現代社会

5分でわかる「小林一三」なぜ宝塚歌劇団を創設した?彼の生い立ちや経営手法などを歴史好きライターが解説

よぉ、桜木建二だ。今回は、小林一三について学んでいこう。

小林が手掛けた阪急電鉄の沿線開発は、今でも鉄道事業のロールモデルといっていい。彼の経営手法や理念は、現代に生きる我々も参考にすべきではないだろうか。

小林一三の生い立ちや思い入れの深い宝塚歌劇団などについて、日本史に詳しいライターのタケルと一緒に解説していくぞ。

解説/桜木建二

「ドラゴン桜」主人公の桜木建二。物語内では落ちこぼれ高校・龍山高校を進学校に立て直した手腕を持つ。学生から社会人まで幅広く、学びのナビゲート役を務める。

ライター/タケル

趣味はスポーツ観戦や神社仏閣巡りなどと多彩。幅広い知識を駆使して様々なジャンルに対応できるwebライターとして活動中。

若い頃の小林一三

image by iStockphoto

まずは若き日の小林一三について簡単に振り返ってみましょう。

養子の身から慶應へ

1873(明治6)年、小林一三は、山梨県の商家に生まれました。名前の「一三」(いちぞう)は、誕生日が1月3日だったことが由来です。しかし、生後まもなくして母が他界し、父とも生き別れます。小林は、幼くして叔父夫婦に引き取られることとなりました。

その叔父夫婦は比較的裕福だったため、小林は高等小学校時代から私塾に通わせてもらえました。その後、小林は15歳で上京。福沢諭吉が塾長を務める慶應義塾に入ります。在学中には、山梨日日新聞で『練絲痕』(れんしこん)という題の小説を連載するなど、才覚を発揮していました。

銀行員となるも転職に失敗し失業

1892年、慶應義塾の正科を卒業した小林一三は、小説家になることを志していました。そのステップとして新聞社勤務を希望していましたが、願いは叶わず。つてを頼りに三井銀行に入行します。しかし、銀行員の仕事にはあまり乗り気でなかったとも。

それでも、大阪支店に転勤したことで、関西でのビジネスの助けとなる人脈が生まれます。そして、北浜銀行の創始者となった岩下清周と出会い、新設予定の証券会社に支配人として招かれました。ですが、日露戦争終結後の恐慌で株式市場が暴落。証券会社の話はなくなり、小林は妻子を抱える身であったのにもかかわらず失業してしまいました。

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2020(令和2)年になり、「逸山人」と称する作家の手による連載小説『お花団子』の新聞切り抜きと、未発表の直筆原稿が発見された。この逸山人という作家が小林一三だ。また、生前の小林は(じょうもう)上毛新聞に連載していたと語っていたのだが、実際には上野(こうずけ)新聞だったこともわかったぞ。20歳そこそこで新聞小説を書き上げたのだから、小林一三は作家としての才能も優れていたことになるな。

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