今回は吉野作造について学んでいこう。

吉野は大正デモクラシーの中心人物となったが、彼の思想が当時の民衆にどのような影響を与えたのか、詳しく知りたい人も多いであろう。

吉野作造が唱えた民本主義の内容や、民主主義とはどう違うのかなど、日本史に詳しいライターのタケルと一緒に解説していきます。

ライター/タケル

趣味はスポーツ観戦や神社仏閣巡りなどと多彩。幅広い知識を駆使して様々なジャンルに対応できるwebライターとして活動中。

若い頃の吉野作造

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吉野作造は、若い頃から頭脳が明晰だったようです。まずは吉野の生い立ちから見ていきましょう。

キリスト教の洗礼を浴びる

吉野作造は、1878(明治11)年に、現在の宮城県大崎市で生まれました。糸綿商の長男でしたが、実家は継がず、生涯を政治学者として全うします。彼は若い頃から聡明で、宮城県尋常中学校(現在の仙台第一高等学校)は主席で卒業。学内誌を作ったり、雑誌に投稿したりと、早くから書き物に親しむような青年でした。

吉野は第二高等学校(現在の東北大学)に進学すると、聖書研究会へ参加するようになります。その教えに感化された吉野は、学友と一緒にキリスト教の洗礼を受けました。さらに、吉野は20歳のときに学生結婚。第二高等学校卒業後は、東京帝国大学(現在の東京大学)の法科大学へ進みました。

袁世凱とも交流

宮城県で働く妻を残し、単身で東京帝国大学に通う吉野作造。日本で初めて政治学講座の専任教授となった小野塚喜平次に師事します。国家学と政治学の分離という、かつて日本では見られなかった思想は、吉野に大きな影響を与えました。また、この頃の吉野作造は、日本で最初期に人工言語であるエスペラント語を学んだとされます。

東京帝国大学を卒業後、吉野は東大の大学院に進学。卒業後は中国に渡り、袁世凱の息子の家庭教師となりました。袁世凱が中華民国の初代大総統となるのはしばらく後のことです。吉野は中国に3年間滞在した後に帰国。東大法科大学の助教授に就任しました。

吉野作造の言論活動

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教職についた吉野作造は、次第に大正デモクラシーを牽引する存在となります。具体的に、どのような活動をしていたのでしょうか。

\次のページで「中央公論への寄稿」を解説!/

中央公論への寄稿

東大の助教授に就任後、3年間欧米へ留学した吉野作造。帰国後に、東大で政治史講座を担当することになります。その吉野に、『中央公論』の編集長である滝田樗陰が原稿を依頼。1916(大正5)年に法学博士号を授与された吉野は次々と評論を発表し、大正デモクラシーの機運を醸成していくことになります。

1918(大正7)年、記事が原因で当時の大阪朝日新聞社長が襲われるという白虹事件が発生。吉野は、事件を起こした団体を抗議するため、立会演説会で相まみえることとします。そこで吉野は、暴力で言論を封じようとした団体を強く非難。大多数の聴衆が吉野を支持し、大正デモクラシーの高まりは顕著となりました。

黎明会の結成

1918(大正7)年、吉野作造と経済学者の福田徳三は、学者や思想家などに結束を求めました。その呼びかけに多くの知識人が応え、黎明会と呼ばれる啓蒙団体が結成されることになります。彼らは、吉野が主張する民本主義を普及させようと、講演会でその思想を説いたのです。

当初は月1回のペースで講演会が開かれ、聴衆があふれかえるほどでした。講演会の内容を記録した機関誌も発行されています。しかし、当局の弾圧や会員の意見不一致などが理由で活動は減り、その後2年ほどで黎明会は解散。会の存続自体は短命でしたが、大正デモクラシーの活動を支える多くの人材を輩出するのに大きく貢献しました。

吉野作造が唱えた民本主義とは

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ところで、吉野作造が提唱した民本主義とはどのようなものだったのでしょうか。民主主義との違いも見ていきましょう。

普通選挙と政党政治の必要性を説く

民本主義を初めて唱えたのは、ジャーナリストの茅原華山とされます。黒岩涙香主宰の万朝報で評論活動をしていた茅原は、海外赴任から帰国後の1910(明治43)年頃から民本主義を主張するようになりました。しかし、民本主義が広く知れ渡るようになったのは、吉野作造の力によるといっても過言ではありません。

1916(大正5)年、吉野作造は『中央公論』で、「憲政の本義を説いて其有終の美を済すの途を論ず」という評論を発表。デモクラシーとは民本主義であるとして、政治の目的は民衆の利福にあり、政策決定は民衆の意向によるべきと説きました。そのためには、普通選挙と政党政治の実現が不可欠であると主張したのです。

民本主義と民主主義との違い

同じ「デモクラシー」を由来とする民主主義と民本主義ですが、明確な違いが1つあります。それは、主権がどこに属するのかということです。民主主義においては、国民が国家の主権を有しているのは言うまでもありません。しかし、民本主義では主権が天皇にあるとしています。

なぜそのような考え方が生まれたのかというと、それは当時施行されていた大日本帝国憲法が要因です。大日本帝国憲法では天皇に主権があるとし、日本の統治者権や軍の統帥権も天皇が有すると定めていました。そうした天皇の権能を無視してまで民主主義を説くことは容易ではありません。そこで、主権は天皇にあるが人民のために統治するという考え方を広めたのです。

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大正デモクラシーで何が起こったのか

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吉野作造が唱えた民本主義が、大正デモクラシーという潮流を生み出しました。具体的にどのようなことが起こったのでしょうか。

天皇機関説の台頭

1912(明治45)年、東京帝国大学教授の政治学者である美濃部達吉が、『憲法講話』の中で天皇機関説を発表しました。主権は天皇ではなく国家のもの、天皇は国家の最高機関であると定義しました。天皇はすなわち国家であり、統治権は天皇に属するとした、天皇主権説と対立するものです。

天皇機関説の発表当時は、まだ天皇主権説が主流となっていました。しかし、1920年代からは天皇機関説のほうが通説としてみなされるように。1930年代初頭までは、天皇機関説が広く支持されていました。吉野作造が唱えた民主主義とともに、天皇機関説が大正デモクラシーを押し上げる1つの拠り所となったのです。

米騒動後に本格的政党内閣が実現

1918(大正7)年、米の価格暴騰をきっかけとする米騒動が起きました。7月に富山県の各地で起きた暴動は、8月になり全国に広がります。米問屋に押しかけて店舗を破壊するなど、徐々に暴徒化。炭鉱などにも広がった米騒動は、結局50日ほど続きました。

当時の寺内正毅内閣は、米騒動を沈静化させようとさまざまな手段を講じましたが、効果はあまり出ませんでした。結局は事態の収拾を軍隊に頼ったため、政府に非難が集中することに。寺内内閣は退陣に追い込まれ、代わりに原敬が総理となりました。そうした形で初の本格的政党内閣が成立し、世論は平民宰相の誕生を歓迎したのです。

普通選挙法の制定

大正時代には、2度の護憲運動が起こりました。藩閥出身の桂太郎内閣打倒に政党や新聞記者らが立ち上がった第一次護憲運動と、貴族院中心の清浦奎吾内閣に護憲三派が選挙で圧勝した第二次護憲運動です。運動が起きるきっかけや主体となった勢力は異なりますが、日本の政党政治が進歩を見せたということで2つは共通しています。

第二次護憲運動で政権を握った護憲三派は、原敬・高橋是清以来となる政党内閣を実現。加藤高明内閣は、満25歳以上の男子すべてに選挙権を与えるという、いわゆる普通選挙法を制定しました。しかし、過激派を取り締まることを目的として治安維持法も同時に制定。軍事体制下では思想弾圧のために利用されました。

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大正デモクラシー後の吉野作造

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大正デモクラシーを牽引し、日本に民主主義を萌芽させた吉野作造。彼の晩年はどのようなものだったのでしょうか。

関東大震災と吉野作造

1923(大正12)年に発生した関東大震災は、吉野作造に大きな影響を及ぼしました。当時の吉野は東大に教授として在職中。研究室と図書館が被災し、吉野は燃える図書館から資料を取り出そうと何度も試みたと伝えられます。しかし、その願いは叶わず、吉野には涙が見られたとも。

また、関東大震災の後には、多くの朝鮮人が虐殺されるという事件が起きました。朝鮮人が井戸に毒を入れたといったような根も葉もないデマが流れ、それを信じた者が凶行に走った事件です。事態を重く見た吉野作造らが、虐殺事件を詳しく調査。事件に対する政府の責任を問うために、決議文を持って首相らのもとを訪ねました。

朝日新聞に入社するもすぐに退職

1924(大正13)年、吉野作造は東大を辞職します。次の進路に選んだのが朝日新聞。破格の条件で、編集顧問兼論説委員として招かれました。当時の吉野は多くの留学生を援助しており、関東大震災などで資金繰りに苦しんだため、高給を提示した朝日新聞の入社を受け入れたのです。

しかし、吉野作造が朝日新聞に在職したのはわずか数ヶ月でした。吉野の署名入り記事が、政府の逆鱗に触れることになります。天皇の意向とは異なる議決を行う可能性を秘めていた枢密院の廃止を訴えたのですが、逆に天皇制への冒涜だと批判を浴びたのです。吉野は責任を取らされる形で朝日新聞を退職せざるを得ませんでした。

明治文化全集の刊行

朝日新聞を退職した吉野作造は、すぐに東大に復職。明治文化研究会を組織します。研究者や評論家、ジャーナリストなどを集めたその会は、明治文化全集という形で成果を残しました。1927(昭和2)年から刊行が始まり、1974(昭和49)年の32巻目で完結した壮大な叢書は、明治史の研究に欠かせないものです。

晩年の吉野は、社会主義の政党に関わるようになりました。特に、1926(大正15)年には社会民衆党の結党に参加。社会民衆党は数年で解散しますが、戦後になりその人脈は日本社会党の基礎となります。1933(昭和8)年、吉野作造は55歳の若さでこの世を去りました。

吉野作造の思想は日本を民主主義へと導いた

吉野作造が唱えた民本主義は、あくまでも天皇に主権があるとするものでした。大日本帝国憲法が施行されている当時の日本においては、立憲君主制を前提とした思想が必要でした。しかし、吉野の思想に共感したものは多く、民本主義は大正デモクラシーのきっかけとなります。政党政治や普通選挙が実現するなど、日本が民主主義国家として歩みを進めたのです。

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現代社会

3分で簡単「吉野作造」大正デモクラシーに影響を与えた?生い立ちや民本主義などを歴史好きライターがわかりやすく解説

今回は吉野作造について学んでいこう。

吉野は大正デモクラシーの中心人物となったが、彼の思想が当時の民衆にどのような影響を与えたのか、詳しく知りたい人も多いであろう。

吉野作造が唱えた民本主義の内容や、民主主義とはどう違うのかなど、日本史に詳しいライターのタケルと一緒に解説していきます。

ライター/タケル

趣味はスポーツ観戦や神社仏閣巡りなどと多彩。幅広い知識を駆使して様々なジャンルに対応できるwebライターとして活動中。

若い頃の吉野作造

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吉野作造は、若い頃から頭脳が明晰だったようです。まずは吉野の生い立ちから見ていきましょう。

キリスト教の洗礼を浴びる

吉野作造は、1878(明治11)年に、現在の宮城県大崎市で生まれました。糸綿商の長男でしたが、実家は継がず、生涯を政治学者として全うします。彼は若い頃から聡明で、宮城県尋常中学校(現在の仙台第一高等学校)は主席で卒業。学内誌を作ったり、雑誌に投稿したりと、早くから書き物に親しむような青年でした。

吉野は第二高等学校(現在の東北大学)に進学すると、聖書研究会へ参加するようになります。その教えに感化された吉野は、学友と一緒にキリスト教の洗礼を受けました。さらに、吉野は20歳のときに学生結婚。第二高等学校卒業後は、東京帝国大学(現在の東京大学)の法科大学へ進みました。

袁世凱とも交流

宮城県で働く妻を残し、単身で東京帝国大学に通う吉野作造。日本で初めて政治学講座の専任教授となった小野塚喜平次に師事します。国家学と政治学の分離という、かつて日本では見られなかった思想は、吉野に大きな影響を与えました。また、この頃の吉野作造は、日本で最初期に人工言語であるエスペラント語を学んだとされます。

東京帝国大学を卒業後、吉野は東大の大学院に進学。卒業後は中国に渡り、袁世凱の息子の家庭教師となりました。袁世凱が中華民国の初代大総統となるのはしばらく後のことです。吉野は中国に3年間滞在した後に帰国。東大法科大学の助教授に就任しました。

吉野作造の言論活動

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教職についた吉野作造は、次第に大正デモクラシーを牽引する存在となります。具体的に、どのような活動をしていたのでしょうか。

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