今回は、小林一三について学んでいこう。

小林が手掛けた阪急電鉄の沿線開発は、今でも鉄道事業のロールモデルといっていい。彼の経営手法や理念は、現代に生きる我々も参考にすべきではないでしょうか。

小林一三の生い立ちや思い入れの深い宝塚歌劇団などについて、日本史に詳しいライターのタケルと一緒に解説していきます。

ライター/タケル

趣味はスポーツ観戦や神社仏閣巡りなどと多彩。幅広い知識を駆使して様々なジャンルに対応できるwebライターとして活動中。

若い頃の小林一三

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まずは若き日の小林一三について簡単に振り返ってみましょう。

養子の身から慶應へ

1873(明治6)年、小林一三は、山梨県の商家に生まれました。名前の「一三」(いちぞう)は、誕生日が1月3日だったことが由来です。しかし、生後まもなくして母が他界し、父とも生き別れます。小林は、幼くして叔父夫婦に引き取られることとなりました。

その叔父夫婦は比較的裕福だったため、小林は高等小学校時代から私塾に通わせてもらえました。その後、小林は15歳で上京。福沢諭吉が塾長を務める慶應義塾に入ります。在学中には、山梨日日新聞で『練絲痕』(れんしこん)という題の小説を連載するなど、才覚を発揮していました。

銀行員となるも転職に失敗し失業

1892年、慶應義塾の正科を卒業した小林一三は、小説家になることを志していました。そのステップとして新聞社勤務を希望していましたが、願いは叶わず。つてを頼りに三井銀行に入行します。しかし、銀行員の仕事にはあまり乗り気でなかったとも。

それでも、大阪支店に転勤したことで、関西でのビジネスの助けとなる人脈が生まれます。そして、北浜銀行の創始者となった岩下清周と出会い、新設予定の証券会社に支配人として招かれました。ですが、日露戦争終結後の恐慌で株式市場が暴落。証券会社の話はなくなり、小林は妻子を抱える身であったのにもかかわらず失業してしまいました。

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失業者から経営者となった小林一三

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銀行員を辞めて苦境に立たされた小林一三ですが、そこから彼はどのように経営者として身を立てるようになったのでしょうか。

鉄道会社の経営に乗り出す

不況により失業した小林一三ですが、ある日に話を聞いた計画中の鉄道に目をつけます。鉄道事業に将来性があると考えた小林は、銀行時代に世話になった岩下清周に依頼。箕面有馬電気軌道の株式を北浜銀行に引き受けさせて、自らは箕面有馬電気軌道の専務に収まりました。実際は社長が不在だったため、小林が会社の実権を握っていたとされます。

1910年(明治43)年に開業した路線は、現在の阪急電鉄宝塚本線と箕面線に相当する区間です。今でこそ通勤通学で賑わう路線ですが、開業当時は農村地帯を貫くものでした。大きな都市や観光地のない路線であったため、乗客を集められないのではと危惧されていました。

沿線の街並みも同時に開発

郊外路線だった箕面有馬電気軌道の経常利益を向上させるため、小林一三は一計を案じます。それは、鉄道沿線地域の付加価値を高めることでした。小林は路線の開業に先立ち、周辺土地を買い上げて宅地造成化これを分譲に出し、庶民向けに割賦販売としました

さらに、箕面には動物園、宝塚には温泉を開業。鉄道だけでなく沿線の街並みも開発することにより、人の流れを生み出すようになりました。利益を上げることに成功した小林は、次に神戸本線などの敷設に着手します。1918年(大正7)年には、会社名が阪神急行電鉄に改められました。

小林一三と宝塚歌劇団

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小林一三といえば、宝塚歌劇団の創始者としても有名です。ここでは、劇団立ち上げの経緯などについて見ていきましょう。

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宝塚歌劇団創設の背景

阪急電鉄と沿線の開発は進み、周辺人口の増加と賃金収入の増収という相乗効果を生みました。経営は軌道に乗り、1927(昭和2)年に小林は正式に阪急電鉄の社長に就任します。ですが、中にはうまくいかなかった事業もありました。

宝塚の温泉の隣には日本初の室内プールが作られましたが、うまくいきませんでした。今では常識といえる温水プールではなく、かつ当時は男女競泳が禁止とあっては、集客が見込めません。その跡地を改装して設立されたのが宝塚歌劇団でした。プールを改装して劇場を作り、その中で行われた少女たちによる舞台は、連日大入りとなりました。

なぜ宝塚歌劇団を設立したのか

小林一三は、三越呉服店が作った少年音楽隊を参考にしました。現在の三越は、客寄せのために少年だけで構成された音楽隊を組織したのです。少年たちが洋装に鳥の羽のついた帽子を斜めに被って歌う姿は、とても評判を呼びました。ならば、こちらは少女だけで音楽隊を作ろうと、小林の肝いりで作られたのが宝塚歌劇団でした。

さらに、小林は幼少の頃から芝居小屋に入り浸っていたと伝えられます。慶應義塾に進学後もそれは変わらず、歌舞伎なども鑑賞するようになっていました。銀行員時代も芝居にのめり込んでいたそうです。つまり、宝塚歌劇団は宣伝目的だけではなく、小林一三の趣味も関係していました。

現在の宝塚歌劇団

21世紀に入り、創設から100年以上経過した現在も、宝塚歌劇団には多くのファンがついています。2019(令和元)年度の観客動員数は、300万人近くに達したと報じられました。

現在は、兵庫県宝塚市にある宝塚大劇場と、東京都にある東京宝塚劇場を中心に公演が行われています。東京公演を通年化させるため、1998(平成10)年には、花・月・雪・星組と専科に加え、宙(そら)組が新設されました。第二次世界大戦や阪神淡路大震災、新型コロナウイルスなどで公演が中断した時期もありましたが、現在でも宝塚歌劇団は多くの人を魅了しています。

経営を拡大していく小林一三

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鉄道事業で成功した小林一三は、次々と事業を拡大していきます。主だったものを見ていきましょう。

阪急百貨店の開店

現在も阪急電鉄のターミナル駅として賑わう大阪梅田駅ですが、神戸本線開通直後から多くの乗客が訪れていました。小林一三は、その客を相手に百貨店を開くというアイデアを思いつきます。1920(大正9)年、梅田駅のターミナルビル1階に百貨店大手の白木屋を誘致。2階には、阪急直営の大食堂を開業させました。

白木屋の出店は大成功でした。そして、白木屋との契約が満了となった後の1929年(昭和4)年に、新ターミナルビルと阪急百貨店がオープン。多くの客を集めます。1947(昭和22)年に阪急百貨店は阪急電鉄から経営を独立させましたが、今でも阪急の看板を守り続けていることに変わりありません。

東宝の設立

1932(昭和7)年、小林一三は演劇や映画の興行を目的とする東京宝塚劇場を開場させました。その後、有楽座・日本劇場・帝国劇場なども所有するようになり、松竹とともに東京の興行界を取り仕切るようになります。1943(昭和18)年には、別の組織だった東宝映画株式会社と合併し、会社名を東宝株式会社と改めました。

日本の映画産業が最盛期を迎えた1950年代には、東宝もヒット作を連発。若大将シリーズやゴジラシリーズなどで安定した興行収入を得ていました。しかし、最大の娯楽が映画であった時代は過ぎ、東宝はテレビドラマの制作やTOHOシネマズの経営などに現在は軸足を移しています。

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阪急ブレーブスの創設

演劇や映画だけでなく、小林一三は大の野球ファンでもありました。春夏の高校野球甲子園大会は、第1・2回と豊中グラウンドで開かれましたが、この豊中グラウンドを作ったのが小林一三です。そんな小林が阪急ブレーブスを持っていたのは、不思議なことではありません。

しかし、小林がブレーブスの前に球団を持っていたのは、意外に知られていない事実です。1924(大正13)年に、小林は宝塚運動協会というプロ野球チームを設立しました。しかし、後に続くチームが出てこなかったり、昭和金融恐慌に巻き込まれたりでわずか5年にして解散。1936(昭和11)年、再起を期してブレーブスの母体となるチームを立ち上げました。

政治家でもあった晩年の小林一三

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経営者としての類まれなる手腕が認められた小林一三は、政治家としても活動するようになります。彼の晩年の様子とともに、その動向を振り返ってみましょう。

近衛内閣の商工大臣に

小林一三が開発した鉄道沿線は、阪急電鉄だけではありませんでした。無報酬で田園調布周辺の開発に協力し、それまでなかった鉄道を敷きました。今の東急にあたります。宅地開発と鉄道の開設がセットとなった手法は、まさに阪急電鉄で手掛けたことと同じです。

1936年(昭和11)年に阪急の会長を退任した後、小林は日本初の電力会社である東京電燈の社長に招かれました。さらに小林は、昭和電工や松竹などの経営にも関わります。その経営手腕が認められ、1940年(昭和15)年には近衛文麿内閣の商工大臣となりました。しかし、政府内の対立に巻き込まれ、1年たたずに辞任することとなります。

公職追放のちに解除

戦後まもなく、小林一三は幣原喜重郎内閣の大臣に就任。しかし、近衛内閣の大臣だったとの理由で、1951(昭和26)年まで公職追放の憂き目にあいます。晩年も東宝の社長に就任するなど活躍していましたが、1957(昭和32)年に自宅で急死。葬儀は宝塚劇場で音楽葬として執り行われました。

鉄道沿線の宅地開発や鉄道会社による百貨店経営など、鉄道経営に次々と斬新なアイデアを生み出した小林一三。彼の経営手法を模したものは現在でも見られます。たとえば、今では東京駅構内に多くの店舗が入り、買い物目的だけでも東京駅に行くようになりました。鉄道に付加価値をつけた、小林一三の手法を取り入れたものといえるでしょう。

小林一三は日本における鉄道沿線開発の先駆けである

鉄道の経営を伸ばすために、鉄道以外の分野にも経営を広げた小林一三。鉄道の価値を高めるために、阪急百貨店や宝塚歌劇団を設立するというアイデアを生み出しました。彼の独創的な経営手法は、現在でもJRや私鉄各社が取り入れているものです。小林一三は、日本における鉄道沿線開発の先駆け的存在でした。

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現代社会

3分で簡単「小林一三」なぜ宝塚歌劇団を創設した?彼の生い立ちや経営手法などを歴史好きライターがわかりやすく解説

今回は、小林一三について学んでいこう。

小林が手掛けた阪急電鉄の沿線開発は、今でも鉄道事業のロールモデルといっていい。彼の経営手法や理念は、現代に生きる我々も参考にすべきではないでしょうか。

小林一三の生い立ちや思い入れの深い宝塚歌劇団などについて、日本史に詳しいライターのタケルと一緒に解説していきます。

ライター/タケル

趣味はスポーツ観戦や神社仏閣巡りなどと多彩。幅広い知識を駆使して様々なジャンルに対応できるwebライターとして活動中。

若い頃の小林一三

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まずは若き日の小林一三について簡単に振り返ってみましょう。

養子の身から慶應へ

1873(明治6)年、小林一三は、山梨県の商家に生まれました。名前の「一三」(いちぞう)は、誕生日が1月3日だったことが由来です。しかし、生後まもなくして母が他界し、父とも生き別れます。小林は、幼くして叔父夫婦に引き取られることとなりました。

その叔父夫婦は比較的裕福だったため、小林は高等小学校時代から私塾に通わせてもらえました。その後、小林は15歳で上京。福沢諭吉が塾長を務める慶應義塾に入ります。在学中には、山梨日日新聞で『練絲痕』(れんしこん)という題の小説を連載するなど、才覚を発揮していました。

銀行員となるも転職に失敗し失業

1892年、慶應義塾の正科を卒業した小林一三は、小説家になることを志していました。そのステップとして新聞社勤務を希望していましたが、願いは叶わず。つてを頼りに三井銀行に入行します。しかし、銀行員の仕事にはあまり乗り気でなかったとも。

それでも、大阪支店に転勤したことで、関西でのビジネスの助けとなる人脈が生まれます。そして、北浜銀行の創始者となった岩下清周と出会い、新設予定の証券会社に支配人として招かれました。ですが、日露戦争終結後の恐慌で株式市場が暴落。証券会社の話はなくなり、小林は妻子を抱える身であったのにもかかわらず失業してしまいました。

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