今回は、菅直人元首相について学んでいこう。

彼は東日本大震災が発生した時の内閣総理大臣であったが、当時の原発事故への対応は今も評価が分かれるところです。

内閣が1年で総辞職した理由や菅直人の現況などを、日本史に詳しいライターのタケルと一緒に解説していきます。

ライター/タケル

資格取得マニアで、士業だけでなく介護職員初任者研修なども受講した経験あり。現在は幅広い知識を駆使してwebライターとして活動中。

学生運動から市民運動へ

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菅直人は学生運動と市民運動出身としても有名です。まずはその時期から振り返っていきましょう。

学生運動にのめり込む

1946(昭和21)年、菅直人は山口県で生まれました。長州藩士の高杉晋作に憧れを持ち、のちに自らの内閣を「奇兵隊内閣」と名付けたほどです。菅は高校時代に父の転勤で東京に引っ越し、それ以降は東京で暮らすことになります。総理大臣経験者には珍しい理系で、東京工業大学理工学部に入学しました。

大学在学中は学生運動に没頭し、自らグループを立ち上げたほどです。発足当時は10人程度だったグループは、200人ほどにまで膨れ上がりました。そのために、卒業研究ができなくなって1年留年することに。1970(昭和45)年冬に学生結婚し、3月に大学を卒業しました。

市川房枝擁立運動

大学卒業後の菅直人は特許事務所に就職し、1年後には特許の手続きが行える弁理士の国家試験に合格しました。さらに3年後には独立し、特許事務所を開設。菅は大学卒業後も市民運動に関わりたいとの考えから、自営できる職業を志していました。実際に、東京の地価高騰問題などに関わる運動を起こしています。

市民運動の活動中に知り合ったのが、婦人運動家として名高い市川房枝でした。当時の市川は政界を引退していましたが、菅は彼女を出馬させようとグループを立ち上げます。選挙運動にも菅は尽力し、市川は見事参議院選挙に当選。それ以降、菅も政界入りを目指すようになります。

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政治家となった菅直人

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菅直人は、市民運動家から政治家へと転身することになります。政界ではどのような活動をしたのか、首相になる前までを見ていきましょう。

社民連から立候補

1976(昭和51)年、菅直人は市川房枝の支持団体より支援を受けて衆議院議員選挙に立候補します。しかし、次点で落選。1977(昭和52)年の参議院議員選挙にも出馬しましたが、当選はせず。1979(昭和54)年の衆議院議員選挙にも立候補しましたが、当選しませんでした。

1980(昭和55)年の衆議院議員選挙。社会民主連合から出馬した菅は、ついに初当選を果たしました。社会民主連合では副代表や副書記長などを歴任。丸山ワクチンの不認可問題への国会質問や、PKO協力法成立へ抵抗するなど、市民運動出身らしく追及の手を緩めませんでした。

橋本内閣で厚生大臣に

1994(平成6)年に社会民主連合が解散すると、菅直人は新党さきがけに合流します。新党さきがけは、細川護熙内閣に連立8党の1つとして参加。村山富市内閣でも、自民党・公明党とともに連立政権へ加わりました。菅は新党さきがけの政務調査会長として、3党の調整役を担うことになります。

1996(平成8)年、自民党総裁の橋本龍太郎が総理大臣となりますが、自民・公明・さきがけの連立は維持されました。菅は厚生大臣として初入閣します。薬害エイズ訴訟では、菅が厚生大臣として国および厚生省の責任を認めて謝罪。しかし、O157による食中毒騒動でカイワレ大根が原因と発表し、生産農家の風評被害を招く結果となりました。

民主党へ合流

1996(平成8)年、鳩山由紀夫が新党さきがけを離党して民主党を旗揚げすると、菅直人もそれに参加。鳩山と菅が共同代表に就任しました。1998(平成10)年、民主党はさらに合併で大きくなり、所属の国会議員は100人を超えるまでに。党勢を拡大させた民主党の代表には菅が就任します。

その年の参議院選挙では自民党が過半数割れとなり、参議院では菅が首班指名を受けました。しかし、民主党が政権を取るまでには至らず。しばらくは自民党政権が続きます。その後、菅は2002(平成14)年にも党代表となりましたが、2004(平成16)年に自らの年金未納問題で辞任に追い込まれました。

菅直人首相の誕生

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2009年、民主党は政権の座につき、その翌年に菅直人が首相となります。その頃について簡単に振り返ってみましょう。

鳩山由紀夫の後任に

2009(平成21)年、総選挙で圧勝した民主党が政権の座につき、民主党代表の鳩山由紀夫が総理となります。菅直人は、副総理兼内閣府特命担当大臣(経済財政政策)として鳩山内閣に入閣しました。しかし、普天間基地移設問題で頓挫するようになると、鳩山内閣の支持率は一気に低下。1年と持たずして、鳩山は総理を辞任せざるをえませんでした。

その後任を選ぶこととなる民主党の代表選挙で、菅は勝利します。2010(平成22)年6月に首班指名を受け、菅は日本国第94代内閣総理大臣となりました。「最小不幸社会」をキャッチフレーズとした内閣がここに発足。鳩山内閣を継承する形で、事業仕分けなどが実施されました。

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菅おろしが起こる

2011(平成23)年6月、自民・公明などの野党が、合同で内閣不信任案を提出しました。菅直人の、総理としての資質を問うたものです。野党の対応としては、特に珍しいことではありません。ですが、提出の時期が東日本大震災からまだ3カ月しかたっておらず、3党には批判が集まりました。

ところが、民主党内からも内閣不信任案に同調しようという動きが起こります。野党とそのグループを合わせれば不信任決議が可決される見込みとなるほど、その人数は増えていきました。党執行部からの説得で民主党から不信任決議賛成に回るのを最小限に食い止めましたが、菅への退陣要求は収まらず。結局、8月に菅は内閣総辞職を表明しました。

なぜ菅直人内閣は短命に終わったのか

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なぜ、菅直人はわずか1年で総理を辞することとなったのでしょうか。それには、以下に紹介する理由が考えられます。

尖閣諸島中国漁船衝突事件への対応

2010(平成22)年9月7日の午前、尖閣諸島付近で操業していた中国の漁船が、海上保安庁の巡視船に衝突しました。日本の領海内で操業していたため、海上保安庁は漁船に退去命令を出しましたが、漁船側がこれを無視。巡視船を破損させてまで逃亡を図ったものの、船長は逮捕され、他の乗組員は事情聴取を受けました。

日本の領海を侵犯し、かつ公務執行妨害を犯したわけですから、船長には厳罰が科されることも予想できたはずです。しかし、船長は釈放され、菅政権はそれを容認します。日本の国益よりも中国との外交を優先したとしか受け止められない対応に世論は反発し、菅内閣の支持率は急落しました。

東日本大震災の発生

2011年(平成23年)3月11日に発生した東日本大震災は、2万人以上の死者・行方不明者を出す大災害でした。マグニチュード9.0、最大震度7の地震により、家屋の倒壊や津波などの被害が相次ぐことに。そして、福島第一原発の事故は、多くの周辺住民が避難を余儀なくされる深刻なものでした。

福島第一原発の事故処理にしびれを切らした菅直人は、原発事故翌日には福島の現地へ、その3日後に東京電力本社へ自ら駆けつけました。ですが、事故処理の現場をかえって混乱させたとして菅が非難を浴びることとなります。当時の事故への対応については10年以上経った現在でも評価は分かれますが、当時は批判的な論調が目立ちました。

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小沢グループの造反

鳩山由紀夫が総理を辞任する際の民主党代表選挙でも、すでに小沢一郎を中心とするグループは菅直人に対抗する動きを見せていました。小沢グループから樽床伸二が出馬しましたが、菅は反小沢派であった枝野幸男や仙谷由人らの支持を取り付けて当選します。民主党の主力派は、脱小沢を方針とするようになりました。

3カ月後に行われた民主党代表選挙に、今度は小沢が出馬。菅はこれを退けましたが、小沢グループとの亀裂が深まることになります。そして、野党による菅内閣への退陣要求に、小沢グループが相乗する形に。菅は退陣の流れを止められなかったため、内閣総辞職に追い込まれました。

内閣退陣後の菅直人

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ここからは、総理を辞任した後の菅直人について簡単に振り返っていきましょう。

民主党から民進党へ

総理辞任後は、鳩山由紀夫とともに民主党最高顧問に就任した菅直人。しかし、菅は選挙で苦戦するようになります。2012(平成24)年の総選挙は小選挙区で落選したものの、比例で復活当選。2014(平成26)年の総選挙でも小選挙区で敗れましたが、比例で当選を果たします。

2016(平成28)年、民主党は維新の党などと合流。党名を民進党と改め、勢力を拡大させました。9月に行われた代表選挙で蓮舫が当選し、菅は民進党の最高顧問として支えます。しかし、2017(平成29)年の東京都議会議員選挙で民進党が敗れた責任を取り、蓮舫は辞任しました。

立憲民主党結成に参加

2017(平成29)年、民進党代表の前原誠司は、小池百合子都知事率いる希望の党との合流を決意します。しかし、小池がいわゆる排除の論理を示したため、枝野幸男を中心とするリベラル寄りのグループは反発。民進党を離党して立憲民主党を結成し、菅も新党に参加します。総選挙では立憲民主党が躍進し、希望の党と民進党は苦戦しました。

2021(令和3)年の総選挙において、改選前は立憲民主党の政権奪取が予想されるほどでした。しかし、立憲民主党と共産党らとの連携があまり支持されず、逆に議席数を減らすことに。菅直人も小選挙区で苦戦しましたが、僅差で当選しました。衆議院議員として14期目を迎えたことになります。

菅直人内閣が退陣した原因は1つに絞られるものではない

菅直人の総理在職時には、東日本大震災という未曾有の大災害が発生しました。その対応に追われて苦慮した菅は、震災発生の半年後に総理を辞することとなります。しかし、大災害への対応のまずさだけが短命内閣の原因ではありません。外交での不手際や民主党の内紛などもその原因となったのです。

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現代社会

3分で簡単「菅直人」なぜ内閣は1年で総辞職した?原発との関わりや現在の状況などを行政書士試験合格ライターがわかりやすく解説

今回は、菅直人元首相について学んでいこう。

彼は東日本大震災が発生した時の内閣総理大臣であったが、当時の原発事故への対応は今も評価が分かれるところです。

内閣が1年で総辞職した理由や菅直人の現況などを、日本史に詳しいライターのタケルと一緒に解説していきます。

ライター/タケル

資格取得マニアで、士業だけでなく介護職員初任者研修なども受講した経験あり。現在は幅広い知識を駆使してwebライターとして活動中。

学生運動から市民運動へ

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菅直人は学生運動と市民運動出身としても有名です。まずはその時期から振り返っていきましょう。

学生運動にのめり込む

1946(昭和21)年、菅直人は山口県で生まれました。長州藩士の高杉晋作に憧れを持ち、のちに自らの内閣を「奇兵隊内閣」と名付けたほどです。菅は高校時代に父の転勤で東京に引っ越し、それ以降は東京で暮らすことになります。総理大臣経験者には珍しい理系で、東京工業大学理工学部に入学しました。

大学在学中は学生運動に没頭し、自らグループを立ち上げたほどです。発足当時は10人程度だったグループは、200人ほどにまで膨れ上がりました。そのために、卒業研究ができなくなって1年留年することに。1970(昭和45)年冬に学生結婚し、3月に大学を卒業しました。

市川房枝擁立運動

大学卒業後の菅直人は特許事務所に就職し、1年後には特許の手続きが行える弁理士の国家試験に合格しました。さらに3年後には独立し、特許事務所を開設。菅は大学卒業後も市民運動に関わりたいとの考えから、自営できる職業を志していました。実際に、東京の地価高騰問題などに関わる運動を起こしています。

市民運動の活動中に知り合ったのが、婦人運動家として名高い市川房枝でした。当時の市川は政界を引退していましたが、菅は彼女を出馬させようとグループを立ち上げます。選挙運動にも菅は尽力し、市川は見事参議院選挙に当選。それ以降、菅も政界入りを目指すようになります。

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