世界史中東の歴史

5分でわかる「イスラム教」どうやってできた?イスラム教国家ってなに?歴史オタクがわかりやすく解説

ムハンマドから後継者カリフたちへ

ムハンマドの死後、イスラム教の指導者、そして国家の指導者を継承するものを「カリフ」といいました四代に渡るカリフたちが治めていた約30年間はムハンマドの教えが厳しく守られ、聖戦によって領土拡大がなされています。この期間を「正統カリフ時代」といいました。

初代カリフはムハンマドの友人であり義父でもあるアブー・バクルがアラビア半島統一をさらに強固なものにします。

そして二代目「ウマル」はシリア、エルサレム、イラン高原を手中に収めていきました。ウマルがエルサレムを征服した時、エルサレムはすでにユダヤ教とキリスト教の聖地でしたが、数々の争いによって荒廃しています。ウマルはそのなかから、ムハンマドが昇天したという岩を探し当てました(のちに、ここにウマイヤ朝のカリフが「岩のドーム」というイスラム世界最古の建造物を建設します)。また、ウマルは聖戦によって拡大した領土では、イスラム教の支配を受けいれた異教徒に対して、1.イスラム教に改宗する。2.人頭税(ジズヤ)を納めることを条件に信仰の自由と自治を得る。3.この二択を拒否して戦うか、の選択肢を与えました。イスラム教にとって、キリスト教もユダヤ教も同じく唯一神から啓示を受けた「啓典の民」だったため保護したのです。

三代目「ウスマーン」の時代には、ムハンマドの教えを整理し「コーラン(クルアーン)」の編纂を行われます。

そうして、四代目アリー。彼はムハンマドのイトコです。しかし、アリーの時代になると、教団内での権力争いが激しくなっていました。特にアリーにはウスマーンの暗殺疑惑があったため、内乱が起こってしまいます。内乱のうちにアリーに従わないものたちが現れ、教団内で分裂が進みました。結果、アリーが暗殺されてしまい、正統カリフ時代が終焉を迎えたのです。

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メッカで迫害され、ムハンマドはメディナで再起をはかった。聖戦の末、630年にメッカ征服に成功し、アラブ人部族はどんどんイスラム教へと改宗していく。それからムハンマドが亡くなると、今度は後継者となるカリフたちの時代がやってくる。カリフたちはアラビア半島の統一、さらなる領土の拡大を行ったわけだな。

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3.イスラム教の分裂 ―シーア派とスンニ派―

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四代目カリフ・アリーの死後、アリーと敵対していたウマイヤ家のムアーウィヤがカリフとなりました。以降、カリフの地位はウマイヤ家に世襲されて行くことからイスラム国家最初の王朝「ウマイヤ朝」が成立するのです。

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ウマイヤ朝成立とその影

一方で、このときイスラム教徒の少数派となる「シーア派」が分裂しました。シーア派は四代目カリフ・アリーと、その子孫を指導者(イマーム)だとする……もっと言うと、ムハンマドの血を引くもののみを後継者と考えています。当然、ウマイヤ朝のカリフたちを認めるはずがありませんよね。そのため、シーア派はウマイヤ朝から弾圧を加えらえました。

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スンナ派とシーア派の違いはあるか?

少数派のシーア派に対して、イスラム教の大多数を占める宗派を「スンナ派(スンニ派)」といいます。スンナ派は現在イスラム教徒の九割を占める多数派です。イスラム教は、このスンナ派とシーア派に二分され、シーア派の中でさらにいくつかの派閥にわかれています。しかし、スンナ派とシーア派において基本的な教義に大きな違いはありません。小さな差異はあれど、基本的少数のシーア派が「異端」とされるわけではなく、お互いにイスラム教であることは認めているのです。

しかし、絶対的に違うのが、前節で解説した「正当なカリフが誰であるか」ということ。「シーア」とは「アリーを支持する人々(シーア・アリー)」という言葉からきているのです。

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