
政党政治実現を目指した平民宰相、原敬とは?その生涯と残した功績について会社員ライターが分かりやすくわかりやすく解説
大正デモクラシーと平民宰相の誕生

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時代が明治から大正へと移り、約10年続いてきた桂園体制も終わりを告げ、西園寺もまた政友会総裁を辞任します。桂園体制最後の第三次桂内閣は組閣に当たっては当時陸軍大将だった桂太郎が軍備拡大を目的とした藩閥政治を行っているとして、これに反対する護憲運動が盛んに展開されました。原の所属する政友会内でも混乱が生じ、主要人物の離党が見られました。こうした世間の不満に対して、当時政友会を与党とする山本内閣は行政人事改革を実施し、国民の支持回復に努めました。こうした護憲運動は民衆の政治意識の成長ともいえる、大正デモクラシーを代表する事件の一つです。
総裁就任、再び政党政治を目指す
西園寺の辞意表明後も護憲運動によって政友会は混乱を極め、総裁不在の状況が続いていました。同輩である原の総裁就任には抵抗感を持つものも多く、党の統制が難しいのではと考えられました。西園寺は隠居先の京都から原を次期総裁に強く推薦し、当初総裁就任に難色を示していた原もとうとうこれを引き受けました。従来爵位を持つ藩閥出身者が政党総裁を務めてきた中で、原は初の平民総裁でした。護憲運動の際に閥族派として国民の支持が下がった状況での党運営は困難を極めましたが、党内では原自身積極的に若い党員の話を聞き、政友会の結束は次第に強くなっていきました。また世論が藩閥系内閣への批判を強めた際には、是は是、非は非として形式にとらわれず公平無私の態度で臨む、と話したと言われており、この出来事から原は是々非々主義と言われるようになりました。
平民宰相の誕生
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1917年藩閥系内閣と世論の批判を受けてきた寺内内閣は衆議院解散を発表しました。党内の結束を強めてきた政友会は160議席獲得を目指したこの選挙で381議席中見事163議席を獲得しました。やがて寺内内閣は翌1918年に起きた米騒動をきっかけに辞意を表明。同年とうとう原内閣が発足します。衆議院議員であり、藩閥出身でなく、かつ爵位を持たない初の平民総理大臣の誕生に世論は、政党政治の進歩として沸き上がりました。閣僚人事についても、政友会系の官僚を充てることで政党内閣を実現させました。与党がその場の寄り合いどころではなく、結束を固めたうえで総裁が首相を務めるという安定性は初の「本格的政党内閣」であると言われています。
原宰相の功績
首相となった原は「四大政網」と銘打った重要課題を挙げました。その4つとは教育の改善、交通インフラ整備、国防の充実、産業貿易の振興でした。しかし、就任直後にまず力説したのは物価と人心の安定。当時第一次世界大戦終結後の日本において国民の求めるものでした。すべてを実現はできませんでしたが、主な功績を下記の項で述べていきます。
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