破られた約束
後亀山天皇は室町幕府の提案を飲み、吉野から帰洛しました。しかし、明徳の和約での約束は果たされることはありませんでした。というのも、ほとんど室町幕府の傀儡のような立ち位置だった北朝が、明徳の和約に対して大きな不満を持っていたからです。
まず、三種の神器を渡すために正式な儀式について。これを行うと南朝の正統性が認められてしまいます。天皇の両統迭立は言わずもがなですね。天皇の公領についても北朝と南朝で意見が対立しました。
北朝の後小松天皇は、譲渡の儀式を省略して三種の神器を後亀山天皇がいる大覚寺から、土御門の内裏へ移させます。後亀山天皇が三種の神器を渡したことで、南朝と南北朝時代に終止符が打たれたのでした。
そして、二つ目の約束「両統迭立」も後小松天皇が息子の称光天皇に譲位し、北朝が天皇の位を独占したことで、反故となったのです。
これだけ約束を破られた南朝の遺臣たちと後亀山天皇ですが、しかし、もともと衰退していたこともあってすぐさま武力行使に出ることはできませんでした。
ただ、後亀山天皇は二年後にはじめて足利義満と面会した際に、「太上天皇(上皇)」の称号を贈られています。太上天皇は、退位した天皇の尊称のこと。北朝とては、南朝の天皇は正式な天皇として認めたくはありませんよね。足利義満は北朝の反対を押し切って後亀山天皇に太上天皇の尊号を贈ったということです。
後南朝の抵抗
足利尊氏から孫の足利義満へと三代に渡って続いていた南北朝時代が、ようやく終わりを迎えました。しかし、明徳の和約であれだけ約束を破っておきながら、きれいさっぱり治まったのでしょうか?いいえ、そんなことはありません。儀式の省略、それに両統迭立の反故は、南朝の皇統の子孫や遺臣たちにとって許せないものでした。
南北朝統一後、出家して大覚寺で隠遁生活をしていた後亀山法皇も、足利義満の死後の1410年に突然出奔して吉野へと戻って隠れます。ちょうどこのあたりに称光天皇の即位があったことから、この出奔は、約束を守らなかった室町幕府への抗議だったと考えられました。
後亀山法皇が吉野へ潜んでいるところへ南朝の遺臣たちが加わって南朝復興運動、そして、「後南朝」が樹立されます。後南朝の抵抗自体はここから1479年に至るまで続きました。
後亀山法皇は、幕府との調停により、所領の回復を再び大覚寺へと戻ります。まだまだ各地に不安の残る室町幕府でしたから、南朝が再び勢いを持つ危険性を少しでも削いでおきたかったのでしょうね。
混乱をおさめるために講和した後亀山天皇
南朝と北朝で争っていた時代、吉野の南朝で即位した後亀山天皇。その当時、すでに室町幕府と北朝方が優位に立っており、南朝は非常に厳しい状況に陥っていました。その上、室町幕府の将軍は三代目の足利義満。室町時代の最盛期を築いた将軍ですね。足利義満が武家勢力の統率に成功していたこともあり、勢いをつけた鎌倉幕府が南朝との合体講和を提案してきます。これに後亀山天皇は和平派の家臣とともに臨み、「明徳の和約」を結びました。「明徳の和約」では「三種の神器を北朝へ譲渡の儀式を行って渡すこと」「両統迭立により天皇を南朝(大覚寺統)と北朝(持明院統)交互に出すこと」「公領の取り決め」が約束されます。
しかし、北朝から大きな反対がありこの約束は一方的に破り捨てられてしまいました。そのため、南朝自体は統合されたものの、南朝の子孫や遺臣たちの反抗がはじまったのです。せっかく後亀山天皇が明徳の和約に合意して平和になるかと思いきや、1479年に至るまで争いは続いたのでした。