平治物語(へいじものがたり)は、この作品に先立って成立した「保元物語」の姉妹編と言われている。著者は同じ、成立した時期も、1220年以降と同じとされた。大河ドラマの「平清盛」と重なるところも多い書物。鎌倉時代になるまでの期間もよく分かることが文学的特徴です。

そんな平治物語について、その内容、時代背景、人間関係などを、日本史に詳しいライターひこすけと一緒に解説していきます。

ライター/ひこすけ

アメリカの歴史や文化に興味がある元大学教員。平安時代にも興味があり、関係することを調べている。今回は、武士の時代の幕開けとなった平治の乱を扱った平治物語をとりあげる。

平治物語とはどのよな作品?

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平治物語の内容は3巻。藤原信頼(のぶより)と源義朝(よしとも)が反乱を起こし、藤原信西(しんぜい)と平清盛に敗れた「平治の乱」の顛末を、和漢混交文で描いた作品です。

平治物語を特徴づける和漢混交文

平治物語は、悪源太義平(吉平)が主人公で、彼を悲劇の中心に位置づけています。この物語を紡ぎ出す和漢混交文とは、中国渡来の漢字による漢語、大和言葉である和語、当時の口語である俗語などを交えた文体のこと。和漢混交文とすることで、リズミカルで躍動感がある描写が実現しました。

平治物語は、平清盛が権力を握るきっかけになった「平治の乱」(1159)を題材に描いた軍記物語。藤原信頼と信西の対決に端を発し、平治の乱で敗北した源氏側が再起し、平氏を駆逐する所までを描きました。合戦場面では漢文体が中心。新しい時代に向かう流れと、そのなかにいる人間を生き生きと描きました。いっぽう、哀愁を伴う場面では和語を使っています。

平治物語の多彩な登場人物

平治物語には、当時の合戦に加わった武将がほぼ全員登場。登場人物の名前が似ており、親族同士なので、苗字も同じ。そんな登場人物が、親子兄弟と敵味方に分かれて殺し合うため、人物関係を理解することはとても大変です。そこで、天皇、上皇など皇室関係者、藤原摂関家、平氏の武将、源氏の武将に区分した表を作成すると理解しやすくなるでしょう。

登場人物のなかで、キーパーソンとなるのが、後白河天皇、信西入道(藤原通憲)、藤原信頼、平清盛、源義朝、源義平(通称悪源太)、源頼朝の計7名。これらの人々の立ち位置とキャラ設定をつかんでおくと、平治物語の世界をより楽しめるようになります。

激動の時代を描いた平治物語

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現代のように男系男子の長子相続ではありませんでした。異母兄弟が大勢存在し、それぞれが敵でもあったのです。母親の地位が低い場合は初めから敗者。母親の身分が高い者同士の争いは熾烈でした。それに加え、天皇自身がえこひいきをすることも。平安時代には抑え込まれていた武士が台頭したことによる大変動の時代でした。

平治物語の中心人物、後白河天皇

多発した内乱の中心にいるのが後白河天皇。内乱の元凶なのか、たんに時代の波に流されていたのか、いろいろな考え方ができます。後白河天皇は、77代天皇(1127~1192)で、その名は雅仁(まさひと)。鳥羽天皇の4番目の子息として生をうけました。異母帝である近衛(このえ)の急死により、天皇に即位しました。二条帝に譲位したあと、5代の天皇にわたる30余年者間、院政を行って王権を維持します。

後白河天皇は、たくみに源氏平氏に近づいた人物。利用したら裏切り、源平争乱を演出したと言われています。なんども幽閉されましたが脱出し、そのたびに復権しました。新しく確立した鎌倉幕府とも揉めること多数。しかし、巧みに操りました。その後の武家政権において皇室の力を維持、「治天の君」と呼ばれました。そんな後白河を源頼朝は「二歩日の大天狗」と評しました。

後白河は寺社勢力には厳しく接しました。その反面、仏経を手厚く保護し、東大寺の大仏再建に取り組みました。また、当時の流行歌である今様にのめりこみ、一般の下賤な歌い手や踊り手を宮中に招き入れ、一緒に詠ったり踊ったりしたとのこと。彼が今様を撰して世に出したのが「梁塵秘抄」(りょうじんひしょう)です。「梁塵秘抄」は当時の流行歌集。今読んでもとても楽しいものです。

後白河に翻弄された源平の武将たち

鳥羽天皇が亡くなったあと、崇徳上皇派と後白河天皇派の間で保元の乱が勃発。後白河天皇方は平清盛と源義朝、崇徳上皇派は藤原頼長、源為義、源為朝、平正忠。後白河天皇は勝利し、崇徳上皇は讃岐に遠流となります。後白河の後見役の入道信西は、政権を強化するために力をふるいました。荘園を整理するなど、大寺社の統制をすすめ、事実上の権力者となります。

後白河は3年で譲位。二条天皇が即位します。譲位したあと、後白河を太政天皇に押し上げたのが信西。後白河は藤原頼長から没収した荘園を自分のものとし、絶大な財力を築きあげました。すると後白河派と二条派で争いが激化。後白河派の内部でも、信西と信頼が対立します。朝廷内は三つ巴の争いとなり、保元の乱から3年後に平治の乱が勃発しました。

平治物語に関わる二つの大きな内乱

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平治の乱は保元の乱と分けて考えることはできません。保元の乱の200年ほど前から地方政治は乱れ、土地の豪族たちが武士団を雇うようになります。その武士団が土着化して、大きな力を持つようになりました。平安時代の貴族政治はガタガタと崩れ去ったのです。そして、天皇家の皇位継承争いを機に保元の乱が勃発しました。

皇位継承をめぐる天皇家の争い

平治物語に関わるのは皇位継承をめぐる天皇家の争い。崇徳上皇と後白河天皇の対立です。そこに藤原家の争いが加わり、戦闘に発展しました。後白河天皇側では、源義朝や平清盛などの武士が力を発揮。崇徳上皇は破れ、讃岐に遠流となりました。これが保元の乱です。

保元の乱のあと、後白河は上皇となり、絶大な勢力をふるいました。一方、彼に対して不満を持つ人々も。たとえば、戦功があったにも関わらず、その処遇に不満を持っていた源義朝、乱をあおった信西に恨みを持っていた藤原信頼などです。そこで信頼は義朝を誘い、信西の庇護者である平清盛の留守中に、白川院の御所を襲撃。このとき、源義朝、源義平、源頼朝が、信頼側につきました。合戦の場はなんと上皇の御所。これが平治の乱です。

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戦乱を通じて台頭した源氏・平氏

源氏も平氏も、一族のリーダーになったのは、清和天皇や桓武天皇の皇子、孫、ひ孫など、皇族系統の貴族です。彼らは、中央の要職から締め出され、出世の道が閉ざされていました。そこで、武士の棟梁として頭角をあらわしたのです。もともと貴族であったのに、どのような過程で武士の棟梁になったのでしょうか。

大きな荘園を所有している豪族たちは、武力で荘園を守る必要がありました。そこで集まった人たちが武士団になったのです。武士団は豪族や地主に雇われ、徐々に力を強めていきました。中央政権にも抵抗できるほどの勢力となるものの、その身分は低いのが実情。血統的に「貴い」と崇められるトップを必要としました。そこで中央から締め出された名門貴族の源氏と平氏を、トップに置くようになったのです。

平治物語を彩る上皇と武士の関係

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中央では皇位継承をめぐる争いが激化、リタイアした天皇が上皇に。何の法的根拠もないまま院政を行い、権力をふるう時代となりました。これまでも上皇が権力を握ったことはありました。しかしながら今回は、白河上皇の権限は今までに例を見ないほど強力になり、さらに長期に渡ったのです。

勢力争いの末に武士の時代へ

天皇方と上皇方はそれぞれ「ひいきの武士団」を置きます。地方の受領もどちらかに加担。受領は、上皇に莫大な賄賂を贈るようになりました。その結果、上皇は巨大な財力を築き、その経済力を盾にして、たくさんの武士を抱えるようになりました。

源平の武士は、皇室の勢力争いに利用されたともいえます。しかし、結果的には武士の時代となりました。それは突然やって来たのではなく、平安時代の初期から少しずつ進んでいました。律令制度が崩壊して荘園が増加。その荘園をまもるために、豪族たちが武装化しました。それがやがて武士となったのです。

河内源氏の子孫である源義朝

ひとりめの代表的な武士は源義朝。都で凋落していた河内源氏の子孫です。義朝は東国へ下向。在地の豪族を組織化して勢力を伸ばしていました。保元の乱では、親子親族兄弟と斬りあうという悲劇に見舞われますが、戦功を挙げました。

恩賞が不公平だと思っていたところ、藤原信頼に誘われて平治の乱に加担。敗北します。都から離れる途中に尾張の国で家人に殺されました。正室の子が頼朝、側室は常盤御前。常盤の生んだ子が義経です。また庶子には悪源太と呼ばれた義平がいます。

源義平は悲劇の主人公

源義平は、義朝の庶子であり、母は遊女。鎌倉悪源太(あくげんた)という名前で登場します。平治物語では悲劇の主人公という位置づけ。義平は、父の義朝に従って戦いますが、京都六条で敗れます。父が尾張で殺されたため、義平は京に引き返して、清盛を討つことを試みました。

義平は六条川原で斬られたとき、「雷となって汝を殺さん」と叫びます。その言葉通り、義平を斬った男は雷に打たれて命を落としました。15歳で父の仇である叔父を倒して名を挙げ、悪源太と呼ばれるようになりました。

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平治物語の有名人、平清盛

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平清盛は平安時代末期の武将。伊勢平氏の棟梁であり公卿ともなります。平忠盛の嫡男で、白河法皇が女御に産ませた「白河法皇の御落胤」とも噂されました。清盛自身、その噂を最大限に利用し、自分を「法皇の子」として売り込みました。

武家政治の道を開いた平清盛

1153年に父である忠盛が亡くなったあとは、平氏の棟梁の1人として鳥羽院に仕えます。1156年、鳥羽院の死をきっかけに保元の乱がおこると、西国の武士を率いて後白河に味方。勝利を収めました。平治の乱では源義朝を破り、軍事権門として、武家政治の道を開きました。

清盛は、受領として蓄えた政治力、白河法皇の子であるという噂、そして財力を使って、武士として初めて太政大臣に上り詰めました。50歳のときに病になり出家。現在の神戸市にあたる福原に隠居します。このあいだにも摂関家に接近。娘である徳子を高倉天皇に入内。子どもは安徳天皇として即位します。武士団であった平氏は最高の地位を獲得しました。

平清盛が歴史に与えた影響

後白河は平氏打倒に方針転換。そこで清盛は福原から京へ戻って後白河を幽閉しました。そのあと、反平氏の勢力が結集。地方の武士が加わり、源頼朝が挙兵します。清盛は福原へ遷都。全国が内乱状態になりました。これが源平争乱です。

清盛の最たる功績は日宋貿易の発展。なかでも宋銭を輸入したことで、日本経済に大きな影響を与えました。それまでは物々交換の習慣が大きく残っていました。しかし、宋銭が流通したことで、銭の使用が日本に広まりました。また、宋の青磁器、茶道具、などが、日本の美術に大きな影響を与えました。

平治物語は武士の台頭と悲劇を描いた作品

平治物語は単なる戦記物ではありません。ときには親子同士で戦う悲劇を描いた作品でもあります。武士の台頭は簡単に起こったものではありません。そのあいだの多くの犠牲を、平治物語は和漢混合隊で巧みに描きました。文章で読むのは自信がない人は、まず大河ドラマの映像で楽しんでみてもいいでしょう。歴史上の人間の心を垣間見れるかもしれません。

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平安時代日本史

平清盛が権力を握るきっかけになった騒乱を描く「平治物語」について元大学教員が5分でわかりやすく解説

平治物語(へいじものがたり)は、この作品に先立って成立した「保元物語」の姉妹編と言われている。著者は同じ、成立した時期も、1220年以降と同じとされた。大河ドラマの「平清盛」と重なるところも多い書物。鎌倉時代になるまでの期間もよく分かることが文学的特徴です。

そんな平治物語について、その内容、時代背景、人間関係などを、日本史に詳しいライターひこすけと一緒に解説していきます。

ライター/ひこすけ

アメリカの歴史や文化に興味がある元大学教員。平安時代にも興味があり、関係することを調べている。今回は、武士の時代の幕開けとなった平治の乱を扱った平治物語をとりあげる。

平治物語とはどのよな作品?

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平治物語の内容は3巻。藤原信頼(のぶより)と源義朝(よしとも)が反乱を起こし、藤原信西(しんぜい)と平清盛に敗れた「平治の乱」の顛末を、和漢混交文で描いた作品です。

平治物語を特徴づける和漢混交文

平治物語は、悪源太義平(吉平)が主人公で、彼を悲劇の中心に位置づけています。この物語を紡ぎ出す和漢混交文とは、中国渡来の漢字による漢語、大和言葉である和語、当時の口語である俗語などを交えた文体のこと。和漢混交文とすることで、リズミカルで躍動感がある描写が実現しました。

平治物語は、平清盛が権力を握るきっかけになった「平治の乱」(1159)を題材に描いた軍記物語。藤原信頼と信西の対決に端を発し、平治の乱で敗北した源氏側が再起し、平氏を駆逐する所までを描きました。合戦場面では漢文体が中心。新しい時代に向かう流れと、そのなかにいる人間を生き生きと描きました。いっぽう、哀愁を伴う場面では和語を使っています。

平治物語の多彩な登場人物

平治物語には、当時の合戦に加わった武将がほぼ全員登場。登場人物の名前が似ており、親族同士なので、苗字も同じ。そんな登場人物が、親子兄弟と敵味方に分かれて殺し合うため、人物関係を理解することはとても大変です。そこで、天皇、上皇など皇室関係者、藤原摂関家、平氏の武将、源氏の武将に区分した表を作成すると理解しやすくなるでしょう。

登場人物のなかで、キーパーソンとなるのが、後白河天皇、信西入道(藤原通憲)、藤原信頼、平清盛、源義朝、源義平(通称悪源太)、源頼朝の計7名。これらの人々の立ち位置とキャラ設定をつかんでおくと、平治物語の世界をより楽しめるようになります。

激動の時代を描いた平治物語

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現代のように男系男子の長子相続ではありませんでした。異母兄弟が大勢存在し、それぞれが敵でもあったのです。母親の地位が低い場合は初めから敗者。母親の身分が高い者同士の争いは熾烈でした。それに加え、天皇自身がえこひいきをすることも。平安時代には抑え込まれていた武士が台頭したことによる大変動の時代でした。

平治物語の中心人物、後白河天皇

多発した内乱の中心にいるのが後白河天皇。内乱の元凶なのか、たんに時代の波に流されていたのか、いろいろな考え方ができます。後白河天皇は、77代天皇(1127~1192)で、その名は雅仁(まさひと)。鳥羽天皇の4番目の子息として生をうけました。異母帝である近衛(このえ)の急死により、天皇に即位しました。二条帝に譲位したあと、5代の天皇にわたる30余年者間、院政を行って王権を維持します。

後白河天皇は、たくみに源氏平氏に近づいた人物。利用したら裏切り、源平争乱を演出したと言われています。なんども幽閉されましたが脱出し、そのたびに復権しました。新しく確立した鎌倉幕府とも揉めること多数。しかし、巧みに操りました。その後の武家政権において皇室の力を維持、「治天の君」と呼ばれました。そんな後白河を源頼朝は「二歩日の大天狗」と評しました。

後白河は寺社勢力には厳しく接しました。その反面、仏経を手厚く保護し、東大寺の大仏再建に取り組みました。また、当時の流行歌である今様にのめりこみ、一般の下賤な歌い手や踊り手を宮中に招き入れ、一緒に詠ったり踊ったりしたとのこと。彼が今様を撰して世に出したのが「梁塵秘抄」(りょうじんひしょう)です。「梁塵秘抄」は当時の流行歌集。今読んでもとても楽しいものです。

後白河に翻弄された源平の武将たち

鳥羽天皇が亡くなったあと、崇徳上皇派と後白河天皇派の間で保元の乱が勃発。後白河天皇方は平清盛と源義朝、崇徳上皇派は藤原頼長、源為義、源為朝、平正忠。後白河天皇は勝利し、崇徳上皇は讃岐に遠流となります。後白河の後見役の入道信西は、政権を強化するために力をふるいました。荘園を整理するなど、大寺社の統制をすすめ、事実上の権力者となります。

後白河は3年で譲位。二条天皇が即位します。譲位したあと、後白河を太政天皇に押し上げたのが信西。後白河は藤原頼長から没収した荘園を自分のものとし、絶大な財力を築きあげました。すると後白河派と二条派で争いが激化。後白河派の内部でも、信西と信頼が対立します。朝廷内は三つ巴の争いとなり、保元の乱から3年後に平治の乱が勃発しました。

平治物語に関わる二つの大きな内乱

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平治の乱は保元の乱と分けて考えることはできません。保元の乱の200年ほど前から地方政治は乱れ、土地の豪族たちが武士団を雇うようになります。その武士団が土着化して、大きな力を持つようになりました。平安時代の貴族政治はガタガタと崩れ去ったのです。そして、天皇家の皇位継承争いを機に保元の乱が勃発しました。

皇位継承をめぐる天皇家の争い

平治物語に関わるのは皇位継承をめぐる天皇家の争い。崇徳上皇と後白河天皇の対立です。そこに藤原家の争いが加わり、戦闘に発展しました。後白河天皇側では、源義朝や平清盛などの武士が力を発揮。崇徳上皇は破れ、讃岐に遠流となりました。これが保元の乱です。

保元の乱のあと、後白河は上皇となり、絶大な勢力をふるいました。一方、彼に対して不満を持つ人々も。たとえば、戦功があったにも関わらず、その処遇に不満を持っていた源義朝、乱をあおった信西に恨みを持っていた藤原信頼などです。そこで信頼は義朝を誘い、信西の庇護者である平清盛の留守中に、白川院の御所を襲撃。このとき、源義朝、源義平、源頼朝が、信頼側につきました。合戦の場はなんと上皇の御所。これが平治の乱です。

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