今回は安倍晋三について取り上げていきます。

一度政権を手放した彼が、なぜ二度目の総理在職時には長期政権となったのか、気になる人は多いでしょう。

安倍晋三が長期政権を築けた理由や、任期中に取り組んだ政策などを、日本史に詳しいライターのタケルと一緒に解説していきます。

ライター/タケル

資格取得マニアで、士業だけでなく介護職員初任者研修なども受講した経験あり。現在は幅広い知識を駆使してwebライターとして活動中。

第1次安倍晋三内閣

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まずは、短命に終わった第1次安倍内閣について簡単に振り返りましょう。

戦後生まれ初の内閣総理大臣

1993(平成5)年、安倍晋三は父・晋太郎の地盤であった山口1区から総選挙に出馬し初当選。2000(平成12)年に森喜朗内閣で内閣官房副長官、後任の小泉純一郎内閣でも内閣官房副長官を務めました。2003(平成15)年になり、自由民主党の幹事長に就任します。当時まだ40代、当選4回の衆議院議員としては異例の抜擢でした。

2005(平成17)年の第3次小泉改造内閣で官房長官として初入閣すると、翌2006(平成18)年の自民党総裁選に出馬。麻生太郎と谷垣禎一を大差で破り、第21代自民党総裁第90代内閣総理大臣に就任しました。戦後生まれとしては初めての総理が誕生したのです。

病気により1年で辞任

安倍晋三は、首相となってすぐに中国と韓国を外遊し、中国の胡錦濤国家主席と韓国の盧武鉉大統領と会談。小泉純一郎の靖国神社参拝で懸念を示していた2か国との関係改善に努めました。他にも、1947(昭和22)年の制定以来初となる教育基本法改正を実現させ、防衛庁を防衛省に格上げするなどが行われています。

しかし、2007(平成19)年7月の参議院選挙で、自民党は過半数を下回る敗北を喫しました。すると、安倍は自民党内からも総理辞任を促されるようになります。さらに、若い頃からの持病が悪化。職務を全うできないと感じた安倍は、9月になり突如辞任を表明し、その次の日に入院しました。

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辞任から再び政権の座に返り咲くまで

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安倍晋三は1度政権の座から退きますが、再び総理に返り咲きます。その経緯について見ていきましょう。

民主党政権の誕生

安倍晋三が総理を辞任した後は、福田康夫と麻生太郎が後任を務めました。しかし、2人とも1年ほどで辞任に追い込まれます。衆議院では自民党と公明党で過半数の議席を有していましたが、選挙での敗北で参議院では少数与党に甘んじていました。したがって、国会運営に行き詰まるのも無理はありませんでした。

2009(平成21)年の総選挙で自民党は敗れ、民主党による政権が誕生します。しかし、鳩山由紀夫内閣は普天間基地移設問題などで混乱を招き、1年あまりで退陣。続く菅直人内閣も、東日本大震災の原発事故処理などがうまくいかず、1年余りで総辞職しました。結局、民主党政権になっても内閣は長続きしませんでした。

再び自民党総裁に

2007(平成19)年に安倍晋三が総理を辞任し、すぐに病気治療のため入院しますが、体調は回復します。2008年より活動を再開したものの、翌年になり民主党へ政権が移りました。安倍の総理辞任から2年にして、自民党は野党となったのです。

2012(平成24)年9月、谷垣禎一の後任を決める自民党総裁選挙に安倍が出馬。石破茂や石原伸晃を破り、史上初めて自民党総裁の返り咲きを果たしました。そして、12月に行われた総選挙で、今度は自民党が圧勝します。首班指名選挙を経て、安倍晋三が再び内閣総理大臣となりました

長期政権となった2度目の安倍内閣

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2度目となった安倍晋三による政権では、具体的に何が行われたのでしょうか。ここでは、主だったものを3つ取り上げていきます。

アベノミクス

安倍政権の主要政策といえるのが、「アベノミクス」と呼ばれる経済政策です。名前は、安倍の名字と経済を意味する「エコノミクス」を組み合わせたもの。大胆な金融政策(量的緩和政策など)・機動的な財政出動(公共事業投資など)・民間投資を喚起する成長戦略(規制緩和など)という、いわゆる三本の矢で構成されています。

失業率の低下や株価の回復など、アベノミクスの成果が全くなかったとはいえません。しかし、目標としていた2%のインフレターゲットは実現したとは言えず、国内消費は低迷しました。国の債務残高は増え続け、富裕層と庶民との格差拡大などの問題は残ったまま。アベノミクスの実効性を疑問視する人もいます。

憲法改正への意欲

安倍の総理在職中は、憲法改正に意欲的だったといえます。1度目の総理在職中だった2007(平成19)年に国民投票法を成立させ、憲法改正への下地を整えました。自衛隊の明記緊急事態対応の強化参議院の合区解消教育環境の充実からなる改憲4項目も、自民党憲法改正推進本部から発表されています。

中でも、憲法9条への自衛隊の明記と緊急事態条項の創設に関しては、多くの論議を呼びました。政権での連立相手である公明党も、その2つを日本国憲法に加えることには消極的となっています。現状では、憲法改正の機運が醸成したとはいえません。憲法9条の改正などは、まだ議論を要するでしょう。

新型コロナ対策に追われる

COVID-19と名付けられた新型コロナウイルスは、その名の通り2019(令和元)年に発見されました。翌2020(令和2)年に入り、中国を皮切りに世界中で感染者が急増。日本でも、2月頃から感染者が増え始めました。安倍政権は、全世帯に布マスクを配布するなど、その対応に追われることとなります。

4月には、改正新型インフルエンザ等対策特別措置法に基づく緊急事態宣言が発出されました。その後、感染の収束と拡大は繰り返し、感染症対策と経済活動維持のバランスを取るという難題に政府は苦慮します。2020年に開催予定だった2度目の東京オリンピックは翌年に延期され、ほぼ無観客で競技は行われました。

なぜ2度目の安倍内閣は長期政権となったのか

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ところで、なぜ2度目の安倍晋三による政権は長きに渡ったのでしょうか。それには、これらの理由が考えられます。

短期政権が続いたことへの反動

2000(平成12)年以降の日本は、総理大臣の交代が頻繁に行われました。小渕恵三の急死を受けて就任した森喜朗の任期は1年ほど。続く小泉純一郎は5年以上続きましたが、後任の安倍晋三・福田康夫・麻生太郎と、3代続けて短命政権でした。

2009(平成21)年の総選挙で民主党が政権を握りましたが、短命政権の流れは止まらず。鳩山由紀夫・菅直人・野田佳彦と、やはり1年前後で総理を辞任しています。およそ11年の間で8人の総理大臣が生まれたことは、異常な事態であると言わざるをえません。世論が安定した政権を望んだのは、当然の成り行きといえました。

安定した外交

安倍政権の政策の中で、評価が比較的高いものに外交があります。特にドナルド・トランプがアメリカの大統領だった期間は、安倍とトランプが個人的にも親しい関係を築いていたため、日本とアメリカの同盟関係が強固であることをアピールしていました。その関係をベースとして、安倍政権で「自由で開かれたインド太平洋」戦略が生まれたといえます。

北方領土問題や北朝鮮の拉致問題などは、安倍政権下では特段に進展は見られませんでした。しかし、紛争の原因とならぬよう、国家間の安定を重視する現実路線を取っていたともいえます。その一方で、国家安全保障会議(NSC)を設置するなど、国家間で起こりえる危機にも備えました。

\次のページで「選挙での強さ」を解説!/

選挙での強さ

安定した政権を維持するためには、議会で過半数の議席数が不可欠です。2度目の安倍政権が長期となったのも、大事な選挙で勝ってきたからといえます。特に、安倍が2度目の自民党総裁となってからは3回の総選挙がありましたが、すべて自民党は300議席に迫る圧勝公明党と合わせた議席数は安定多数となり、任期中は盤石の体制で政権を維持できました。

安倍政権下においては、経済や外交などで国益を損なったとまでいえることは起きませんでした。安定した政権運営を、有権者が支持したことが選挙結果につながったといえるでしょう。また、当時の野党が存在感を示せなかったため、消去法で自民党に投票した人も多かったようです。

2度目の総理辞任とその後の安倍晋三

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安倍晋三による2度目の政権は長きに渡りましたが、またしても終わりは突然訪れます。その時の様子と、総理辞任後の安倍晋三について見ていきましょう。

病気により再び任期の途中で総理を辞任

2020年8月、安倍晋三は総理官邸で記者会見に臨み、総理を辞任する意向であることを発表しました。持病が再び悪化し、総理の職を全うできないことをその理由として挙げています。2度目の総理就任も、病気により再び任期半ばで辞する事態となったのです。しかし、新型コロナで休みなく対応に追われたとなれば、仕方がなかったともいえるでしょう。

その翌月に自民党総裁選挙は行われ、長らく安倍内閣の官房長官として安倍を支えていた菅義偉が選ばれました。そして、安倍晋三内閣は総辞職し、代わりに菅義偉内閣が成立。安倍の総理大臣連続在職日数2822日と通算在職日数3188日は、ともに歴代総理大臣の中で最長となりました。

派閥の領袖となる

総理在職中からも、桜を見る会の問題やいわゆるモリカケ問題などで追及されていた安倍晋三。公職選挙法に抵触するおそれや、公文書の改竄疑惑などが指摘され続けていました。安倍による説明責任が果たせたかどうか定かではありませんが、すべて不起訴処分となり、捜査は終結しています。

2021(令和3)年の総選挙にも安倍は出馬し、10回目の当選を果たしました。そして、かつて所属していた派閥の会長である細田博之が衆議院議長に就任したのに伴い、安倍は派閥に復帰。後任の会長となり、安倍派が事実上発足しました。安倍の政治活動はしばらく続くと見られ、近い将来の総理再々任という可能性もないとはいえません。

短期政権が続いた反動が安倍政権を長期化させた

2000年代の日本は、小泉純一郎を除いて政権が1年ごとに交代するという異常事態に陥りました。その中には安倍晋三も含まれていましたが、彼は再び総理に返り咲きます。世論が安定した政権を望んだのに加え、2度目の安倍政権では安定した外交政策などに取り組んだ結果、7年以上も続けて政権を担当することとなったのです。重要な選挙で勝利できたのも、その要因でした。

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現代社会

安倍晋三はなぜ長期政権を築けた?その原因や任期中の政策などを行政書士試験合格ライターが5分でわかりやすく解説!

今回は安倍晋三について取り上げていきます。

一度政権を手放した彼が、なぜ二度目の総理在職時には長期政権となったのか、気になる人は多いでしょう。

安倍晋三が長期政権を築けた理由や、任期中に取り組んだ政策などを、日本史に詳しいライターのタケルと一緒に解説していきます。

ライター/タケル

資格取得マニアで、士業だけでなく介護職員初任者研修なども受講した経験あり。現在は幅広い知識を駆使してwebライターとして活動中。

第1次安倍晋三内閣

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まずは、短命に終わった第1次安倍内閣について簡単に振り返りましょう。

戦後生まれ初の内閣総理大臣

1993(平成5)年、安倍晋三は父・晋太郎の地盤であった山口1区から総選挙に出馬し初当選。2000(平成12)年に森喜朗内閣で内閣官房副長官、後任の小泉純一郎内閣でも内閣官房副長官を務めました。2003(平成15)年になり、自由民主党の幹事長に就任します。当時まだ40代、当選4回の衆議院議員としては異例の抜擢でした。

2005(平成17)年の第3次小泉改造内閣で官房長官として初入閣すると、翌2006(平成18)年の自民党総裁選に出馬。麻生太郎と谷垣禎一を大差で破り、第21代自民党総裁第90代内閣総理大臣に就任しました。戦後生まれとしては初めての総理が誕生したのです。

病気により1年で辞任

安倍晋三は、首相となってすぐに中国と韓国を外遊し、中国の胡錦濤国家主席と韓国の盧武鉉大統領と会談。小泉純一郎の靖国神社参拝で懸念を示していた2か国との関係改善に努めました。他にも、1947(昭和22)年の制定以来初となる教育基本法改正を実現させ、防衛庁を防衛省に格上げするなどが行われています。

しかし、2007(平成19)年7月の参議院選挙で、自民党は過半数を下回る敗北を喫しました。すると、安倍は自民党内からも総理辞任を促されるようになります。さらに、若い頃からの持病が悪化。職務を全うできないと感じた安倍は、9月になり突如辞任を表明し、その次の日に入院しました。

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