端的に言えば精神一到何事か成らざらんの意味は「集中して気合を込めて行えばなんでもやれる」ですが、もっと幅広い意味やニュアンスを理解すると、使いこなせるシーンが増えるぞ。
語学好きで歴史好き、名古屋出身で7年間のライター経験を持つeastflowerを呼んです。一緒に「精神一到何事か成らざらん」の意味や例文、類語などを見ていきます。
ライター/eastflower
今回の記事を担当するのは語学好きで英語、中国語が得意な7年目のライター、eastflower。「精神一到何事か成らざらん」の言葉の起源やどんな場面で使えるのかをわかりやすく解説していく。
「精神一到何事か成らざらん」の意味は?
まず、精神一到何事か成らざらん」の辞書の意味を見ていきましょう。
1. 精神を集中して物事に当たれば、どんなむずかしい事柄でも、できないことはない。
出典: 日本国語大辞典(精選版)「精神一到何事か成らざらん」
「精神一到何事か成らざらん」(せいしんいっとうなにごとかならざらん)は、中国から日本に伝えられた成語、日本でいうことわざのことです。「精神一到何事か成らざらん」の中の「一到」(いっとう)とは、「行けるところまでいく」や「出し尽くす」という意味で使われていますので、「精神一到何事か成らざらん」を直訳すると「精神力を出し尽くせるだけ出せば、達成できないようなことがあるであろうか?」となり、国語辞典に紹介されているように「精神を集中すればどんなこともできる」という意味になるわけですね。
「精神一到何事か成らざらん」の語源は?
次に「精神一到何事か成らざらん」の語源を確認しておきましょう。
「精神一到何事か成らざらん」は、中国の思想書「朱子語類」(しゅしごるい)の中に登場する哲学のひとつです。「朱子語類」とは、南宋(なんそう)時代の思想家である朱熹(しゅき)が築きあげた哲学で、朱熹の死後、朱熹と門人たちの問答集として1270年代に編纂され、それらの文献が「朱子語類」と名付けられました。よく「朱熹」のことを「朱子」とも呼びますが、「朱子」とは、「朱熹」に尊敬を込めた名前だと言われています。この朱熹の「精神一到何事か成らざらん」の考え方は、日本の鎌倉時代に伝えられたと言われており、日本でもかなり昔から慣用句として広く使われていたのかもしれませんね。
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