3分で簡単「吉野作造」大正デモクラシーに影響を与えた?生い立ちや民本主義などを歴史好きライターがわかりやすく解説
吉野は大正デモクラシーの中心人物となったが、彼の思想が当時の民衆にどのような影響を与えたのか、詳しく知りたい人も多いであろう。
吉野作造が唱えた民本主義の内容や、民主主義とはどう違うのかなど、日本史に詳しいライターのタケルと一緒に解説していきます。
ライター/タケル
趣味はスポーツ観戦や神社仏閣巡りなどと多彩。幅広い知識を駆使して様々なジャンルに対応できるwebライターとして活動中。
キリスト教の洗礼を浴びる
吉野作造は、1878(明治11)年に、現在の宮城県大崎市で生まれました。糸綿商の長男でしたが、実家は継がず、生涯を政治学者として全うします。彼は若い頃から聡明で、宮城県尋常中学校(現在の仙台第一高等学校)は主席で卒業。学内誌を作ったり、雑誌に投稿したりと、早くから書き物に親しむような青年でした。
吉野は第二高等学校(現在の東北大学)に進学すると、聖書研究会へ参加するようになります。その教えに感化された吉野は、学友と一緒にキリスト教の洗礼を受けました。さらに、吉野は20歳のときに学生結婚。第二高等学校卒業後は、東京帝国大学(現在の東京大学)の法科大学へ進みました。
袁世凱とも交流
宮城県で働く妻を残し、単身で東京帝国大学に通う吉野作造。日本で初めて政治学講座の専任教授となった小野塚喜平次に師事します。国家学と政治学の分離という、かつて日本では見られなかった思想は、吉野に大きな影響を与えました。また、この頃の吉野作造は、日本で最初期に人工言語であるエスペラント語を学んだとされます。
東京帝国大学を卒業後、吉野は東大の大学院に進学。卒業後は中国に渡り、袁世凱の息子の家庭教師となりました。袁世凱が中華民国の初代大総統となるのはしばらく後のことです。吉野は中国に3年間滞在した後に帰国。東大法科大学の助教授に就任しました。
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