平安時代日本史

平清盛が権力を握るきっかけになった騒乱を描く「平治物語」について元大学教員が5分でわかりやすく解説

平治物語の有名人、平清盛

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平清盛は平安時代末期の武将。伊勢平氏の棟梁であり公卿ともなります。平忠盛の嫡男で、白河法皇が女御に産ませた「白河法皇の御落胤」とも噂されました。清盛自身、その噂を最大限に利用し、自分を「法皇の子」として売り込みました。

武家政治の道を開いた平清盛

1153年に父である忠盛が亡くなったあとは、平氏の棟梁の1人として鳥羽院に仕えます。1156年、鳥羽院の死をきっかけに保元の乱がおこると、西国の武士を率いて後白河に味方。勝利を収めました。平治の乱では源義朝を破り、軍事権門として、武家政治の道を開きました。

清盛は、受領として蓄えた政治力、白河法皇の子であるという噂、そして財力を使って、武士として初めて太政大臣に上り詰めました。50歳のときに病になり出家。現在の神戸市にあたる福原に隠居します。このあいだにも摂関家に接近。娘である徳子を高倉天皇に入内。子どもは安徳天皇として即位します。武士団であった平氏は最高の地位を獲得しました。

平清盛が歴史に与えた影響

後白河は平氏打倒に方針転換。そこで清盛は福原から京へ戻って後白河を幽閉しました。そのあと、反平氏の勢力が結集。地方の武士が加わり、源頼朝が挙兵します。清盛は福原へ遷都。全国が内乱状態になりました。これが源平争乱です。

清盛の最たる功績は日宋貿易の発展。なかでも宋銭を輸入したことで、日本経済に大きな影響を与えました。それまでは物々交換の習慣が大きく残っていました。しかし、宋銭が流通したことで、銭の使用が日本に広まりました。また、宋の青磁器、茶道具、などが、日本の美術に大きな影響を与えました。

平治物語は武士の台頭と悲劇を描いた作品

平治物語は単なる戦記物ではありません。ときには親子同士で戦う悲劇を描いた作品でもあります。武士の台頭は簡単に起こったものではありません。そのあいだの多くの犠牲を、平治物語は和漢混合隊で巧みに描きました。文章で読むのは自信がない人は、まず大河ドラマの映像で楽しんでみてもいいでしょう。歴史上の人間の心を垣間見れるかもしれません。

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