
政党政治実現を目指した平民宰相、原敬とは?その生涯と残した功績について会社員ライターが分かりやすくわかりやすく解説
高等教育の拡充
原の取り組んだ政策の一つが高等教育の拡充です。当時の日本に正式な大学は東京・京都・九州・東北・北海道の5つの帝国大しかありませんでした。しかし、産業が発展し、上記の5校では人材需要に応じきれなくなていたのです。そこで原は大学令を公布し、帝国大以外に公立大学や私立大学等の設置を進めました。こうした新たな大学設置を進める一方で、法制上専門学校とされていた高等教育機関8校を大学に昇格させました。この8校には早稲田大学や慶応義塾大学等が挙げられます。
交通インフラ整備

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交通インフラ整備もまた原内閣の代表的な施策であると言えます。当時の日本には国内の幹線鉄道網は完成していたので、原内閣ではそこから延びる支線を早期に敷設し、鉄道網を拡充することが課題でした。既に建設が決まっていた12か所の建設計画に加えて、7線の本鉄道912km、11線の軽便鉄道(レールが敷きやすい代わりに輸送量が少ない)530kmが新たに計画されました。戦後恐慌等のあおりを受け、計画通りに敷設が進捗しないこともありましたが1930年代にはかなりの部分が完成し、産業発展に大きく貢献しました
凶刃に倒れ突然の死
原内閣の終わりは原の暗殺によって突然に訪れました。1921年11月4日、翌日京都で開かれる政友会関西大会に夜行で向かうため東京駅で乗り場へ歩き出したところ群衆の中から現れたt青年に右胸を刺され、ほぼ即死でした。刺した青年は維新の志士に憧れ、多数派で倒しようのない政権を潰すために一身を賭す心持で犯行に及んだと言います。原らの施策は資本家層に手厚い面が見られ、青年は末端の公務員として不況のあおりを大きく受けていました。突然の訃報に町は静まり返り、新聞は宰相の死を惜しむとともに青年の暴挙を責めたのでした。葬儀は盛岡の大慈寺で妻の浅によって執り行われ、原の墓石には「原敬」「原浅」とだけ記されています。
後世の評価
原敬への評価は当時から批判的に報道されることが多く、現代までその政治が「独裁的」として批判されることも少なくありません。しかし、同時に現代につながる政党政治の開拓者であり、海外からの軍国主義国としてのイメージを払拭することに成功したのも事実です。確かに完全無欠な政治家ではありませんでしたが、国家としての理想を貪欲なまでに追い求めた人物でした。目標を掲げ周到に突き進んでいく政治手腕は激動の時代を迎えていた日本にとって不可欠であったと言えるのではないでしょうか。