平安時代日本史

平清盛が権力を握るきっかけになった騒乱を描く「平治物語」について元大学教員が5分でわかりやすく解説

戦乱を通じて台頭した源氏・平氏

源氏も平氏も、一族のリーダーになったのは、清和天皇や桓武天皇の皇子、孫、ひ孫など、皇族系統の貴族です。彼らは、中央の要職から締め出され、出世の道が閉ざされていました。そこで、武士の棟梁として頭角をあらわしたのです。もともと貴族であったのに、どのような過程で武士の棟梁になったのでしょうか。

大きな荘園を所有している豪族たちは、武力で荘園を守る必要がありました。そこで集まった人たちが武士団になったのです。武士団は豪族や地主に雇われ、徐々に力を強めていきました。中央政権にも抵抗できるほどの勢力となるものの、その身分は低いのが実情。血統的に「貴い」と崇められるトップを必要としました。そこで中央から締め出された名門貴族の源氏と平氏を、トップに置くようになったのです。

平治物語を彩る上皇と武士の関係

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中央では皇位継承をめぐる争いが激化、リタイアした天皇が上皇に。何の法的根拠もないまま院政を行い、権力をふるう時代となりました。これまでも上皇が権力を握ったことはありました。しかしながら今回は、白河上皇の権限は今までに例を見ないほど強力になり、さらに長期に渡ったのです。

勢力争いの末に武士の時代へ

天皇方と上皇方はそれぞれ「ひいきの武士団」を置きます。地方の受領もどちらかに加担。受領は、上皇に莫大な賄賂を贈るようになりました。その結果、上皇は巨大な財力を築き、その経済力を盾にして、たくさんの武士を抱えるようになりました。

源平の武士は、皇室の勢力争いに利用されたともいえます。しかし、結果的には武士の時代となりました。それは突然やって来たのではなく、平安時代の初期から少しずつ進んでいました。律令制度が崩壊して荘園が増加。その荘園をまもるために、豪族たちが武装化しました。それがやがて武士となったのです。

河内源氏の子孫である源義朝

ひとりめの代表的な武士は源義朝。都で凋落していた河内源氏の子孫です。義朝は東国へ下向。在地の豪族を組織化して勢力を伸ばしていました。保元の乱では、親子親族兄弟と斬りあうという悲劇に見舞われますが、戦功を挙げました。

恩賞が不公平だと思っていたところ、藤原信頼に誘われて平治の乱に加担。敗北します。都から離れる途中に尾張の国で家人に殺されました。正室の子が頼朝、側室は常盤御前。常盤の生んだ子が義経です。また庶子には悪源太と呼ばれた義平がいます。

源義平は悲劇の主人公

源義平は、義朝の庶子であり、母は遊女。鎌倉悪源太(あくげんた)という名前で登場します。平治物語では悲劇の主人公という位置づけ。義平は、父の義朝に従って戦いますが、京都六条で敗れます。父が尾張で殺されたため、義平は京に引き返して、清盛を討つことを試みました。

義平は六条川原で斬られたとき、「雷となって汝を殺さん」と叫びます。その言葉通り、義平を斬った男は雷に打たれて命を落としました。15歳で父の仇である叔父を倒して名を挙げ、悪源太と呼ばれるようになりました。

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