江戸時代が始まって三代目将軍のころに日本は鎖国したことは知ってか?鎖国っていうのは、一部の国をのぞいた諸外国と国交しない政策のことです。そして、その鎖国が解かれたのが江戸時代末期。200年以上続いた鎖国がとうとう終わり、「開国」することになる。ですが、頑なに守り続けた鎖国を解くのは並大抵のことじゃない。いったいその時代に何が起こったんでしょうな?
今回は日本が「開国」に至るまでの過程や、事件を歴史オタクのライターリリー・リリコと一緒にわかりやすく解説していきます。

ライター/リリー・リリコ

興味本意でとことん調べつくすおばちゃん。座右の銘は「何歳になっても知識欲は現役」。大学の卒業論文は義経をテーマに執筆。大河ドラマや時代ものが好き。今回はその舞台としてよく登場する江戸時代末期の「開国」についてまとめた。

1.開国までのインデックス

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江戸時代末期、時代の境目に登場する「開国」という言葉。さすがに節目に登場するキーワードなだけあって、それにまつわる他の重要なキーワードも盛りだくさんです。

今回、「開国」について解説するにあたり、まずは一目で江戸時代末期に何がどういう順番で起こったのかわかりやすくするために、インデックスを先に見て行きましょう。

1.1639年(寛永16年) 鎖国のはじまり

2.1825年(文政8年) 「異国船打払令」発布

3.1840年 アヘン戦争で清がイギリスに敗北

4.1853年(嘉永6年) ペリー来航

5.1854年(嘉永7年) 「日米和親条約」締結、日本「開国」

6.1858年(安政5年) 「日米修好通商条約」締結

7.  同  年    「安政の大獄」による弾圧

8.1860年(安政7年) 「桜田門外の変」

9.1867年(慶応3年) 「大政奉還」江戸時代の終わり

2.鎖国と異国船打払令で徹底的に「鎖国」!

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キリスト教が関係?日本が鎖国にいたったワケ

日本が鎖国するにいたるきっかけの一端となったキリスト教でした。

キリスト教が日本に入って来たのは戦国時代。しかし、伝来したのは宗教だけではありません。鉄砲などをはじめ、西洋の多岐にわたる技術も伝来していたのでした。一部の戦国大名もキリスト教へ改宗するほどで、当時は仏教だけでなくキリスト教も自由に信仰できたのです。

その自由は江戸時代が始まっても続けられていました。ところが、1637年、その状況が変わります。その当時、島原(現在の長崎県)をを治める大名たちが人々に重税や過酷な労働を課し、キリスト教徒の迫害を行ったのです。これに対し、キリスト教徒を中心とした農民たちが大規模な一揆「島原・天草一揆(島原の乱)」を起こします。島原の乱は多くの犠牲者を出しながら、幕府が平定しました。

この「島原・天草一揆(島原の乱)」を経験した三代目将軍徳川家光は、1639年以降、キリスト教を国内に入れないように、オランダや中国などの一部を除いた外国との交流を断つ「鎖国」政策をとったのです。

\次のページで「オランダと中国だけ?出島での貿易」を解説!/

オランダと中国だけ?出島での貿易

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Isaac Titsingh - Koninklijke Bibliotheek Bijzonderheden over Japan, behelzende een verslag van de huwelijks plegtigheden, begrafenissen en feesten der Japanezen, de gedenkschriften der laatste Japansche keizers, en andere merkwaardigheden nopens dat rijk, パブリック・ドメイン, リンクによる

「鎖国」したからといって、完全に孤立無援となったわけではありません。前節で述べた通り、中国と、西洋諸国では唯一オランダと貿易を続けていました。中国はキリスト教の国ではありませんが、もう一方のオランダはキリスト教の国です。なぜオランダが鎖国状態の日本と交易を許されたのか?それは、オランダが布教目的に日本へ来航しない、という約束をしたからなんですね。

鎖国以降、日本は長崎の出島を鎖国が解かれるまで200年以上外国との唯一の窓口にしたのでした。

鎖国を守るための「異国船打払令」と「薪水給与令」

1825年(文政8年)、江戸幕府はフェートン号事件などの影響により鎖国中の日本へ通商を求めてやってくる外国船を拒否し、砲撃して追い払う「異国船打払令」を発布しました

しかし、17世紀から鎖国を守り続けた日本でしたが、18世紀の半ばになると世界情勢がガラッと変わってしまいます。

まず、1840年から二年間、西洋のイギリスと、アジアの大帝国「大清帝国」、通称「清」が「アヘン戦争」を繰り広げました。その結果、清はイギリスに敗北。さらにアヘンという麻薬によって荒廃してしまいました。

また、この当時のヨーロッパは帝国主義の風が吹き荒れるまっただなか。ヨーロッパ諸国は植民地を求めてアジアへ進出していたころです。その最中で起こった、清の敗北は日本にも大きな影響をもたらします。

当時の江戸幕府将軍は、十二代目の徳川家慶。アヘン戦争を受け、日本の世論は「攘夷」へと一気に傾いていきました。「攘夷」とは外国を打ち払って外交しないということ。そのままですね。ただ、清敗北に驚いた江戸幕府はこのまま外国の情報を何も知らないままというわけにもいきませんよね。しかも、相手は清を惨敗させるほどの軍事力を持っているわけですから、このまま無闇に追い払うのも良くありません。

そこで幕府は政策を変え「薪水給与令」を出します。遭難した船に限って燃料や食料の供給をしよう、という政策です。また、困っている外国船に給与することによって速やかに日本から離れてもらうという面もありました。ただし、給与の過程で決して外国人を日本に上陸はさせませんでした。そのため、ここではまだ「開国」に至りません。

3.開国へのカウントダウン、黒船来航

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江戸幕府、運命の日

アヘン戦争による清の敗北を受け、日本は外国の脅威を感じて海防に力を入れようとします。ところが、その前に幕府にとっての運命の日がやってきてしまうのです。

1853年(嘉永6年)7月8日、現在の神奈川県横須賀市の浦賀沖に四隻の黒い軍艦が現れました。そのうち二隻は風の力で動く帆船ではなく、蒸気の力を利用して逆風をものともしない蒸気機関の軍艦でした。圧倒的な武力を見せつけ、さらに指揮官のマシュー・ペリーは脅しも使うことによって、アメリカのフィルモア大統領の親書を幕府に受け取らせたのです。

しかし、このときちょうど将軍徳川家慶は病に倒れてしまい、親書に対応できるような体ではありません。そこで、親書への返事を先延ばしにして、いったん、ペリーをアメリカへ帰すことになりました。

ただし、この猶予はたった一年。前述した通り、ペリーの軍艦は過去の船と違い、蒸気で進む最新の船ですから、アメリカと日本の往復が昔よりずっと早くできたのです。しかも、悪いことにその一年の間に将軍・徳川家慶が亡くなってしまいます。

将軍は十三代目徳川家定へと継承されましたが、それでアメリカが勘弁してくれるはずはありません。ペリーを帰してから一年の間、幕府の閣僚たちもまったくなにもしなかったわけではありませんが、国が変わってしまうかもしれない一大事ですから、そう簡単に物事が決まるわけもありませんね。開国派もいれば、頑として攘夷を主張するものもいたのですから。

「日米和親条約」締結と「鎖国」の終わり

幕府がどれだけ紛糾し、悩もうとも、時間は待ってくれません。とうとう期限の日がやってきてしまったのです。

そうして、1854年(嘉永7年)江戸幕府はアメリカと「日米和親条約」を締結することになりました。

「日米和親条約」に盛り込まれた特に重要な約束は二つ。

1.アメリカ船への食料と燃料の供給、難破船の救助

2.下田と函館の開港と領事駐在権の承認

さらにこの条約で一番重要なのは、下田(現在の静岡県下田市)と函館(北海道函館市)に港を開くこと。当時、太平洋で捕鯨を行っていたアメリカの捕鯨船が立ち寄るのによかったのが函館や下田で、そもそも日本に開国を迫ったのは、捕鯨船への補給や、漂着した捕鯨船員の引き渡しをスムーズにしようというのが重要な理由だったのです

下田と函館の港を開いたことにより、長い間守ってきた「鎖国」が解かれ、ついに日本は「開国」したのでした。

\次のページで「「開国」はしたけど貿易は認めていない!」を解説!/

「開国」はしたけど貿易は認めていない!

「日米和親条約」について、少しだけ注意が必要な点があります。というのも、実はここでアメリカと日本の貿易は認められていないのです。だから、次回は貿易の話をしようとペリーは念押しして帰りました。

しかし、ヨーロッパ諸国は帝国主義が主流の時代。ペリーの軍艦を見ればわかるほど、ヨーロッパと日本の軍事力に差があったのです。つまり、アメリカが軍事力にものを言わせて日本もインドのように植民地化されてしまう危険があった、ということ。幕府はアメリカやヨーロッパ諸国に対抗できるように海防を強化することが急務となりました。また、開国に対して国内でも賛成意見ばかりではありません。今までとガラッと制度を変えたわけですから、当然反発もありました。

国防の強化に内部の意見対立と、当時の幕府はてんやわんやの大忙しだったのです。

4.「開国」したらどうなる?その後の大動乱

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これは困った不平等な「日米修好通商条約」

「開国」の影響で日本は変わらざるを得ない時代になります。その矢先にたいへん困ったことがおこりました。開国から四年後の1858年にアメリカと締結した「日米修好通商条約」。成立する過程もマズければ、結んでしまった条約も非常によろしくありません。

最初、幕府は貿易を行う条約の締結に非常に消極的でした。しかし、通商を迫るアメリカのハリスに、大老・堀田正睦は孝明天皇の許しが必要としてしまったのです。けれど、孝明天皇はそれを拒否。しかも、幕府が決めるべきことなのに、朝廷の許しが必要……つまり、幕府より朝廷の権威が上ととれるような行為は後に大きく響くことになります。

そして、堀田正睦が失脚し、次に大老となった井伊直弼もまた孝明天皇の勅許を求めましたが、結局は条約を調印することに。

こうして結ばれた「日米修好通商条約」は、

1.アメリカの治外法権を認める

2.日本に関税自主権がない

というとんでもなく日本に不平等な条約だったのです。

バッシングした反対派を弾圧「安政の大獄」

「日米修好通商条約」という非常に不利な条約を調印してしまった井伊直弼。当然ながら、なぜそんなものを結んだのかと大バッシングを受ける羽目に。これに対し、井伊直弼は、彼を批判した反対派を容赦なく弾圧しました。それが「安政の大獄」でした。「安政の大獄」で井伊直弼は、公卿に大名に幕臣に、とにかく誰であっても逮捕し、最悪処刑。逮捕者からさらに100人以上が連座したといいます。そのなかには後に十五代将軍となる徳川慶喜もおり、罪状不明のまま隠居謹慎を言い渡されていました。

しかし、それだけ大きくやってしまったために、井伊直弼は尊王攘夷派などから非常に強い反発を買います。そうして、1860年(安政7年)江戸城へ向かう途中、井伊直弼は桜田門の外で暗殺されてしまったのです(「桜田門外の変」)。

江戸時代の終わり、最後の将軍・徳川慶喜の大政奉還

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邨田丹陵, Tanryō Murata - 明治神宮聖徳記念絵画館, パブリック・ドメイン, リンクによる

いよいよ江戸時代の末期となる幕末。「開国」による影響がもっとも目に見える形になるところですね。

「日米修好通商条約」締結後より盛んになっていた「尊王攘夷運動」。天皇を尊ぶ「尊王」と外国を排除する「攘夷」が結びついた主張です。一方で、幕府も朝廷と結びついて事態を収束させようとしていました。

ところが、薩摩藩と長州藩が「薩長同盟」を結び、世の中は江戸幕府打倒の機運が高まっていきます。そうしたなか、十五代将軍に就任した徳川慶喜が、1867年に政権を天皇に返上する「大政奉還」を行いました。大政奉還により265年も続いた江戸幕府がとうとう終わりを迎えたのです。

\次のページで「江戸から明治へのターニングポイント」を解説!/

江戸から明治へのターニングポイント

江戸時代初期から続いてきた「鎖国」。外国とほとんど交流を断ち、独自の文化や法律を発展させた一方で、江戸時代の最後にはすっかり様変わりしていた世界になんとか食らい付かなければと苦労もするはめに。しかし、江戸幕府終焉のきっかけとなった「開国」を果たしたことで日本も近代化へと歩み始めたのでした。

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日本史江戸時代

3分で簡単開国!思惑絡まる江戸時代末の大動乱とは?歴史オタクがわかりやすく解説

江戸時代が始まって三代目将軍のころに日本は鎖国したことは知ってか?鎖国っていうのは、一部の国をのぞいた諸外国と国交しない政策のことです。そして、その鎖国が解かれたのが江戸時代末期。200年以上続いた鎖国がとうとう終わり、「開国」することになる。ですが、頑なに守り続けた鎖国を解くのは並大抵のことじゃない。いったいその時代に何が起こったんでしょうな?
今回は日本が「開国」に至るまでの過程や、事件を歴史オタクのライターリリー・リリコと一緒にわかりやすく解説していきます。

ライター/リリー・リリコ

興味本意でとことん調べつくすおばちゃん。座右の銘は「何歳になっても知識欲は現役」。大学の卒業論文は義経をテーマに執筆。大河ドラマや時代ものが好き。今回はその舞台としてよく登場する江戸時代末期の「開国」についてまとめた。

1.開国までのインデックス

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江戸時代末期、時代の境目に登場する「開国」という言葉。さすがに節目に登場するキーワードなだけあって、それにまつわる他の重要なキーワードも盛りだくさんです。

今回、「開国」について解説するにあたり、まずは一目で江戸時代末期に何がどういう順番で起こったのかわかりやすくするために、インデックスを先に見て行きましょう。

1.1639年(寛永16年) 鎖国のはじまり

2.1825年(文政8年) 「異国船打払令」発布

3.1840年 アヘン戦争で清がイギリスに敗北

4.1853年(嘉永6年) ペリー来航

5.1854年(嘉永7年) 「日米和親条約」締結、日本「開国」

6.1858年(安政5年) 「日米修好通商条約」締結

7.  同  年    「安政の大獄」による弾圧

8.1860年(安政7年) 「桜田門外の変」

9.1867年(慶応3年) 「大政奉還」江戸時代の終わり

2.鎖国と異国船打払令で徹底的に「鎖国」!

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キリスト教が関係?日本が鎖国にいたったワケ

日本が鎖国するにいたるきっかけの一端となったキリスト教でした。

キリスト教が日本に入って来たのは戦国時代。しかし、伝来したのは宗教だけではありません。鉄砲などをはじめ、西洋の多岐にわたる技術も伝来していたのでした。一部の戦国大名もキリスト教へ改宗するほどで、当時は仏教だけでなくキリスト教も自由に信仰できたのです。

その自由は江戸時代が始まっても続けられていました。ところが、1637年、その状況が変わります。その当時、島原(現在の長崎県)をを治める大名たちが人々に重税や過酷な労働を課し、キリスト教徒の迫害を行ったのです。これに対し、キリスト教徒を中心とした農民たちが大規模な一揆「島原・天草一揆(島原の乱)」を起こします。島原の乱は多くの犠牲者を出しながら、幕府が平定しました。

この「島原・天草一揆(島原の乱)」を経験した三代目将軍徳川家光は、1639年以降、キリスト教を国内に入れないように、オランダや中国などの一部を除いた外国との交流を断つ「鎖国」政策をとったのです。

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