今回解説するのは女性活動家平塚らいてうについて。幼少期から自分と世の中の価値観の違いに葛藤し、婦人運動や反戦・平和活動をしてきた人物です。「元始、女性は太陽であった」という一節も有名です。今回はそんな彼女の生い立ちや論旨について現役会社員ライターのけさまると一緒に解説していきます。

ライター/けさまる

普段は鉄鋼系の事務をしながら、大学時代の人文学科での経験を生かして執筆活動に取り組む。学生時代の研究テーマはイスラームについて。

平塚らいてうの生い立ち

Raicho Hiratsuka.jpg
不明 - http://www.cc.matsuyama-u.ac.jp/~tamura/hiratukaraityou.htm, パブリック・ドメイン, リンクによる

本名は平塚明(はる)。平塚家の3人姉妹の末っ子として生まれます。父は高級官吏であり、両親ともに教育熱心な家庭。生まれた家は裕福でしたが、現在のフェミニズムの先駆けとなった彼女の生涯はそれとは裏腹に波乱に満ちたものでした。その原動力となったものは世の中の価値観に対しての反骨精神でした。

自由な家風から一転した幼少期

幼少期は1年半の欧米視察を経験した父のもと、ハイカラで自由な環境で育ったとされています。しかし彼女が小学校に入学して間もなく父は一夜にしてその自由な家風を捨て去り、厳粛な日本的教育へ切り替えました。小学校の高等科を卒業すると、父親の意志で当時国粋主義教育のモデル校とされた東京女子高等師範学校附属高等女学校に進学。この当時から良妻賢母を育成するような教育に不満を抱いており、級友と「海賊組」を結成し、道徳の授業ボイコットしたこともありました。

生まれつき声帯が弱く声が出しにくい体質だったこともあり、自身のことを話し下手とし、本人の著書の中でも家族と真に打ち解けた会話は家を出るまで一度もしたことがなかったと述べています。

自身の価値観と葛藤した大学時代

「女子を人として、婦人として、国民として教育する」という教育方針に共感し、高等学校卒業後は自らの意志日本女子大学校の家政学部に進学します。しかしそこでも徐々に国家主義的教育思想強くなっていき、高等学校時代と同じ思想が見られらことで大学生活幻滅。以降、国粋主義に縛られない自身の価値観と良妻賢母を理想とする国家思想との葛藤の理由を知るため宗教書哲学書に読むことに没頭していきます。

その後の存在を知り、「両忘庵」という道場に通い始めると大学卒業を迎えるころには悟りを開いた証明として慧薫禅子という道号を授かるまでになりました。その後は禅の修行と漢文や英語の勉強を両立し、やがて成美女子英語学校へ進学しました。

スキャンダルとなった塩原事件

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成美女子英語学校にて教材としてふれたゲーテによる「若きウェルテルの悩み」を読んだことをきっかけに彼女は文学の世界目覚めます。新任教師の生田長江師事し、彼が主催者の一人でもあった課外文学講座の閨秀文学会に参加した際に同じくこの会を主催した一人であった森田草平と出会い、恋仲に。しかしその後らいてうが22歳の時、草平とらいてうは尾頭峠付近心中未遂警察から救出される塩原事件を起こします。このスキャンダルにより彼女は一躍有名になると同時に多くのバッシングを受けました。

\次のページで「「青鞜」の立ち上げ」を解説!/

「青鞜」の立ち上げ

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塩原事件後、文学活動の師である生田長江の勧めで「青鞜社」を立ち上げ、日本初女性向け文芸誌「青鞜」を創刊。この時初めて、本名の明(はる)ではなく「らいてう」というペンネームを名乗ります。また、彼女の有名な一節である「元始、女性は太陽であった」という一節はこの青鞜発刊に際して充てた記事の最初の一節です。青鞜発刊目的女性たちが社会で遺憾なく才能を発揮できる機会提供の一助となること。

実際の連載記事については彼女の同窓生同年代女性を中心に企画され、らいてう自身主にプロデュースサイドに回っていました。この文芸誌は女性からの絶大な支持男性からの蔑視という極端な世論を生みました。以下は青鞜発刊に際しての記事抜粋です。

元始、女性は実に太陽であった。真正の人であった。
今、女性は月である。他に依って生き、他の光によって輝く、病人のような蒼白い顔の月である。
さてここに『青鞜』は初声を上げた。
女性のなすことは今はただ嘲りの笑を招くだけである。
私はよく知っている、嘲りの笑の下に隠れたる或ものを。
(中略)

女生とはかくも力なきものだろうか、
否々、真正の人とはー

「元始女性は太陽であった」ー『青鞜』発刊に際してー一九一一年九月『青鞜』一巻一号

事実婚と青鞜編集権譲渡

らいてうが26歳の時、5歳年下の画家志望青年奥村博と出会います。彼女にとって奥村恋人であり、のような存在でもありました。二人はともに純粋な恋人同士の関係保ち続けたいと考えており、日本の結婚制度否定的でした。その結果、ふたりは事実婚の道を選択します。当時奥村の画家としての稼ぎは少なく、ほぼらいてうが二人分の生活費を稼いでいる状況でした。その後奥村との生活青鞜の活動の両立困難になると、彼女は青鞜の編集権を当時作家として青鞜に作品を発表していた伊藤野枝譲渡

当初事実婚子供儲けるつもりはないと述べていたらいてうでしたが、奥村との間には2児を儲け、母としての経験についても執筆しています。そしてこの母としての経験は後の社会に対しての考え方にも大きく影響を及ぼしました。

女性活動家としての活動

平塚らいてうは青鞜の創刊者としてだけでなく、女性活動家としても有名です。彼女の活動は多々ありますが根底には女性の自由な生き方を求める意思がありました。その内容は大きく女性解放運動と、平和維持活動の二つに分かれます。フェミニズムと関連付けて考えられるのが多いのは前者です。

新婦人協会の設立

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らいてうが32歳の時与謝野晶子との母性保護論争が勃発します。これは与謝野晶子の「男女互いに経済的に自立した状態になってこそ初めて子を儲けるべきであり、貧しい状況下出産し、国などの公的機関に補助を求めるのは、老衰者や廃人が養育院の世話になるのと同じである」という主張に真っ向から対立する形で反論したものです。

そんな中でらいてうは繊維工場で働く女性たち辛い環境を目の当たりにします。そこには働いて自立しようにもそれがままならない社会状況に直面する女性たちの姿がありました。このことを契機に婦人参政権母性保護を求めて活動する新婦人協会を立ち上げます。そして尽力の末、結成当初大きな目的であった女性の集会・結社の権利を獲得しました。

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反戦・平和運動の要職就任

彼女が疎開先で終戦を迎えたのは59歳の時でした。その後憲法第9条にて出された「平和宣言」に大きく共感し、非武装国女性として平和実現のために何ができるかを探求するため、疎開先から再び東京へ戻ります。らいてうの反戦思想根幹には、命を生み出し育む母親発展を妨げる戦争の存在を憎く思うのは当然である、との考えがありました。

同時に、平和維持のためには個々の国家独立して互いの国を不可侵とするよりも世界連邦を創設し、1つの法治主義的国際機構を創設するべきであるとも考えていました。こうした思想に基づき、1949年に世界連邦建設同盟に加入し、常任理事を務めることとなります。こうした運動を始め、ベトナム戦争勃発時にはベトナム母と子保健センターを設立し反戦運動を進めるなど1971年85歳亡くなる直前まで平和維持活動に邁進しました。

平塚らいてうの活動は戦前と戦後でその内容がはっきりと分かれているのが特徴的だと指摘されることも。戦前は女性の権利獲得を目的とする活動がメインであったのに対して、戦後は反戦、平和維持のための活動へとシフトしています。一見大きく方向転換したようにも思えますが、ともに活動の根幹には「命を生み出し、育む母親たちの安寧」という理想が共通しているのです。特に、自身が母親として子育てを経験して以降「母親の権利」に関係する主張が多く発表されています。

現在のフェミニズムとの関係は?

特に戦前のらいてうの活動については、フェミニズムの先駆け的存在として認識されることが多くあります。そもそもフェミニズムとは何なのでしょうか。フェミニズムの訳として「女権拡張主義」「女性尊重主義」といったものがよく充てられます。言葉の実際の定義については各国家地域の文化によって異なり、文脈によっては「母性擁護」「母性尊重」といった訳が適切と考えられる場合も。このように解釈の幅が広く定義しづらい部分もありますが、日本においてらいてうの活動が女性の権利獲得貢献したことは確かでしょう。

現代におけるフェミニズム

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フェミニズムは19~20世紀初頭参政権獲得など法的権利確立解放を中心に展開された第一次フェミニズムと、戦後特に1960年代以降に主張されるようになった第二次フェミニズムに分かれます。現代社会話題に上がるのは主にこの第二次フェミニズムです。根幹にあるのは家父長制度に代表される「性的抑圧からの解放」であり、この性的抑圧が何を指すのかにおいていくつかのパターンに分かれています。

主なパターンとして、経済格差を超えた意識的抑圧まで含めて考える「ラディカル・フェミニズム」女性の無償の家事労働を前提に成り立つ資本社会を批判する「マルクス主義フェミニズム」、女性の従属を小さなはく奪とする「自由主義フェミニズム」などがあり、これらは個々に取り上げられる場合もあれば、複合的に考えられることもあるのです。

平塚らいてうと現代のフェミニズムにおける共通点<1>

前項で述べた「マルクス主義フェミニズム」は、らいてうが母性保護論争において与謝野晶子に向けて主張した「母性保護論」と非常に近い考え方であると言えます。

彼女は当時の社会状況を鑑み、男女それぞれの経済的自立の必要性を主張する与謝野に対して、現在の日本社会は朝から晩まで体を壊すほど働いても人ひとり食べていけるかどうかの状況であり、そんな中でいったいどれほどの女性が労働によって経済的自立を果たせようかと主張しました。そして、こうした状況にある以上、国家が母性保護として経済的支援をしなければ子どもを産み育てることは困難であり、母性保護がひいては子どもの保護につながると述べています。以下はその主張の一部です。

(中略)もし氏(与謝野晶子を指す)の言われる如く「未来に生るべき我が子の哺育と教育とを持続し得る経済的保障が相互の労働によって得られるだけの確信があり、それだけの財力が既に男女のいずれにも貯えられているのを待って結婚かつ分娩すべきもの(中略)」だとすれば、まず現代大多数の婦人は生涯結婚し分娩し得るときは来ないものと観念していなければなりますまい。(中略)終日駄馬の如く働いても自分ひとり食べて行くだけの費用しか得られないような、婦人の給料や賃金の安い国ではなおさらそうでなければなりません。(中略)

「母性保護の主張は依頼主義か」『婦人公論』一九一八年五月号より

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当時与謝野晶子欧米視察を経験したことで資本主義的社会を模範として捉え、日本においても同様の考え方を広めようとしました。現代の日本社会資本主義で成り立っており、子どもを育てる環境としては与謝野の求める「各家庭の経済的自立により子供を育てる」という考え方が一般的となっています。一方、これを真っ向から批判したらいてうの主張はマルクス主義的フェミニズムに近しいものであると同時に、現代の不妊治療の保険適用化など、少子高齢化国全体の社会問題ととらえる施策にも通づる主張であったと言えるでしょう。

平塚らいてうと現代のフェミニズムにおける共通点<2>

彼女の家庭は良妻賢母を良しとする家父長制度のもとに、らいてうを教育しようとしました。しかし、実際の彼女はその方針に学生時代から染まることはなく、両親の反対を押し切って経済的自立を果たし、画家志望の奥村と事実婚の末子どを儲けました。彼女のこうした生き方はまさに経済格差を超えた意識的抑圧まで含めて、それに反発する「ラディカル・フェミニズム」的生き方であると言えます。こうした彼女の生きざまこそ、フェミニズムの先駆けと言えるのではないでしょうか。

奥村と暮らすために家を出ようとする自身の心情を次のようにらいてうは語っています。

(中略)私は現行の制度に不満足な以上、そんな制度に従い、そんな法律によって是認してもらうような結婚はしたくないのです。私は夫だの妻だのという名だけにでもたまらないほどの反感をもっております。(中略)ましてその結婚が女にとって極めて不利な権利義務の規定である以上なおさらです。

(中略)尤もお母さんのおっしゃるような意味で形式的に結婚しない男女の間に子供のできるということはただ不都合なことである、恥ずべきことであるというような考をもつものでないことだけ申添えておきます。

「独立するについて両親に」一九一四年二月『青鞜』四巻二号

価値観と戦い続けた女性

平塚らいてうの一生は幼い頃から世の中と自身の価値観の違いと葛藤し続けるものでした。この葛藤が現代社会が抱える女性の社会進出やジェンダー問題の先駆けとなるものであると言えるのではないでしょうか。こうした社会の課題にはそこに意識を向ける足掛かりを作った人々の存在があるのです。

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現代社会

フェミニズムの先駆け!平塚らいてうとは?その生い立ちから論旨まで現役会社員ライターが徹底わかりやすく解説!

今回解説するのは女性活動家平塚らいてうについて。幼少期から自分と世の中の価値観の違いに葛藤し、婦人運動や反戦・平和活動をしてきた人物です。「元始、女性は太陽であった」という一節も有名です。今回はそんな彼女の生い立ちや論旨について現役会社員ライターのけさまると一緒に解説していきます。

ライター/けさまる

普段は鉄鋼系の事務をしながら、大学時代の人文学科での経験を生かして執筆活動に取り組む。学生時代の研究テーマはイスラームについて。

平塚らいてうの生い立ち

Raicho Hiratsuka.jpg
不明 – http://www.cc.matsuyama-u.ac.jp/~tamura/hiratukaraityou.htm, パブリック・ドメイン, リンクによる

本名は平塚明(はる)。平塚家の3人姉妹の末っ子として生まれます。父は高級官吏であり、両親ともに教育熱心な家庭。生まれた家は裕福でしたが、現在のフェミニズムの先駆けとなった彼女の生涯はそれとは裏腹に波乱に満ちたものでした。その原動力となったものは世の中の価値観に対しての反骨精神でした。

自由な家風から一転した幼少期

幼少期は1年半の欧米視察を経験した父のもと、ハイカラで自由な環境で育ったとされています。しかし彼女が小学校に入学して間もなく父は一夜にしてその自由な家風を捨て去り、厳粛な日本的教育へ切り替えました。小学校の高等科を卒業すると、父親の意志で当時国粋主義教育のモデル校とされた東京女子高等師範学校附属高等女学校に進学。この当時から良妻賢母を育成するような教育に不満を抱いており、級友と「海賊組」を結成し、道徳の授業ボイコットしたこともありました。

生まれつき声帯が弱く声が出しにくい体質だったこともあり、自身のことを話し下手とし、本人の著書の中でも家族と真に打ち解けた会話は家を出るまで一度もしたことがなかったと述べています。

自身の価値観と葛藤した大学時代

「女子を人として、婦人として、国民として教育する」という教育方針に共感し、高等学校卒業後は自らの意志日本女子大学校の家政学部に進学します。しかしそこでも徐々に国家主義的教育思想強くなっていき、高等学校時代と同じ思想が見られらことで大学生活幻滅。以降、国粋主義に縛られない自身の価値観と良妻賢母を理想とする国家思想との葛藤の理由を知るため宗教書哲学書に読むことに没頭していきます。

その後の存在を知り、「両忘庵」という道場に通い始めると大学卒業を迎えるころには悟りを開いた証明として慧薫禅子という道号を授かるまでになりました。その後は禅の修行と漢文や英語の勉強を両立し、やがて成美女子英語学校へ進学しました。

スキャンダルとなった塩原事件

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成美女子英語学校にて教材としてふれたゲーテによる「若きウェルテルの悩み」を読んだことをきっかけに彼女は文学の世界目覚めます。新任教師の生田長江師事し、彼が主催者の一人でもあった課外文学講座の閨秀文学会に参加した際に同じくこの会を主催した一人であった森田草平と出会い、恋仲に。しかしその後らいてうが22歳の時、草平とらいてうは尾頭峠付近心中未遂警察から救出される塩原事件を起こします。このスキャンダルにより彼女は一躍有名になると同時に多くのバッシングを受けました。

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