
イスラム帝国を導いた王朝たち
661年、ウマイヤ家がカリフを世襲することとなり、「ウマイヤ朝」た登場しました。ウマイヤ朝は内乱を治めると、シリアのダマスクスを首都にしてさらなる領土の拡大に鳥かかかります。そうして西アジアを中心にヨーロッパの一部、地中海、北アフリカ、インダス川流域にいたるまでの広大な領土を得たのでした。
しかし、ウマイヤ朝がアラブ人優位の政策を行い、アラブ人ではないイスラム教徒と対立したことや、イスラム教内の分派の誕生などの問題を抱えたことで約90年ほどの政権に終わりました。661年から750年までのことです。
ウマイヤ朝がクーデターで倒されると次に立ったのはアッバース朝でした。アッバース朝はアラブ人の特権を廃止し、人種が違えど多くのイスラム教徒を迎えます。
しかし、九世紀以降にイスラム帝国の分裂時代が訪れました。イベリア半島に逃れていたウマイヤ朝の生き残り、そしてエジプトのファーティマ朝がイスラム教最高指導者となるカリフを名乗り、同時に三人ものカリフが存在する事態になったのです。カリフはムハンマドの後継者であり、とても尊いものでした。しかし、カリフが三人同時に存在することでその主教的な権威は薄れてしまったのです。
そうして、1055年にトルコ人のセルジューク族がアッパース朝の首都バグダッドを陥落させると、アッバース朝のカリフから「スルタン」の称号を受けました。「スルタン」は宗教的権威であるカリフから、世俗の政治を行うことを認められたものに贈られる称号です。こうしてセルジューク朝が興り、スルタンがカリフに代わって政治を、そして、カリフの権威は宗教的なものだけに限られるようになりました。さらにその後の十三世紀、アッバース朝がモンゴルに滅ぼされると、カリフは指導者的立場を失い、カリフ制度の実質的な終わりとなったのです。
イスラム教とキリスト教との対立
十一世紀、セルジューク朝は小アジアへ進出し、キリスト教国家だったビザンツ帝国を脅かしました。そうして、小アジア、シリア、パレスチナなどを奪うと、今度はキリスト教世界からの反撃がはじまります。それが、聖地エルサレムを取り返す「十字軍運動」でした。
十字軍が活動したのは、11世紀から13世紀にかけての二百年。正式なものは全七回に及びました。十字軍とイスラム系国家の戦いは互いに勝者を変えながら二百年続き、最終的に1291年にイスラム教の勢力下に置かれて幕を閉じました。
国家を形作っていったイスラム教
神の啓示を受けた「預言者ムハンマド」によって創設されたイスラム教。特徴として「一神教」「偶像崇拝の否定」「コーランの遵守」「政教一致」があげられます。とくに有名な聖地は「メッカ」「メディナ」「エルサレム」です。
預言者ムハンマドが亡くなったあとは、「カリフ」と呼ばれる指導者が登場しました。カリフたちによりアラビア半島統一、さらに領土拡大が行われたことでイスラム教が世界へと広がっていきます。しかし、正統カリフ時代が終わり、ウマイヤ朝へと引き継がれた時にイスラム教徒内で分裂が起こり多数派の「スンナ派」と少数派の「シーア派」に分かれました。