
政党政治実現を目指した平民宰相、原敬とは?その生涯と残した功績について会社員ライターが分かりやすくわかりやすく解説
第二次伊藤内閣の終わりと陸奥との死別
前項の朝鮮出張のみならず、原は陸奥外相の政治活動をささえてきました。しかし、1896年に陸奥は持病の結核が悪化し、それを理由に外相を辞任。そのころ原は朝鮮公使に任命されていましたが、陸奥辞任の数か月後、当時政権を担っていた第二次伊藤内閣が解散します。その後松方正義内閣が成立したことで、以前から原と折り合いの悪かった大隈重信が外相として入閣すると原は朝鮮公使辞任を表明。その後敬愛する陸奥の体調も回復には向かわず、1897年に結核により彼は53歳の若さでこの世を去ります。原は陸奥の意志を継ぎ、政党政治を推し進めることを再決心したのでした。
大阪毎日新聞へ転身、雌伏のとき

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前項と同時期、朝鮮公使を辞任すると原は外交官から一転、大阪毎日新聞社に幹部として就職します。この転身はこれまでの外交官として経験を生かせてなおかつ、政党政治を目指す活動の幅を広げられるという考えからでした。当時の大阪毎日新聞社(毎日新聞の前身)はライバル紙の大阪朝日新聞社(朝日新聞の前身)に1,500万部/年ほどの大きな差をつけられていました。大阪毎日新聞社へ転職後、原はその手腕を発揮して読者層を拡大し、当時2,143万部/年だった発行部数は数年で3,060万部/年へと急成長を遂げました。前項に述べた政党政治の機が熟するのは、すなわち伊藤博文の再組閣の時を意味していました。原はその時が来るのを新聞社経営に専心しつつ待つこととなります。
政党政治への歩み
松方正義内閣解散ののち、再び伊藤が組閣し第三次伊藤内閣が成立します。ところがこのとき伊藤が推し進めた地租増税は反発を招き、この反発を結束点に新党として憲政党が成立。やがて第三次伊藤内閣は約半年で解散し、1898年に憲政党の大隈重信を首相として第一次大隈内閣が成立します。これは折しも伊東や原が目指してきた初の政党内閣でしたが、伊藤らはこの政権が長くは続かないと予測していました。その読み通り、合併直後の与党は混乱を極め、初の政党内閣はわずか4か月で解散します。翌1899年4月伊藤博文が政権を担う新たな政党を創設すべく長野市を皮切りに演説を始めました。そしてこれは原の待っていた伊藤による政党政治への動きでもありました。
立憲政友会創設と、閣僚への挫折
伊藤の新党創設を目指す演説行脚を受けて、1900年には原もまた新党設立の網領をまとめるなど積極的に動き始めます。このときの彼は大阪毎日新聞社の社長になっていました。社長としての任期満了が近かった原は、いよいよ新政党参加、そして入閣への意気を強めます。新政党は伊藤によって立憲政友会と名づけられ、同年にこの政友会を与党とする第四次伊藤内閣が発足。しかし、ここに当初閣僚としての原の名はありません。これは彼にとって想定外の挫折となりました。ところが、その後逓信相の汚職事件告発により状況は一転、原はそのあとを引き継ぎ逓信相となりました。ここで原は鉄道敷設に着手しますが、日清戦争後の国債暴落により公共事業が軒並み中止となり、その最たる鉄道もまた予算審議を通せず断念。伊藤首相はこの混乱を収められず辞表を提出したのでした。
桂太郎の組閣と野党からの再出発
第四次伊藤内閣が解散するとその後は桂太郎による第一次桂内閣が発足。これにより政友会は野党として再出発を切りました。しかしこの直後政友会幹部であった星亨が暗殺され、同時期に伊藤のヨーロッパ視察が決まりました。後任者には二人の人物が選出されたものの偉大な二人の柱を同時に失った政友会は揺らぎます。原はこの時点では後任とはならなかったものの中核的存在となっていました。政友会は野党として行政改革案を議会に提出していましたが、長引く議論の中で重心を失った政友会は党員50名近くを桂内閣に買収され、党の力量不足を認めざるを得ませんでした。
一方で、その後実施された選挙にて原は郷里の盛岡から初出馬にして見事当選を果たします。但し、国全体の利益を優先したい原は選挙活動にて地元への利益還元を押し出すことはあまりしていませんが、この意図に反し地元投票者からは交通インフラ整備を始めとする利益誘導への期待が寄せられていました。
桂園体制と日露戦争

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原の盛岡当選から約1年後、伊藤博文は長く在籍してきた政友会の総裁を辞任し、党幹部であった西園寺公望が総裁に迎えられ再出発を切りました。以降、それまで対立していた政友会と桂内閣は議会内での妥協を許しつつ両党連携の道を模索するようになります。この間に政府及び党内でも混乱は広がり、国民の政治意識低下も招いていました。加えて1904年に日露戦争が開戦されると政治はますます混乱を極め、国民の意識も戦争へ向けられるようになります。やがて日露戦争終結後の1906年には政友会総裁であった西園寺公望による第一次西園寺内閣が発足し、原はこのとき内相に任命されました。以降の桂園体制下において原は内務大臣を歴任し、地方制度改革等に着手しました。
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