

平安時代の庶民文学として今でも高く評価されれている『宇治拾遺物語』について、日本史に詳しいライターひこすけと一緒に解説していくぞ。

解説/桜木建二
「ドラゴン桜」主人公の桜木建二。物語内では落ちこぼれ高校・龍山高校を進学校に立て直した手腕を持つ。学生から社会人まで幅広く、学びのナビゲート役を務める。

ライター/ひこすけ
アメリカの歴史や文化を専門とする元大学教員。平安時代にも興味があり、気になることがあったら調べている。『宇治拾遺物語』は、混沌とした社会のなかで、どのように生きればいいのか、指針を与えるような説話も多く、今の若者にも読んで欲しい作品だ。そこで今回は宇治拾遺物語について紹介する。
『宇治拾遺物語』とはどのような作品?

『宇治拾遺物語』の編者と作者は不詳。鎌倉時代前半の1213年から1219年ごろ、成立したのではないかと推測されています。全15巻、197話が収録されている世俗的な説話集。もともとは、上下の2巻だったと思われます。やさしい和文体で書かれた、会話の多い生き生きとした庶民文学として評価されてきました。
『宇治拾遺物語』の書名の由来
『宇治拾遺物語』の序文には、ふたつの説が書かれています。ひとつは、「宇治大納言物語」に漏れたものを拾い集めたものとする説。「宇治大納言物語」が侍従俊貞(じじゅうとしさだ)の手もとにあり、侍従は唐名で拾遺であることから、『宇治拾遺物語』と呼ばれるようになったという説です。
そのいずれであるかは分からないとされました。この序文そのものが、編者あるいは後世の人の創作とも言われており、真偽のほどは不明です。いずれにせよ拾遺とは、漏れている作品などを拾い集めること。またそうして成立した作品のことを意味します。
『宇治拾遺物語』が成立する以前にも、「拾遺和歌集」(藤原公任編)、「後拾遺和歌集」(藤原通俊編)、「拾遺往生伝」などが成立。『宇治拾遺物語』以降には「続拾遺和歌集」(藤原為氏)、「続後拾遺和歌集」(御子左為藤)、新拾遺和歌集(御子左為明編)などがあります。「拾遺」という題名、こんなにたくさんあるなんて興味深いですね。一度完成した作品に漏れがあると、訂正版を出したくなるのでしょう。
『宇治拾遺物語』が成立した時期
『宇治拾遺物語』が成立した時期については諸説ありますが未確定。12世紀の終わりごろに原形が成立し、その後、補強や加筆が繰り返され、13世紀前半に成立したのではないかと考えられています。12世紀後半といえば、保元・平治の乱、平氏全盛期とその滅亡、そして源氏の時代到来の時期。13世紀にはついには武家政治が確立しました。すさまじい社会の変革期でした。
今までの貴族政治がひっくり返り、武士の時代に。人々の価値観はガラッと変わりました。庶民の間には仏教が広まり、親鸞(浄土真宗)、道元(曹洞宗)、栄西(臨済宗)などが、新しいかたちの仏教を開きました。京の都には猿楽が大流行。貴族たちは自分たちを守るために、新たな権威を必要とするようになりました。そんな時期に生まれた作品です。

小倉百人一首が編纂されたのもこのころだ。歌論が盛んとなり「歌の家」という新しい権威が確立した。そして、文学面では様々な説話集が誕生。『宇治拾遺物語』はそのひとつというわけだ。