今回は、成金について学んでいこう。

今でも突然大金を得た者のことを成金と呼ぶが、日本史においては、特に第一次世界大戦を契機に莫大な財を成した人々のことです。

第一次世界大戦で成金が生まれた理由である日本の工業発展に加え、大正時代における社会構造の変化などを、日本史に詳しいライターのと一緒に解説していきます。

ライター/タケル

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明治時代以降急激に発展した日本の工業

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まずは、日本の社会構造が劇的に変化した、幕末から明治にかけての移り変わりを簡単に振り返ってみましょう。

文明開化による日本の西洋化

幕末から明治にかけて、日本の社会は急激に変わりました。太陽暦が採用され、国民全員に名字が付くなど、社会制度が変化。さらに、文明開化が広まり、西洋の生活様式が取り入れられるようになったのです。西洋風または擬洋風の建築が増えたのは、顕著な例といえるでしょう。

文明開化の象徴の1つとされるガス灯は、1871(明治4)年に大阪造幣局の周辺で点灯され、1872(明治5)年には横浜で建設されました。郵便制度も、前島密の建議により1871(明治4)年より運用開始。鉄道は、新橋と横浜の間で1872(明治5)年に、関西でも1874(明治7)年に大阪と神戸の間で開通しました。

殖産興業政策とは

工業化の動きは、明治維新前の幕末からすでに見られたものです。特に薩摩藩は、西洋式の工場や軍備をいち早く取り入れていました。明治政府は富国強兵をスローガンにし、経済を発展させて軍備を強固にしようという政策を進めたのです。西洋の諸国に対抗すべく、明治政府が資本主義の産業保護と育成を推し進めたことを殖産興業政策といいます。

欧米から多くの技術者を招き入れ、西洋の産業技術の導入に努めました。官営鉄道や汽船が次々と発足。官営の富岡製糸場は、日本における紡績業の技術革新に大いに貢献しました。1901(明治34)年には官営八幡製鉄所が操業を開始し、一時は日本での製鉄の生産量の8割を占めるほどでした。

成金の出現

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明治時代から見られていた日本の工業化への動きは、大正時代になり加速します。その様子を、成金が生まれた過程とともに見ていくことにしましょう。

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船成金の出現

1914(大正3)年に開戦した第一次世界大戦に、イギリスと同盟関係にあった日本も参戦。すると、軍事上の需要が高まるようになります。日本での輸出入が飛躍的に上昇し、同時に国内での生産技術も向上しました。特に製鉄業や化学工業など、重工業の発展は目覚ましいものでした。

そういった状況となったため、輸出品を運搬するための船舶がより多く必要とされました。船舶代や海上運賃は暴騰し、国も軍用として船舶を徴用。そのため船主や船舶会社は巨利を得ることとなりました。一介の社員から資産家に成り上がった内田信也などはその典型です。

鉄成金や鉱山成金も登場

もとは砂糖の輸入を主としていた商社だった鈴木商店は、第一次世界大戦で鉄の需要が上がるのを見越して、製鉄に力を注ぐようになります。その目論見は的中し、その売り上げは一時三井物産や三菱商事といった大手商社をしのぐほどでした。その後鈴木商店は破綻しますが、その流れをくむ神戸製鋼所などは現存しています。

日立鉱山久原房之助は、鉱山成金鉱山王として名をはせました。手始めに銅山を次々と買収し、巨万の富を得ます。その後は日立製作所なども設立して、自らの事業を拡大させました。久原は後に衆議院議員となり、逓信大臣(当時)や立憲政友会の総裁などを務めることになります。

当時の成金の評判とは

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ところで、大正時代に多く誕生した成金は、世間からどのように受け止められていたのでしょうか。ここでは、成金の語源と当時描かれた風刺画について見ていきましょう。

成金の語源

成金という言葉の語源は将棋です。将棋は自陣と敵陣に分かれて戦いますが、自分の持ち駒が相手陣に侵入した場合、成りというものができるようになります。成りは駒を裏返すことで宣言。飛車は龍王、角行は龍馬、そして銀将・桂馬・香車・歩兵は金という漢字の崩し字に変わります。

成りは駒の働きを強力にするものです。特に前に1つずつ進む歩兵は、成りによって左右斜め後ろ以外の6方向に進める金将と同じ働きとなるため、急激に駒の力が強くなります。大正時代になり、急激に巨万の富を得た人たちのことを、将棋の成りに例えて「成金」というようになりました

風刺画で描かれた成金はどのようなものだったのか

「どうだ明るくなっただろう」と言い放ってお札を燃やす男性の風刺画を、歴史の教科書で見覚えがある人は多いのではないでしょうか。しかし、その題材は作り話ではありません。「暗くてお靴が分からないわ」と困っている女性を、紙幣を燃やした明かりで助けたという話は、大正時代の実話が元となっています。

モデルとされるのは、船成金の山本唯三郎です。初任給が70円ほどという時代に、山本は100円札を燃やしてみせたのですから、彼の裕福さがうかがえるでしょう。山本は奇行が多かったことでも有名で、朝鮮半島で大勢を連れて虎の狩猟に出掛け、「虎大尽」と呼ばれたこともあります。しかし、その後の山本は没落しました。

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大正時代に変化した社会の構造

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大正時代に起きた社会構造の変化は、成金の出現だけではありません。どのような変化があったのか、ここから見ていくことにしましょう。

財閥の支配と富の集中

第一次世界大戦により、日本は多額の輸出黒字を計上しました。工業が国内生産の過半数を占めるようになったのもその頃です。繊維工業など軽工業はもちろんのこと、特に重工業が発展し、日本は世界の五大国に数えられるほどの成長を遂げました。第一次世界大戦前は債務国でしたが、終戦後の1920(大正9)年には債権国に転じています。

輸出黒字による資本の集積により、銀行が経済界を支配するようになりました。銀行からの融資を受けた財閥は勢力を拡大。三井・三菱・住友・安田の四大財閥を中心とする独占資本主義が形成されました。工業地帯を中心に人口が増加するなど、富が集中することとなったのです。

インフレーションと格差の拡大

急激な工業の発展は、労働者不足を招きました。特に、熟練の技術を持つ職人は重宝されるようになり、20か月分のボーナスを支給する鉄工所もあったほどです。多額の所得を手にした者は、成金職工と呼ばれるほどでした。成金や工業に従事する者は、第一次世界大戦による恩恵を受けていました。

しかし、その恩恵は等しく行き渡りませんでした。大正時代でも、地方の農村部は江戸時代と対して変わらぬ生活を送っていたのが実態です。そして、第一次世界大戦が原因で日本でもインフレーションとなり、労働者やサラリーマンは物価高に苦しみました。一部の成金らを除き、多くの人々は経済的に困窮して、その格差が広がることになったのです。

社会運動の本格化

1918(大正7)年に起きた米騒動は、富山県の主婦たちによる米の積み出し反対に端を発したものでした。米はもちろんのこと、物価全体が暴騰し、庶民の家計を火の車にしていたのです。やがて米騒動は全国各地に広がり、参加者は100万人を超えたとされます。鎮圧には軍隊が出動するほどでした。

工業が発展したことにより、工場での労働者人口が増えました。その労働者は組合を作り、労働者の権利を主張するようになります。1920(大正9)年には、第1回のメーデーが東京の上野公園で開催されました。また、農村部でも、農業従事者による小作争議が大正時代になり増えています。

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多くの成金が出現した後の日本

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第一次世界大戦を境に多くの成金を生んだ日本。その後、時代は大正から昭和へと変わりますが、成金や社会の移り変わりはどのようになったのでしょうか。

昭和前期の金融不安

第一次世界大戦の特需で日本は好景気となりましたが、終戦後は一転、不況に陥ります。さらに、1923(大正12)年には関東大震災が発生し、その処理に追われました。巨額の震災手形は不良債権化し、取り付け騒ぎが頻繁。1927(昭和2)年に起きた昭和金融恐慌多くの成金が没落し、中小の銀行が休業に追い込まれ、代わって大銀行に預金が集中します。

追い打ちをかけるように、1929(昭和4)年にはアメリカのウォール街で株価が暴落。日本も世界恐慌のあおりを受けることとなります。株価と物価が同時に下落し、中小企業の倒産が相次ぎました。この昭和恐慌と呼ばれる金融不安は、日本を深刻なデフレに追い込むものでした。

敗戦後の朝鮮戦争特需から高度経済成長へ

昭和恐慌を脱出した日本は、その後軍国主義へと向かいます。第二次世界大戦に参戦し、国家総動員法の制定により、戦時中は国内のあらゆるものが戦争のために取り上げられました。しかし、日本は太平洋戦争で敗戦GHQの統制の下、日本は戦後復興と民主化を目指すことになります。

四大財閥の解体農地改革など、戦後になり日本の産業構造は改められました。女性に参政権が与えられ、労働三法が定められるなど、民主国家としての礎が築かれます。そして、1950(昭和25)年からの朝鮮特需により日本は好景気に。神武景気いざなぎ景気など、その後は好景気が続き、日本は高度経済成長期を迎えました。

第一次世界大戦で生まれた成金の多くはすぐに没落した

第一次世界大戦の影響で、日本の経済は潤い、工業化が進みました。そんな中で、海運業を中心に莫大な富を手にした人々が、成金と呼ばれるようになったのです。しかし、その恩恵を受けたのは一部の人に限られ、そうでなかった人々との経済格差は広がっていきました。そして、多くの成金は、第一次世界大戦が終結して間もなく没落することとなります。

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現代社会

3分で簡単「成金」なぜ第一次世界大戦で成金が生まれた?大正時代の工業発展や社会構造の変化などを歴史好きライターがわかりやすく解説

船成金の出現

1914(大正3)年に開戦した第一次世界大戦に、イギリスと同盟関係にあった日本も参戦。すると、軍事上の需要が高まるようになります。日本での輸出入が飛躍的に上昇し、同時に国内での生産技術も向上しました。特に製鉄業や化学工業など、重工業の発展は目覚ましいものでした。

そういった状況となったため、輸出品を運搬するための船舶がより多く必要とされました。船舶代や海上運賃は暴騰し、国も軍用として船舶を徴用。そのため船主や船舶会社は巨利を得ることとなりました。一介の社員から資産家に成り上がった内田信也などはその典型です。

鉄成金や鉱山成金も登場

もとは砂糖の輸入を主としていた商社だった鈴木商店は、第一次世界大戦で鉄の需要が上がるのを見越して、製鉄に力を注ぐようになります。その目論見は的中し、その売り上げは一時三井物産や三菱商事といった大手商社をしのぐほどでした。その後鈴木商店は破綻しますが、その流れをくむ神戸製鋼所などは現存しています。

日立鉱山久原房之助は、鉱山成金鉱山王として名をはせました。手始めに銅山を次々と買収し、巨万の富を得ます。その後は日立製作所なども設立して、自らの事業を拡大させました。久原は後に衆議院議員となり、逓信大臣(当時)や立憲政友会の総裁などを務めることになります。

当時の成金の評判とは

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ところで、大正時代に多く誕生した成金は、世間からどのように受け止められていたのでしょうか。ここでは、成金の語源と当時描かれた風刺画について見ていきましょう。

成金の語源

成金という言葉の語源は将棋です。将棋は自陣と敵陣に分かれて戦いますが、自分の持ち駒が相手陣に侵入した場合、成りというものができるようになります。成りは駒を裏返すことで宣言。飛車は龍王、角行は龍馬、そして銀将・桂馬・香車・歩兵は金という漢字の崩し字に変わります。

成りは駒の働きを強力にするものです。特に前に1つずつ進む歩兵は、成りによって左右斜め後ろ以外の6方向に進める金将と同じ働きとなるため、急激に駒の力が強くなります。大正時代になり、急激に巨万の富を得た人たちのことを、将棋の成りに例えて「成金」というようになりました

風刺画で描かれた成金はどのようなものだったのか

「どうだ明るくなっただろう」と言い放ってお札を燃やす男性の風刺画を、歴史の教科書で見覚えがある人は多いのではないでしょうか。しかし、その題材は作り話ではありません。「暗くてお靴が分からないわ」と困っている女性を、紙幣を燃やした明かりで助けたという話は、大正時代の実話が元となっています。

モデルとされるのは、船成金の山本唯三郎です。初任給が70円ほどという時代に、山本は100円札を燃やしてみせたのですから、彼の裕福さがうかがえるでしょう。山本は奇行が多かったことでも有名で、朝鮮半島で大勢を連れて虎の狩猟に出掛け、「虎大尽」と呼ばれたこともあります。しかし、その後の山本は没落しました。

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