ローマ帝国を支配した皇帝のひとり「テオドシウス1世」。キリスト教をローマ帝国の国教としたことで有名です。それともうひとつ、ローマ帝国を再統一し、その上でまた分裂させたんです。いったいどうしてそんなことになったんでしょうな?
今回は歴史オタクのライターリリー・リリコと一緒に「テオドシウス1世」についてわかりやすく解説していきます。

ライター/リリー・リリコ

興味本意でとことん調べつくすおばちゃん。座右の銘は「何歳になっても知識欲は現役」。大学の卒業論文は義経をテーマに執筆。歴史のなかでも特に古代の国家や文明に大きな関心を持つ。今回はローマ帝国の皇帝のひとり「テオドシウス1世」についてまとめた。

1.ローマ帝国再統一へ

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ヒスパニア生まれの軍人テオドシウス

Theodosius I. Roman Coin.jpg
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今回のテーマとなる「テオドシウス1世」は、軍人の父を持つヒスパニア(現在のスペイン)生まれの軍人でした。

当時のローマ帝国は、東側と西側を血縁関係にある別の皇帝が共同統治する形で治められていました。テオドシウス1世が皇帝となったのは、378年のこと。その年に西ゴート人との間に起こったアドリアノープルの戦いで東の皇帝ウァレンスがで戦死したため、急遽軍事司令官のひとりだったテオドシウス1世が東の皇帝に指名されたでした。

皇帝となった当時は西のウァレンティニアヌス2世とグラティアヌスとの共同皇帝。この時点ではまだローマ全土をテオドシウス1世がひとりで統治したわけではありません。

ゴート人への反撃、問われた外交

先のアドリアノープルの戦いで大敗したローマ帝国。西ゴート人がローマ帝国内に侵入したままに。テオドシウス1世はこの状況を打破すべく、すぐに反旗を翻します。軍の再編成に治安と政治の安定化とテオドシウス1世は力を尽くしますが、しかし、西ゴート人もそう簡単に出て行くわけがありません。問題はすぐには解決しませんでした。

武力行使だけではダメだと判断したテオドシウス1世は、そこで西ゴート人と和解をはかることにします。そうして、382年。テオドシウス1世は西ゴート人との間に同盟条約を締結することに成功。西ゴート人はドナウ川からバルカン半島に定住の地と彼ら独自の王の戴冠を認められる代わりに、ローマ帝国に軍事的援助を行う義務を負うことになったのです。

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グラティアヌスの死と西ローマの運命

ハドリアヌス1世を皇帝に指名したグラティアヌスは、383年に起こった反乱で殺されてしまいます。反乱を起こしたのはマグヌス・マクシムス。彼はそのまま西ヨーロッパを手中に収め、西のローマ皇帝位を簒奪しました。

その一方、グラティアヌスと共同で西ローマを統治していたウァレンティニアヌス2世がテオドシウス1世のもとへ逃れてきます。ウァレンティニアヌス2世を保護したテオドシウス1世は、彼らの訴えに応え、マグヌス・マクシムスとの対決を決意したのです。そうして、388年。テオドシウス1世はマグヌス・マクシムスの軍を破り、ウァレンティニアヌス2世を再び皇帝の位につけることに成功したのでした。

これで西のローマ皇帝はウァレンティニアヌス2世となったはずですよね。しかし、マグヌス・マクシムスとの対決後、テオドシウス1世は西ローマの首都メディオラヌム(現在のミラノ)に留まり、西ローマの役人たちを自分の腹心と挿げ替えていきました。こうすることでテオドシウス1世はウァレンティニアヌス2世を傀儡にしたのです。

揺れ動く西ローマの動向

テオドシウス1世の帰国後の392年。ウァレンティニアヌス2世はフランク人の軍人アルボガストによって暗殺(あるいはウァレンティニアヌス2世の自殺)されてしまいます。しかし、このアルボガストはテオドシウス1世がウァレンティニアヌス2世の監視役に置いていった、テオドシウス1世の忠臣でありました。ウァレンティニアヌス2世がいなくなり、西の皇帝が空位となってしまいます。そこでアルボガストは主人のテオドシウス1世に、テオドシウス1世の息子を西の皇帝にされてはどうか、と提案したのです。

テオドシウス1世としても、自分の息子を西の帝位につければ好都合なことも多いでしょう。けれど、テオドシウス1世はアルボガストの提案に乗らず、三ヶ月の間無視し続けたのです。ローマ帝国は広く、住んでいるのはローマ人だけではありません。皇帝がいないまま三ヶ月も経過すると、ローマ帝国内に住む他の民族たちが、これがチャンスとばかりに不穏な動きを見せ始めました。そのため、いつまでも返事を寄こさないテオドシウス1世に代わってアルボガストが元老院議員のエウゲニウスを皇帝に推薦、そのまま皇帝にしてしまいます。が、実際、エウゲニウスはアルボガストの傀儡でした。

東西ローマの再統一

エウゲニウスを皇帝にしたアルボガスト。彼らはキリスト教徒でしたが、伝統的なローマの神々への信仰へも寛容で、神殿や祭壇の再建を行いました。しかし、キリスト教を推奨していたテオドシウス1世にしてみれば、あまり歓迎できたことではありません。それに、返事を無視しながらたいへん理不尽ですが、テオドシウス1世はエウゲニウスが皇帝になることを認めていませんでした。こうして、テオドシウス1世は西ローマのエウゲニウス、アルボガストと戦い、滅ぼしたのです。

エウゲニウスを「フリギドゥスの戦い」で破ったテオドシウス1世は、西ローマの首都メディオラヌムを制圧。ローマの元老院をも抑え込んで、息子ホノリウスを西のローマ皇帝に即位させたのでした。しかし、息子を皇帝に即位はさせましたが、テオドシウス1世はホノリウスの後見人となったため、実質的にはテオドシウス1世が西ローマをも支配していたのです。

このため、テオドシウス1世は東西ローマ帝国の再統一を果たし、両方を支配したのでした。

広大すぎたローマ帝国

ローマ帝国は古代から征服戦争を重ね、非常に広大な領土を誇っていました。けれど、ローマの最盛期から遠ざかったとはいえ、地中海一帯をたったひとりの皇帝が治めるのには無理がありました。国境の守備に国内の反乱などが起こっても、その情報が皇帝のもとに届くにはずいぶんと時間がかかりますからね。判断を仰いでいる間に取り返しのつかないことにもなりかねません。

テオドシウス1世はローマ帝国を再統一しましたが、395年に48歳で病に倒れ、そのままなくなってしまいます。そうして、テオドシウス1世の死後、西ローマ皇帝に息子ホノリウスを、東ローマ皇帝を息子アルカディウスに指名して、ローマ帝国の東西分裂が確定となりました。

\次のページで「分裂した東西ローマ帝国の行く末」を解説!/

分裂した東西ローマ帝国の行く末

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再び分裂することになったローマ帝国。

ホノリウスが治める西ローマ帝国はローマと中心としたイタリア半島やその周辺を支配していました。しかし、「ゲルマン人の大移動」の影響を受けた上、百年後の476年にゲルマン人傭兵オドアケルの謀反によって皇帝が追放され、西ローマ帝国は滅亡してしまいます。

一方、東ローマ帝国はゲルマン人の影響を受けつつも、西ローマ帝国ほどの被害はありません。それどころか、六世紀のユスティニアヌス帝の時代には全盛期のローマ帝国ほどの領土を持ち直し、最盛期を迎えました。最盛期後は再び領土を縮小、国内ではギリシャ化が進み、公用語もギリシャ語へ、そして国名もローマ帝国から「ビザンツ帝国」と呼ばれるようになっていきます。

ビザンツ帝国の滅亡は1453年。定刻の東に位置するオスマン帝国によって終わりを迎えます。ローマ帝国の分裂から約1000年という長い間、存続していました。

2.キリスト教を国教化へ

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キリスト教徒迫害の歴史

成立以来、信者を増やしてきたキリスト教。ですが、その歴史は決して楽なものではありませんでした。特にローマでは古くからローマ神話の神々を信じていましたし、さらにローマ皇帝自身も死後に神格化する、あるいはローマ皇帝自身が存命のころから神として崇拝するような政策などを行ったこともありました。

ローマは他の宗教に対して寛容で、ローマの神々へ供物を捧げたりすれば、他の宗教を信仰してもかまいませんでした。ところが、ローマ神話が多神教である一方で、キリスト教は一神教。キリスト教徒にとって祈るべき神様は一柱きり。ローマ神話の神々も皇帝も崇めることはできません。そのため、歴代の皇帝たちに受け入れられず、ひどい迫害にあいます。

特に五代目のネロ帝とその後のディオクレティアヌス帝は非常に苛烈な迫害を行いました。こうして多くの信徒が残虐な拷問を受けたりして、虐殺されてしまいます。

迫害から公認へ

苛烈な迫害を受けたキリスト教徒たち。けれど、どんな迫害を受けようとも信者は減るどころか徐々に数を増やしていくばかり。そうして、とうとうコンスタンティヌス帝の時代となり、彼の発布した「ミラノ勅令」によってキリスト教が公認されたのです。のちにはコンスタンティヌス帝自身もキリスト教徒へと改宗します。

ここで注意したいのが、コンスタンティヌス帝はミラノ勅令でキリスト教を「公認」した、ということ。「公認」であって、決っしてキリスト教をローマ帝国の国教としたわけではないのです。また、コンスタンティヌス帝もキリスト教に改宗したからといって、ローマの神々を捨て去ったわけではありません。

テオドシウス1世とキリスト教の国教化

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テオドシウス1世が皇帝となった当初はゴート人との戦いの真っ只中。こんな有事に宗教的な争いまで立て続けに起こっては身が持ちませんよね。

ところが、当時のキリスト教世界は混乱が続いていました。というのも、コンスタンティヌス帝がミラノ勅令でキリスト教を公認し、ローマ帝国にキリスト教が広がっていったはいいものの、その途中でキリスト教内で様々な教義が生まれていたのです。一口にキリスト教といっても、教義が統一されていなければまとまりません。コンスタンティヌス帝が325年に開いた「ニケーア公会議」ではアタナシウス派の三位一体説が正統なキリスト教の教義とされました。けれど、その後、コンスタンティヌス帝が手のひらを返してアタナシウス派を追放、さらには別の教義を主張する派閥まで現れたりと、混乱が続いていたのです。

そこで、テオドシウス1世はこの混乱を治めるべく、381年に「第一コンスタンティノープル公会議」を招集。325年のニケーア公会議で決定した「ニカイア信条」をもとに、アタナシウス派の三位一体説を補強したものを正統な教義としました。これが「カトリック教会」のはじまりです。

ちなみに、「三位一体説」というのは、「神なる父と子なるイエス、聖霊は三つの位格(ペルソナ)を持つ、一つの神だ」としたもの。三つの側面を持った一つの神だからキリスト教は一神教だということが成立しました。

さらにテオドシウス1世は、392年に「異教徒禁止令」を出して、ローマ帝国内からアタナシウス派以外の宗派や他の宗教を排斥していきます。こうして、キリスト教はローマ帝国の国教となったのでした。

国教となったことでキリスト教もまた権威ある宗教として見られることになります。

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ローマ帝国を再びまとめた皇帝

先帝の戦死により急遽皇帝に就任することになったテオドシウス1世。彼の急務は、ともかく国内で起こる争いの鎮圧でした。武力でゴート人を追い出せないとわかれば方針を転換し、和解と同盟締結を成し遂げ、西の皇帝ウァレンティニアヌス2世が亡くなったあとは、ローマ帝国全土の実質的な支配権を獲得。宗教面においても、キリスト教の正統な教義を決め、国教に定めます。しかし、たったひとりの皇帝が治めるには、すでにローマ帝国は広すぎたため、テオドシウス1世の死後は残念ながら、ローマ帝国の東西分裂が決定的なものとなったのでした。

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ヨーロッパの歴史ローマ帝国世界史

3分で簡単「テオドシウス1世」キリスト教を国教化?ローマ帝国の再統一したのに分裂?歴史オタクがわかりやすく解説

ローマ帝国を支配した皇帝のひとり「テオドシウス1世」。キリスト教をローマ帝国の国教としたことで有名です。それともうひとつ、ローマ帝国を再統一し、その上でまた分裂させたんです。いったいどうしてそんなことになったんでしょうな?
今回は歴史オタクのライターリリー・リリコと一緒に「テオドシウス1世」についてわかりやすく解説していきます。

ライター/リリー・リリコ

興味本意でとことん調べつくすおばちゃん。座右の銘は「何歳になっても知識欲は現役」。大学の卒業論文は義経をテーマに執筆。歴史のなかでも特に古代の国家や文明に大きな関心を持つ。今回はローマ帝国の皇帝のひとり「テオドシウス1世」についてまとめた。

1.ローマ帝国再統一へ

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ヒスパニア生まれの軍人テオドシウス

今回のテーマとなる「テオドシウス1世」は、軍人の父を持つヒスパニア(現在のスペイン)生まれの軍人でした。

当時のローマ帝国は、東側と西側を血縁関係にある別の皇帝が共同統治する形で治められていました。テオドシウス1世が皇帝となったのは、378年のこと。その年に西ゴート人との間に起こったアドリアノープルの戦いで東の皇帝ウァレンスがで戦死したため、急遽軍事司令官のひとりだったテオドシウス1世が東の皇帝に指名されたでした。

皇帝となった当時は西のウァレンティニアヌス2世とグラティアヌスとの共同皇帝。この時点ではまだローマ全土をテオドシウス1世がひとりで統治したわけではありません。

ゴート人への反撃、問われた外交

先のアドリアノープルの戦いで大敗したローマ帝国。西ゴート人がローマ帝国内に侵入したままに。テオドシウス1世はこの状況を打破すべく、すぐに反旗を翻します。軍の再編成に治安と政治の安定化とテオドシウス1世は力を尽くしますが、しかし、西ゴート人もそう簡単に出て行くわけがありません。問題はすぐには解決しませんでした。

武力行使だけではダメだと判断したテオドシウス1世は、そこで西ゴート人と和解をはかることにします。そうして、382年。テオドシウス1世は西ゴート人との間に同盟条約を締結することに成功。西ゴート人はドナウ川からバルカン半島に定住の地と彼ら独自の王の戴冠を認められる代わりに、ローマ帝国に軍事的援助を行う義務を負うことになったのです。

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