室町時代と同時にスタートした南北朝時代、南朝最後の天皇となったのが今回解説する「後亀山天皇」です。そもそも南北朝時代はちょっとややこしい。なぜ後亀山天皇が南朝最後の天皇となったのか、その時代背景と一緒に歴史オタクのライターリリー・リリコと一緒に「後亀山天皇」についてわかりやすく解説していきます。

ライター/リリー・リリコ

興味本意でとことん調べつくすおばちゃん。座右の銘は「何歳になっても知識欲は現役」。大学の卒業論文は義経をテーマに執筆。以前解説した室町時代。今回はそのなかでも南北朝時代の終わり、南朝最後の天皇となった「後亀山天皇」をピックアップし、もっと詳しくまとめた。

1.そもそも南北朝時代って?

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鎌倉幕府が倒れ、武士たちの支持を得た足利尊氏が京都に幕府を置いたことから室町時代をスタートさせます。しかし、実は鎌倉時代から室町時代へスムーズに移行したわけではありません。鎌倉幕府討伐の旗頭だったのは、後醍醐天皇。つまり、朝廷だったわけです。足利尊氏は後醍醐天皇側についた武将のひとりでした。

武士の時代は終わらない

鎌倉幕府との戦いが終わり、勝利した後醍醐天皇は、鎌倉幕府が敷いてきたの武家中心の政治から、平安時代のような貴族中心の社会を取り戻そうとして「健武の新政」を始めました。けれど、後醍醐天皇の思惑とは裏腹に、鎌倉時代をへた武士たちが黙っているほど力がなかったわけがありません。倒幕に参加して命がけで戦ったにもかかわらず、その報酬もないどころか、逆に土地を没収されたりと朝廷からあんまりな仕打ちを受けた武士たちが立ち上がります。そうして、そんな武士たちの代表となったのが足利尊氏でした。

足利尊氏は軍の最高司令官であり、また、政治においても最高幹部のひとりに任命されています。しかし、武士の代表となった足利尊氏は後醍醐天皇の命令を無視し、鎌倉で独自の活動をはじめました。そうして、足利尊氏が目をつけたのが、天皇を継ぐ資格を持つもうひとつの血統・持明院統だったのです。

天皇の位をめぐる争いから室町幕府設立のチャンスへ

後嵯峨天皇には二人の息子がいました。後嵯峨天皇は先に息子の後深草天皇(持明院統)に譲位していましたが、しばらくもしないうちに弟の亀山天皇(大覚寺統)へと無理矢理譲位させてしまうのです。これが引き金となり、以降、兄弟の子孫たちが天皇の位をめぐって熾烈な争いを始めたのでした。

まだ鎌倉幕府が健在であったころは、両家で交互に天皇を出すことを約束させて争いを止めていた(両統迭立)のですが、鎌倉幕府が滅んでしまえば、約束を保証したり、強要するものはいません。ちょうど天皇の位にあった後醍醐天皇は自分の子どもに譲位したいと考えていましたから、討幕は必ず果たさなければならなかったでしょう。鎌倉幕府が倒れ、約束の保証がなくなれば、次の天皇は後醍醐天皇の思うままです。足利尊氏が目をつけたのはそこでした。

幕府が健在であれば約束通り天皇になれた持明院統に、足利尊氏はある取引を持ち掛けます。もし、足利尊氏がこれからつくる幕府を認めてくれるなら、あなたを次の天皇にいたしましょう、と。幕府を開くためには、天皇から征夷大将軍に任命される必要があるため、足利尊氏にとって自分の味方になる天皇は必要不可欠だったのです。

後醍醐天皇によって次の天皇となれなかった持明院統はこの取引を受け、光明天皇が即位し、足利尊氏の室町幕府が始まったのでした。

分裂した朝廷

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足利尊氏が室町幕府を開始しましたが、だからと言って後醍醐天皇があっさり政治から手を引くわけはありませんよね。けれど、足利尊氏率いる武士たちに簡単に勝てるわけでもありません。そこで、後醍醐天皇は京都(都)を出て、奈良の吉野で政治を続けることにしたのです。

京都の足利尊氏と光明天皇、奈良の後醍醐天皇に朝廷は分裂し、それぞれを北朝、南朝として対立がはじまります。

そして、対立していたのは天皇たちばかりではありません。足利尊氏は武家の棟梁として鎌倉幕府を作りましたが、すべての武士が幕府に従ったわけではなかったのです。武士たちは互いの利益を優先し、そのときそのとき有利な勢力へところころ鞍替えして争い始めました。

そういうわけで、室町時代のはじまり、南北朝時代は天皇と武士とが一丸となれず、戦乱の続く世となったのでした。

\次のページで「2.南北朝時代を終わらせるために」を解説!/

2.南北朝時代を終わらせるために

1350年、吉野の南朝にて後村上天皇の子として誕生した後亀山天皇。兄・長慶天皇が即位後に東宮(皇太子、次の天皇)となりました。

後亀山天皇、即位へ

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しかし、室町幕府に対しする姿勢は兄弟間で意見が違いました。強硬派の長慶天皇と和平派の後亀山天皇。天皇と東宮が対立すれば、当然、そのうしろにつく家臣たちの対立も避けられませんね。後亀山天皇はその後、南朝の公卿であり武将だった楠木正儀に擁立され、即位します。

室町幕府の全盛期

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後亀山天皇即位時の室町幕府将軍は「足利義満」。室町時代の全盛期を築いた将軍ですね。

ついでなので、足利義満について軽くさらっておきましょう。室町幕府第三代将軍・足利義満は、金閣が有名ですね。もともとは金閣はもともと足利義満の別荘で、その死後に鹿苑寺となり、臨済宗のお寺になりました。残念なことに金閣は一度消失しており、現在、京都に建ってる金閣は当時のものではなく、再建されたものです。

足利義満がすごいのは文化面だけではありません。大陸の「明」へと貢物を送り、明から日本国王に冊封されて国交が行われるように。さらに、明や朝鮮半島で暴れていた倭寇(日本人海賊)の取り締まりを行い、明と「勘合貿易」を始めたのです。

正統な天皇の条件

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「八咫鏡(やたのかがみ)」「草薙剣(くさなぎのつるぎ)」「八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)」は日本の歴代天皇に古代より受け継がれてきた「三種の神器」です。『古事記』によると三種の神器は、天照大神(アマテラスオオミカミ)が天孫降臨の際に瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)に授けたものであり、三種の神器を所持することが正当な天皇の証でした。

基本的に、天皇になるためには即位時に先帝が次の天皇へ三種の神器を渡す儀式を行うことが必要でした。南北朝時代、この三種の神器を所持していたのは南朝です。三種の神器なしに天皇が即位した先例もあるため、北朝の天皇は神器なしで即位していたのでした。

「明徳の和約」で南北統一

鎌倉幕府が全盛期を迎える一方、このときの南朝は有力武将が敗走したり城を奪われたりと、衰退している時期にありました。全盛期の室町幕府、衰退期の南朝。どちらが優位化は一目瞭然。南朝はこのまま現状維持を続けていくのも難しい状況でした。そんな折、勢いに乗る足利義満は武家勢力の統率に成功し、ついに南朝との交渉を始めたのです。

そうして両者の間で結ばれたのが「明徳の和約」でした。明徳の和約の内容で重要なのは三つ。

「後亀山天皇が後小松天皇に正式な儀式を行って、三種の神器を北朝へ渡す」

「天皇の即位は両統迭立にする」

「公領の分配」

後亀山天皇と南朝はこの条件を受け入れたことで、南北朝時代が終焉を迎え、後亀山法皇は南朝最後の天皇となったのです。

\次のページで「破られた約束」を解説!/

破られた約束

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後亀山天皇は室町幕府の提案を飲み、吉野から帰洛しました。しかし、明徳の和約での約束は果たされることはありませんでした。というのも、ほとんど室町幕府の傀儡のような立ち位置だった北朝が、明徳の和約に対して大きな不満を持っていたからです。

まず、三種の神器を渡すために正式な儀式について。これを行うと南朝の正統性が認められてしまいます。天皇の両統迭立は言わずもがなですね。天皇の公領についても北朝と南朝で意見が対立しました。

北朝の後小松天皇は、譲渡の儀式を省略して三種の神器を後亀山天皇がいる大覚寺から、土御門の内裏へ移させます。後亀山天皇が三種の神器を渡したことで、南朝と南北朝時代に終止符が打たれたのでした。

そして、二つ目の約束「両統迭立」も後小松天皇が息子の称光天皇に譲位し、北朝が天皇の位を独占したことで、反故となったのです。

これだけ約束を破られた南朝の遺臣たちと後亀山天皇ですが、しかし、もともと衰退していたこともあってすぐさま武力行使に出ることはできませんでした。

ただ、後亀山天皇は二年後にはじめて足利義満と面会した際に、「太上天皇(上皇)」の称号を贈られています。太上天皇は、退位した天皇の尊称のこと。北朝とては、南朝の天皇は正式な天皇として認めたくはありませんよね。足利義満は北朝の反対を押し切って後亀山天皇に太上天皇の尊号を贈ったということです。

後南朝の抵抗

足利尊氏から孫の足利義満へと三代に渡って続いていた南北朝時代が、ようやく終わりを迎えました。しかし、明徳の和約であれだけ約束を破っておきながら、きれいさっぱり治まったのでしょうか?いいえ、そんなことはありません。儀式の省略、それに両統迭立の反故は、南朝の皇統の子孫や遺臣たちにとって許せないものでした。

南北朝統一後、出家して大覚寺で隠遁生活をしていた後亀山法皇も、足利義満の死後の1410年に突然出奔して吉野へと戻って隠れます。ちょうどこのあたりに称光天皇の即位があったことから、この出奔は、約束を守らなかった室町幕府への抗議だったと考えられました。

後亀山法皇が吉野へ潜んでいるところへ南朝の遺臣たちが加わって南朝復興運動、そして、「後南朝」が樹立されます。後南朝の抵抗自体はここから1479年に至るまで続きました。

後亀山法皇は、幕府との調停により、所領の回復を再び大覚寺へと戻ります。まだまだ各地に不安の残る室町幕府でしたから、南朝が再び勢いを持つ危険性を少しでも削いでおきたかったのでしょうね。

混乱をおさめるために講和した後亀山天皇

南朝と北朝で争っていた時代、吉野の南朝で即位した後亀山天皇。その当時、すでに室町幕府と北朝方が優位に立っており、南朝は非常に厳しい状況に陥っていました。その上、室町幕府の将軍は三代目の足利義満。室町時代の最盛期を築いた将軍ですね。足利義満が武家勢力の統率に成功していたこともあり、勢いをつけた鎌倉幕府が南朝との合体講和を提案してきます。これに後亀山天皇は和平派の家臣とともに臨み、「明徳の和約」を結びました。「明徳の和約」では「三種の神器を北朝へ譲渡の儀式を行って渡すこと」「両統迭立により天皇を南朝(大覚寺統)と北朝(持明院統)交互に出すこと」「公領の取り決め」が約束されます。

しかし、北朝から大きな反対がありこの約束は一方的に破り捨てられてしまいました。そのため、南朝自体は統合されたものの、南朝の子孫や遺臣たちの反抗がはじまったのです。せっかく後亀山天皇が明徳の和約に合意して平和になるかと思いきや、1479年に至るまで争いは続いたのでした。

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南北朝時代室町時代日本史

3分で簡単「後亀山天皇」南北朝時代は終わった?室町幕府との約束とは?歴史オタクがわかりやすく解説

室町時代と同時にスタートした南北朝時代、南朝最後の天皇となったのが今回解説する「後亀山天皇」です。そもそも南北朝時代はちょっとややこしい。なぜ後亀山天皇が南朝最後の天皇となったのか、その時代背景と一緒に歴史オタクのライターリリー・リリコと一緒に「後亀山天皇」についてわかりやすく解説していきます。

ライター/リリー・リリコ

興味本意でとことん調べつくすおばちゃん。座右の銘は「何歳になっても知識欲は現役」。大学の卒業論文は義経をテーマに執筆。以前解説した室町時代。今回はそのなかでも南北朝時代の終わり、南朝最後の天皇となった「後亀山天皇」をピックアップし、もっと詳しくまとめた。

1.そもそも南北朝時代って?

image by PIXTA / 5736017

鎌倉幕府が倒れ、武士たちの支持を得た足利尊氏が京都に幕府を置いたことから室町時代をスタートさせます。しかし、実は鎌倉時代から室町時代へスムーズに移行したわけではありません。鎌倉幕府討伐の旗頭だったのは、後醍醐天皇。つまり、朝廷だったわけです。足利尊氏は後醍醐天皇側についた武将のひとりでした。

武士の時代は終わらない

鎌倉幕府との戦いが終わり、勝利した後醍醐天皇は、鎌倉幕府が敷いてきたの武家中心の政治から、平安時代のような貴族中心の社会を取り戻そうとして「健武の新政」を始めました。けれど、後醍醐天皇の思惑とは裏腹に、鎌倉時代をへた武士たちが黙っているほど力がなかったわけがありません。倒幕に参加して命がけで戦ったにもかかわらず、その報酬もないどころか、逆に土地を没収されたりと朝廷からあんまりな仕打ちを受けた武士たちが立ち上がります。そうして、そんな武士たちの代表となったのが足利尊氏でした。

足利尊氏は軍の最高司令官であり、また、政治においても最高幹部のひとりに任命されています。しかし、武士の代表となった足利尊氏は後醍醐天皇の命令を無視し、鎌倉で独自の活動をはじめました。そうして、足利尊氏が目をつけたのが、天皇を継ぐ資格を持つもうひとつの血統・持明院統だったのです。

天皇の位をめぐる争いから室町幕府設立のチャンスへ

後嵯峨天皇には二人の息子がいました。後嵯峨天皇は先に息子の後深草天皇(持明院統)に譲位していましたが、しばらくもしないうちに弟の亀山天皇(大覚寺統)へと無理矢理譲位させてしまうのです。これが引き金となり、以降、兄弟の子孫たちが天皇の位をめぐって熾烈な争いを始めたのでした。

まだ鎌倉幕府が健在であったころは、両家で交互に天皇を出すことを約束させて争いを止めていた(両統迭立)のですが、鎌倉幕府が滅んでしまえば、約束を保証したり、強要するものはいません。ちょうど天皇の位にあった後醍醐天皇は自分の子どもに譲位したいと考えていましたから、討幕は必ず果たさなければならなかったでしょう。鎌倉幕府が倒れ、約束の保証がなくなれば、次の天皇は後醍醐天皇の思うままです。足利尊氏が目をつけたのはそこでした。

幕府が健在であれば約束通り天皇になれた持明院統に、足利尊氏はある取引を持ち掛けます。もし、足利尊氏がこれからつくる幕府を認めてくれるなら、あなたを次の天皇にいたしましょう、と。幕府を開くためには、天皇から征夷大将軍に任命される必要があるため、足利尊氏にとって自分の味方になる天皇は必要不可欠だったのです。

後醍醐天皇によって次の天皇となれなかった持明院統はこの取引を受け、光明天皇が即位し、足利尊氏の室町幕府が始まったのでした。

分裂した朝廷

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足利尊氏が室町幕府を開始しましたが、だからと言って後醍醐天皇があっさり政治から手を引くわけはありませんよね。けれど、足利尊氏率いる武士たちに簡単に勝てるわけでもありません。そこで、後醍醐天皇は京都(都)を出て、奈良の吉野で政治を続けることにしたのです。

京都の足利尊氏と光明天皇、奈良の後醍醐天皇に朝廷は分裂し、それぞれを北朝、南朝として対立がはじまります。

そして、対立していたのは天皇たちばかりではありません。足利尊氏は武家の棟梁として鎌倉幕府を作りましたが、すべての武士が幕府に従ったわけではなかったのです。武士たちは互いの利益を優先し、そのときそのとき有利な勢力へところころ鞍替えして争い始めました。

そういうわけで、室町時代のはじまり、南北朝時代は天皇と武士とが一丸となれず、戦乱の続く世となったのでした。

\次のページで「2.南北朝時代を終わらせるために」を解説!/

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