒の麹を利用してウイスキーを醸造する」という技術を持つ譲吉は、アメリカの酒造所にひっぱりだこ。

しかし成功者がいれば、それを妬む者がいるのも世の常。譲吉の新技術によって窮地に立たされた旧来のモルトによる醸造所の所有者たちが、暗殺を企て高嶺家を襲ったのです。幸い一家は無事に隠れることができたのですが、研究所は放火され全焼しました。

しかしその程度のことではくじけないのが譲吉のすごいところ。その後は実業家としても日米で活躍し、製薬会社三共(現・第一三共)の社長になったり、故郷富山の黒部川開発に携わったりしています。1922年にニューヨークで亡くなるまで、日米の友好のために尽力し続けた篤志家でもありました。

\次のページで「高峰譲吉のすごい業績」を解説!/

高峰譲吉のすごい業績

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では、そんな譲吉のすごい業績を詳しく見ていきましょう!100年以上前の人なのに、現代の私たちの生活にも関わっていますよ。

(1) 消化酵素ジアスターゼの抽出

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By Up loaded by Namazu-tron - http://www.jpo.go.jp/seido_e/rekishi_e/jokichi_takmine.htm Japan Patent Office, Public Domain, Link

デンプンの消化酵素アミラーゼ(別名ジアスターゼ)。私たちの唾液や胃液に含まれており、分泌が不十分だと消化不良になってしまいます。譲吉は日本酒の醸造に使う麹菌からアミラーゼを抽出し、自身の名前を冠詞につけ「タカジアスターゼ」と名付けました。これが胃腸薬として日米で大ヒット。現在でも譲吉が初代社長を務めた第一三共ヘルスケアで「新タカヂア錠」という商品名で販売されています。

(2) 世界初!ホルモン「アドレナリン」を結晶化

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我々が興奮状態になった時、腎臓のすぐそばにある副腎髄質から分泌されるホルモン「アドレナリン」。心拍数と血圧を上げ、体を戦闘モードに切り替えます。譲吉の研究チームは、アメリカで廃棄されていた家畜の内臓をたくさん集め、そこから純粋なアドレナリンの結晶を抽出しました。これは動物の身体機能を操作する「ホルモン」を、純粋な状態で取り出した世界初の快挙。その後アドレナリンは止血剤やアレルギー反応を抑える治療薬として、世界中で広く使われることになります。

(3) 事業家としても活躍

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開国五十年史発行所 - 『開国五十年史: 附録』開国五十年史発行所, 1908, パブリック・ドメイン, リンクによる

譲吉のもう一つの顔は化学者として作り上げた財力を使って投資を行う「事業家」。20世紀初頭、電力を用いて精錬するホール・エルー法の発明により、アルミニウムの使用が世界的に急拡大していました。これに目をつけた譲吉。生まれ故郷富山にある急流、黒部川を使って水力発電を行い、アルミニウムを精錬する会社を立ち上げます。さらに関連事業として、鉄道や温泉の会社も設立されました。

譲吉の死後、日本初のアルミニウム精錬事業は日の目を見ることなく取りやめになってしまいましたが、鉄道や温泉の事業は引き継がれ、現在では世界的に有名な立山黒部アルペンルートの礎となったのです。

\次のページで「知ってると自慢できる!高峰譲吉の小ネタエピソード」を解説!/

知ってると自慢できる!高峰譲吉の小ネタエピソード

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波乱万丈な人生を送った譲吉には、「ええっ!」と驚くエピソードが沢山あります。その中のいくつかをご紹介しましょう。家族や友達にちょっと自慢できちゃうかも!

エピネフリンvsアドレナリン

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譲吉が世界で初めて結晶化に成功したアドレナリン。興奮時に分泌されるホルモンであると同時に、気管支喘息やアナフィラキシーショックの治療薬としても用いられています。このアドレナリン、アメリカでは「エピネフリン」という別名で呼ばれているのですが… 一体なぜなのでしょう?

正確に言うと、譲吉はアドレナリンを「発見」したわけではありません。19世紀末にポーランド人科学者によって発見されて以来、世界中の科学者が純粋な物質の結晶化に挑戦していたのです。そして譲吉の研究チームが世界で初めて成功したという訳ですが…この業績に異論を唱えた人物がいました。アメリカ人科学者ジョン・エイベルです。彼は譲吉が自分の研究室を見学に来た際に、手法を盗んだと主張しました。

ヨーロッパでは「アドレナリン」が正式名称になったのですが、アメリカでは譲吉の主張が退けられただけでなく、エイベルがアドレナリンの発見者とされました。さらに、エイベルが命名した「エピネフリン」が正式名称となったのです。日本でも、医学の分野ではエピネフリンという名称が長らく用いられて来たのですが、2006年に譲吉の業績に敬意を示しアドレナリンを正式名称とすることに決定しました。しかし現在でもアナフィラキシーショックの治療薬であるアドレナリン自己注射薬の名称がエピネフリン由来の「エピペン」であるなど、影響は残っています。

渋沢栄一との関係

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By Unknown author - The Days of a Man: https://archive.org/stream/daysmanmemoirs02jordrich#page/428/mode/2up, Public Domain, Link

2024年から使われる新1万円札の肖像画になる渋沢栄一。2021年には大河ドラマの主人公にもなりました。実は高峰譲吉、この渋沢栄一と深い関係があったのです。

二人の出会いは、明治19年。譲吉がニューオリンズから帰国し、農商務省と専売特許局で勤務した頃です。ある日、すでに実業家として有名だった渋沢栄一が偶然同じ宿に泊まっていると知った譲吉は、なんとアポなしで彼の元を訪問しました。実業界の大物と、超優秀だったとはいえ身分上は一役人に過ぎなかった譲吉はここで意気投合。以来、様々な面で協力し合う関係になります。

最初の共同事業は、人造肥料の製造。当時、日本の農業は下肥などの動物性肥料に大きく依存していたため、生産性も高くなかった上寄生虫などの問題もありました。そこで栄一が出資し、当時世界でも最先端の技術だった化学肥料を製造販売する東京人造肥料会社を設立したのです。肥料の原料となったのは、譲吉がアメリカで買い付けたリン鉱石でした。

譲吉と英一。二人の天才の能力を掛け合わせるにより、生産性の高い日本の近代農業が始まったと言っても過言ではありません。しかし譲吉は会社設立からわずか数年後、渡米を決めます。当初栄一は猛反対したそうですが、最終的には日本人が世界で活躍することの重要性を認め、その後も協力関係が生涯に渡って続きました。

ワシントンの桜並木

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昔から日本人に愛され、日本の国花にも指定されている桜。日本各地に桜の名所がありますが、なんとアメリカ合衆国の首都ワシントンDCも桜で有名なのです。毎年春になると全米から何十万人もの人々が、ポトマック川岸のみごとな桜並木を見るために集まります。この桜の木のほとんどは日本固有の栽培品種ソメイヨシノ。しかし、なぜ日本から遠く離れたアメリカに日本の桜があるのでしょう?この謎には実は譲吉が深く関わっています。

明治時代。日本に初めて訪れた米国人は、桜の美しさに魅了され本国にも植えたいと考えるようになりました。しかし外国の木を導入することに慎重な意見も多く、なかなか実現しなかったのです。長年、日米友好の証として桜の植樹をしたいと考えていた譲吉はその話を聞き、すぐに当時の大統領夫人と面会し協力を申し出ます。そこからトントン拍子で話が進み、当時の東京市からのプレゼントという形で桜の植樹がなされました。その後、日米は戦火を交える事態にも陥りましたが、友好の証の桜並木は大切に保存され続け、今日でも美しい姿で訪れる人々の目を楽しませてくれています。

高峰譲吉の人生はまさに波乱万丈!

江戸時代の日本に侍として生まれ、維新後の日本で活躍し、アメリカで成功した高嶺譲吉。刺激に満ちた人生だったに違いありません。私たちが人生の岐路に立った時、彼の生き様から勇気をもらえるかもしれないですね。

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化学理科

アドレナリンを発見した高峰譲吉ってどんな人?功績や逸話、渋沢栄一との関係まで元米国科学教師チロが詳しくわかりやすく解説!


高峰譲吉という人物を知っているか?明治から大正にかけて世界的に活躍した化学者なのですが、一般にはあまり知られていないな。
彼の人生や業績について、大学生時代は化学専攻だったというライターチロと一緒に解説していきます。
チロ

ライター/チロ

放射能調査員や電気工事士など様々な「科学」に関係する職を経験したのち、教員の道へ。理科教員10年を契機に米国へ留学、卒業後は現地の高校でも科学教師として勤務した。帰国後は「フシギ」を愛するフリーランスティーチャー/サイエンスライターとして活躍中。

高峰譲吉は何をした人?

Jokichi Takamine.jpg
匿名 – Science history Institute [1], パブリック・ドメイン, リンクによる

高峰譲吉は明治から大正にかけて活躍した人物です。主な業績は身体機能において重要な役割を持つ副腎髄質ホルモン「アドレナリン」の発見なのですが… 譲吉は科学者・官僚・発明家・事業家と様々な顔を持つため、何をした人なのかを一言で言い表すのは難しい人物。あえて挑戦するならば「異世界転生の小説みたいな人生をリアルで送った人」でしょうか? 一体どんな人生だったのか、見ていきましょう!

高峰譲吉のドラマティックな人生

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彼の人生はまさに波乱万丈そのもの。大河ドラマにしたら絶対面白いと思いますが、あまりに波乱万丈すぎてロケやCGにめちゃめちゃお金がかかってしまいそうです。

(1) 生まれは江戸時代!

長崎市(1870年代)
内田九一 – Ebay.com, パブリック・ドメイン, リンクによる

譲吉は嘉永7年(1854)に加賀藩で藩医の息子として生まれました。そうです。なんと生まれたのは江戸時代!自由に旅行もできなかった時代でしたが、超優秀だったため慶応元年(1865)にはわずか11歳で藩から選ばれ英語の勉強のため長崎に派遣されます。

慶応元年の長崎はグラバーが日本で最初の蒸気機関を走らせたり、坂本龍馬が亀山社中を結成したりという、まさに日本の歴史の表舞台。現在で言うと小学校高学年の譲吉は、大きなカルチャーショックを受けたに違いありません。

(2) 米国人と結婚してアメリカへ移住

Mulberry Street NYC c1900 LOC 3g04637u edit.jpg
By Detroit Publishing Co. , publisher – This image is available from the United States Library of Congress‘s Prints and Photographs division under the digital ID det.4a31829. This tag does not indicate the copyright status of the attached work. A normal copyright tag is still required. See Commons:Licensing for more information., Public Domain, Link

明治維新後も学問の道をひた走り、工部大学校(現・東京大学工学部)を主席を卒業後、明治13年(1880)にはイギリスへ留学します。子どもの頃はちょんまげを結っていたはずの譲吉が、断髪令からわずか数年後には外国で大学生になっているのです。まるで異世界転生のような感覚だったに違いありません。

卒業後は帰国し農商務省の官僚になるのですが、高い英語力を買われすぐアメリカに派遣されます。そこで出会ったアメリカ人女性と恋に落ち、すぐ婚約。結構やり手ですね!その後、日本に帰国しますが、明治23年(1890)、日本での官僚としても立場を全て投げ打って渡米。目的は「化学者として一発当てること!」結構ギャンブラーな性格だったのかもしれません。

(3) 研究所を燃やされる!

image by iStockphoto

譲吉はアメリカに自分の研究所を設立し、研究生活に入ります。そこで譲吉は世界化学史・医学史に燦然と輝く画期的な発見を連発。製薬のライセンス契約によって瞬く間に億万長者に上り詰めました。さらに「日本酒の麹を利用してウイスキーを醸造する」という技術を持つ譲吉は、アメリカの酒造所にひっぱりだこ。

しかし成功者がいれば、それを妬む者がいるのも世の常。譲吉の新技術によって窮地に立たされた旧来のモルトによる醸造所の所有者たちが、暗殺を企て高嶺家を襲ったのです。幸い一家は無事に隠れることができたのですが、研究所は放火され全焼しました。

しかしその程度のことではくじけないのが譲吉のすごいところ。その後は実業家としても日米で活躍し、製薬会社三共(現・第一三共)の社長になったり、故郷富山の黒部川開発に携わったりしています。1922年にニューヨークで亡くなるまで、日米の友好のために尽力し続けた篤志家でもありました。

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