政党政治実現を目指した平民宰相、原敬とは?その生涯と残した功績について会社員ライターが分かりやすくわかりやすく解説
ライター/けさまる
普段は鉄鋼系の事務をしながら、大学時代の人文学科での経験を生かして執筆活動に取り組む。学生時代の研究テーマはイスラームについて。
現在の岩手県盛岡から上京、記者を経て官僚へ
原敬(幼名:原健次郎)が生まれたのは南部藩、現在の盛岡市にある武家の家でした。しかし、南部藩は戊辰戦争にて新政府軍に敗れ多額の献金を収めることになり、生活は厳しくなります。そんな中母親のリツはなんとかお金を工面し、原は就学のために上京。しかし、上京先で入塾するものの学費面等の問題から長くは続きませんでした。その後出会ったフランス人の神父であるエヴラールとの生活を経てフランス語の基礎を習得。再度家族に就学の話をした際に原は実家から分家し、平民となることを決めました。その後平民として司法省法学校に入学しますがこれを中退。これにより官途が閉ざされた原は新聞社への就職を決めました。
民間の新聞記者として就職
原のジャーナリストとしての最初の活動は、当時山梨県甲府を中心に展開されていた峡中新報にペンネームで寄稿することでした。この経験を経て、東京の有力紙であった郵便報知新聞社に就職します。しかしその後同紙の政治派閥と合わなくなり原はここを辞職。その後大阪で藩閥系の新聞社であった大東日報社に移り、編集責任者としての地位を与えられました。ここで原は朝鮮に関する記事を多く執筆。このときの経験や、政治取材で得た人脈がその後の原の人生に再び官途を示すことになるのです。
外務省入省、天津領事、そしてパリ臨時公使へ
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原は大東日報社を社長らとの意見対立により辞職し、その後念願の外務省へ入省を果たします。これには記者時代に政治取材を行った際の人脈からの周旋がありました。入省後は政府新聞ともいえる「官報」の編集等を経て天津領事に任命。これが彼にとって初の本格的な外交業務となりました。ここでの原の使命は当時清国の実力者であった李鴻章を中心に情報を集め、円滑な日清の外交を支えること。当時の日本では伊藤内閣が李鴻章との良好な関係を築いていましたが、これには李鴻章と信頼関係を築いた原の情報も大きく貢献していました。その後昇進した原はパリ公使館駐在を命ぜられ単身パリへ渡ります。これらの経験によって原は外交官としてのスキルを身に着けていきました。
陸奥宗光との出会い、ともに政界へ
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パリから帰国後の1889年、原は農商務省へ入省します。ここで外務省に戻らなかったのは、原と政治路線の合わなかった大隈重信が当時外相を務めていたためです。ここで原は農商務省の組織改革を命ぜられ、短期間のうちにこれをまとめて提言。しかし、原の提言した組織改革はしばらく実行されないまま凍結状態となります。その後最終的にこれを実行したのが1890年に農商相に任命された陸奥宗光でした。これを機に原は陸奥に心酔するようになり、二人は公私ともに親密な関係を築きます。その後陸奥は外相に任命され原も陸奥の指名を受けて再び外務省に入省を果たしました。陸奥と原が目指したのは政党を基礎に内閣を構成する政党政治の実現でした。
朝鮮での挫折と日清戦争への反感
陸奥の補佐として原は入省まもなく朝鮮への出張を命じられます。その目的は日朝間でおきた防穀令事件の賠償金問題を解決することでした。防穀令事件とは、朝鮮が自国内での穀物値上がりを懸念して凶作という虚偽の理由で日本への穀物輸出を禁じた事件です。これにより日本の商社が受けた損害賠償を日本は朝鮮に求めていました。ところがここで原は成果を上げられないまま帰国。それは朝鮮への強硬姿勢はその背後にいる清との関係悪化につながるという理由からでした。しかしこうした原の考えもむなしく、日清間を中心に東アジア情勢は次第に緊迫し、とうとう日清戦争が勃発。日清の協力関係を望んでいた原はこの戦争に一貫して反対していました。
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