この記事では蒙古襲来と元寇の違いについてみていきます。2つとも歴史の授業で習う鎌倉時代にモンゴルから侵略されそうになった出来事土というイメージがあるよな。違いはずばり「古い呼び方か、新しい呼び方か」みたいですが、この二つの意味自体には違いはなく、言い換えにすぎない。今回はそんな中世日本史でも稀有な対外国との戦である蒙古襲来と元寇について歴史大好きライターSadaieと一緒に解説していきます。

ライター/Sadaie

プログラマー、ヘルプデスク経験者。パソコン関係以外では文学、歴史が好き。それらの知識をわかりやすいかたちで配信したいと考えている。雑学大好き。

蒙古襲来と元寇は同じもの

実は「蒙古襲来(読み方はもうこしゅうらい)」と「元寇(読み方はげんこう)」は同じもの。別の呼び方に過ぎません。

古くからある呼び方が「蒙古襲来」、後に誕生した呼び方が「元寇」なのです。

蒙古襲来は古来からある呼び方

Mōko Shūrai Ekotoba.jpg
筆者不明。竹崎季長自身は絵巻を注文しました。 - 蒙古襲来絵詞, パブリック・ドメイン, リンクによる

上に表示されている画像は蒙古襲来の様子を描いた「蒙古襲来絵詞(もうこしゅうらいえことば)」という絵巻物の一部。教科書に載っていたのを見たことはありませんか。

作成は1293年で、鎌倉時代後期の作品であり、国宝。

何が言いたいかというと、「蒙古襲来」は鎌倉時代当時からある呼称であるということです。

元寇は新しく誕生した呼び方

対して後発の呼び方である「元寇」について見ていきます。

元寇の「寇」という字には「外部から侵略してくる敵」という意味。

「元」とは蒙古襲来当時のモンゴルの呼称「大元大モンゴル国」から。

「元」という呼称は江戸時代になって、中国から「元史」などの書籍が輸入されたことにより、日本でも使用されるようになっていきました。

蒙古襲来と元寇は2回の侵略戦の総称

image by iStockphoto

蒙古襲来(元寇)は1度ではなく、2度に渡ります。それぞれ、「文永の役」、「弘安の役」と呼ばれますが、そもそも「元」とはどんな国で、なぜ日本に攻めてきたのかにを見ていきましょう。

\次のページで「元とはそもそもどんな国でなぜ日本に攻めてきたのか」を解説!/

元とはそもそもどんな国でなぜ日本に攻めてきたのか

元(モンゴル帝国)は、チンギス・ハンが1206年に創設した遊牧国家。その領土は中東からヨーロッパにも渡るものとなり、ユーラシア大陸全土を覆う当時世界最大のものでした(世界史上でも2位)。

ハンはハーンやカントとも発音し、「皇帝」という意味。

日本の隣国である中国(南宋)・朝鮮(高麗)も例外ではなく、「南宋」は滅ぼされて元の一部に、「高麗」は元の支配下におかれるようになっていきました。

フビライ・ハンは1266年に国書を作成し、日本に遣いをおくります。内容は「元と国交を結ぼう(対等ではなく元の属国として)、拒否するなら武力行使する」というおどしのようなもの。日本はこれを無視して、元寇へとつながっていきます。

蒙古襲来の一回目である文永の役

文永の役は1274年、長崎県の対馬に来襲したことに始まります。次いで元軍は北九州の各島に上陸、最後は博多に進行。

慣れない防衛戦と、戦術の違いから苦戦を強いられるものの、何とか撤退させることに成功します(詳細は後述)。

蒙古襲来の二回目である弘安の役

二度目の信仰の弘安の役は1281年。同じく対馬沖に上陸したことではじまります。その軍船の数は4,400せき。世界史上最大規模の艦隊であったと言われます。

しかし、文永の役を経たことによる集団戦術の理解や、国防の強化などの諸要因により、これも何とか撤退させることに成功します(詳細は後述)。

元軍の戦法とは

元軍の主な武器は短い弓。当時の記録によると矢には火薬が含まれていたらしく、「てっはう(鉄砲)」と記載されています。

また、日本の武士の1対1の戦法に対して元軍は集団戦法を得意としていました。

日本が勝利できた理由って?

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武器や戦法の差から日本軍は苦戦を強いられますが、2度も退却に追い込んだ理由は何なのか見ていきましょう。

もっとも有力なのは、台風(または突風)の影響でしょう。「神風」とも呼ばれますね。日本の武士を圧倒した元軍が船に戻ったところを台風が襲ったというのが通説です。特に文永の役での影響は大きかったものと思われますね。

他の要因を考えるなら、元軍が本国のモンゴル人ではなく属国の朝鮮や中国から来た兵であったということ。国の滅亡がかかった日本とは士気が違います。

また、島国である日本との海戦では、元の強みである馬術も活かせません。

最後に、2度目の弘安の役では先にも述べたように、文永の役を経験したことによる国防の強化、元の戦法に対応すべく日本も集団戦法を取り入れていた点も挙げられますね。

\次のページで「その後の日本と元の動向は?」を解説!/

その後の日本と元の動向は?

蒙古襲来後の日本と元はどうなっていったのでしょうか。結論は、どちらも衰退していったと言えます。

また、何故3度目の遠征がなかったのでしょうか。見ていきましょう。

蒙古襲来後に御家人は幕府に不満を募らせた

国内の戦において、御家人(武士)たちは戦に勝てば恩賞(主に領地)が貰えます。しかし、蒙古襲来の時はどうでしょうか。海外からの防衛戦であるため、恩賞はほとんど貰えませんね。恩賞が得られなかった御家人たちは、次第に生活が苦しくなっていき、鎌倉幕府への不満が高まっていきました。

幕府も「徳政令」などの条例を出し、救済を試みるものの彼らを満足させることは出来ず、やがて倒幕の動きになっていくのです。

蒙古襲来後に「元」は衰退していった

蒙古襲来の後の元はというと、相次ぐ内紛による有力者同士による争いが続き、王統が断絶。世界的なペスト(黒死病)の流行や、紅巾の乱(中国はこの戦で勝利。以後「明」が建てられます)などの反乱もあり、衰退していきました。

フビライ・ハンは日本への3度目の遠征を計画していたが、上記の理由により実現せず。

余談ですが、世界各国で中世に蔓延したペストが日本では流行しなかった理由として、「元寇の阻止」が考えられています。

蒙古襲来は日本史における重要な転機

蒙古襲来(元寇)は一歩間違えば元に侵略されていたわけですから、日本史における重要な転機だっと言えますね。集団戦法の強化や、武力による鎌倉幕府の終焉を経て本格的な武士の時代が到来するわけですが、蒙古襲来はその要因を作った一大イベントだったともいえるでしょう。鎌倉時代の日本を救った「神風」は時代を経て信仰(根拠のない楽観主義)となり、第二次世界大戦のころには神風特攻隊の悲劇を生んでしまったとも忘れてはなりませんね。

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文化・歴史雑学

蒙古襲来と元寇の違いって?日本が勝てた理由や両国のその後の動向について、歴史大好きライターがわかりやすく解説!

この記事では蒙古襲来と元寇の違いについてみていきます。2つとも歴史の授業で習う鎌倉時代にモンゴルから侵略されそうになった出来事土というイメージがあるよな。違いはずばり「古い呼び方か、新しい呼び方か」みたいですが、この二つの意味自体には違いはなく、言い換えにすぎない。今回はそんな中世日本史でも稀有な対外国との戦である蒙古襲来と元寇について歴史大好きライターSadaieと一緒に解説していきます。

ライター/Sadaie

プログラマー、ヘルプデスク経験者。パソコン関係以外では文学、歴史が好き。それらの知識をわかりやすいかたちで配信したいと考えている。雑学大好き。

蒙古襲来と元寇は同じもの

実は「蒙古襲来(読み方はもうこしゅうらい)」と「元寇(読み方はげんこう)」は同じもの。別の呼び方に過ぎません。

古くからある呼び方が「蒙古襲来」、後に誕生した呼び方が「元寇」なのです。

蒙古襲来は古来からある呼び方

Mōko Shūrai Ekotoba.jpg
筆者不明。竹崎季長自身は絵巻を注文しました。 – 蒙古襲来絵詞, パブリック・ドメイン, リンクによる

上に表示されている画像は蒙古襲来の様子を描いた「蒙古襲来絵詞(もうこしゅうらいえことば)」という絵巻物の一部。教科書に載っていたのを見たことはありませんか。

作成は1293年で、鎌倉時代後期の作品であり、国宝。

何が言いたいかというと、「蒙古襲来」は鎌倉時代当時からある呼称であるということです。

元寇は新しく誕生した呼び方

対して後発の呼び方である「元寇」について見ていきます。

元寇の「寇」という字には「外部から侵略してくる敵」という意味。

「元」とは蒙古襲来当時のモンゴルの呼称「大元大モンゴル国」から。

「元」という呼称は江戸時代になって、中国から「元史」などの書籍が輸入されたことにより、日本でも使用されるようになっていきました。

蒙古襲来と元寇は2回の侵略戦の総称

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蒙古襲来(元寇)は1度ではなく、2度に渡ります。それぞれ、「文永の役」、「弘安の役」と呼ばれますが、そもそも「元」とはどんな国で、なぜ日本に攻めてきたのかにを見ていきましょう。

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