
3分で簡単「吉野作造」大正デモクラシーに影響を与えた?生い立ちや民本主義などを歴史好きライターがわかりやすく解説
関東大震災と吉野作造
1923(大正12)年に発生した関東大震災は、吉野作造に大きな影響を及ぼしました。当時の吉野は東大に教授として在職中。研究室と図書館が被災し、吉野は燃える図書館から資料を取り出そうと何度も試みたと伝えられます。しかし、その願いは叶わず、吉野には涙が見られたとも。
また、関東大震災の後には、多くの朝鮮人が虐殺されるという事件が起きました。朝鮮人が井戸に毒を入れたといったような根も葉もないデマが流れ、それを信じた者が凶行に走った事件です。事態を重く見た吉野作造らが、虐殺事件を詳しく調査。事件に対する政府の責任を問うために、決議文を持って首相らのもとを訪ねました。
朝日新聞に入社するもすぐに退職
1924(大正13)年、吉野作造は東大を辞職します。次の進路に選んだのが朝日新聞。破格の条件で、編集顧問兼論説委員として招かれました。当時の吉野は多くの留学生を援助しており、関東大震災などで資金繰りに苦しんだため、高給を提示した朝日新聞の入社を受け入れたのです。
しかし、吉野作造が朝日新聞に在職したのはわずか数ヶ月でした。吉野の署名入り記事が、政府の逆鱗に触れることになります。天皇の意向とは異なる議決を行う可能性を秘めていた枢密院の廃止を訴えたのですが、逆に天皇制への冒涜だと批判を浴びたのです。吉野は責任を取らされる形で朝日新聞を退職せざるを得ませんでした。
明治文化全集の刊行
朝日新聞を退職した吉野作造は、すぐに東大に復職。明治文化研究会を組織します。研究者や評論家、ジャーナリストなどを集めたその会は、明治文化全集という形で成果を残しました。1927(昭和2)年から刊行が始まり、1974(昭和49)年の32巻目で完結した壮大な叢書は、明治史の研究に欠かせないものです。
晩年の吉野は、社会主義の政党に関わるようになりました。特に、1926(大正15)年には社会民衆党の結党に参加。社会民衆党は数年で解散しますが、戦後になりその人脈は日本社会党の基礎となります。1933(昭和8)年、吉野作造は55歳の若さでこの世を去りました。
吉野作造の思想は日本を民主主義へと導いた
吉野作造が唱えた民本主義は、あくまでも天皇に主権があるとするものでした。大日本帝国憲法が施行されている当時の日本においては、立憲君主制を前提とした思想が必要でした。しかし、吉野の思想に共感したものは多く、民本主義は大正デモクラシーのきっかけとなります。政党政治や普通選挙が実現するなど、日本が民主主義国家として歩みを進めたのです。