
3分で簡単「吉野作造」大正デモクラシーに影響を与えた?生い立ちや民本主義などを歴史好きライターがわかりやすく解説
中央公論への寄稿
東大の助教授に就任後、3年間欧米へ留学した吉野作造。帰国後に、東大で政治史講座を担当することになります。その吉野に、『中央公論』の編集長である滝田樗陰が原稿を依頼。1916(大正5)年に法学博士号を授与された吉野は次々と評論を発表し、大正デモクラシーの機運を醸成していくことになります。
1918(大正7)年、記事が原因で当時の大阪朝日新聞社長が襲われるという白虹事件が発生。吉野は、事件を起こした団体を抗議するため、立会演説会で相まみえることとします。そこで吉野は、暴力で言論を封じようとした団体を強く非難。大多数の聴衆が吉野を支持し、大正デモクラシーの高まりは顕著となりました。
黎明会の結成
1918(大正7)年、吉野作造と経済学者の福田徳三は、学者や思想家などに結束を求めました。その呼びかけに多くの知識人が応え、黎明会と呼ばれる啓蒙団体が結成されることになります。彼らは、吉野が主張する民本主義を普及させようと、講演会でその思想を説いたのです。
当初は月1回のペースで講演会が開かれ、聴衆があふれかえるほどでした。講演会の内容を記録した機関誌も発行されています。しかし、当局の弾圧や会員の意見不一致などが理由で活動は減り、その後2年ほどで黎明会は解散。会の存続自体は短命でしたが、大正デモクラシーの活動を支える多くの人材を輩出するのに大きく貢献しました。
普通選挙と政党政治の必要性を説く
民本主義を初めて唱えたのは、ジャーナリストの茅原華山とされます。黒岩涙香主宰の万朝報で評論活動をしていた茅原は、海外赴任から帰国後の1910(明治43)年頃から民本主義を主張するようになりました。しかし、民本主義が広く知れ渡るようになったのは、吉野作造の力によるといっても過言ではありません。
1916(大正5)年、吉野作造は『中央公論』で、「憲政の本義を説いて其有終の美を済すの途を論ず」という評論を発表。デモクラシーとは民本主義であるとして、政治の目的は民衆の利福にあり、政策決定は民衆の意向によるべきと説きました。そのためには、普通選挙と政党政治の実現が不可欠であると主張したのです。
民本主義と民主主義との違い
同じ「デモクラシー」を由来とする民主主義と民本主義ですが、明確な違いが1つあります。それは、主権がどこに属するのかということです。民主主義においては、国民が国家の主権を有しているのは言うまでもありません。しかし、民本主義では主権が天皇にあるとしています。
なぜそのような考え方が生まれたのかというと、それは当時施行されていた大日本帝国憲法が要因です。大日本帝国憲法では天皇に主権があるとし、日本の統治者権や軍の統帥権も天皇が有すると定めていました。そうした天皇の権能を無視してまで民主主義を説くことは容易ではありません。そこで、主権は天皇にあるが人民のために統治するという考え方を広めたのです。
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