今回は、大正時代に起きた米騒動について学んでいこう。

大正時代はわずか15年しかないが、その間にいろいろなことが起こり、人々の心が揺り動かされた。そんな時代に起きた米騒動を知ることにより、大正時代がどのような時代だったかがうかがい知れるでしょう。

米騒動が全国に広がった原因やその時代背景、当時の社会への影響などを、日本史に詳しいライターのタケルと一緒に解説していきます。

ライター/タケル

趣味はスポーツ観戦や神社仏閣巡りなどと多彩。幅広い知識を駆使して様々なジャンルに対応できるwebライターとして活動中。

米騒動という歴史用語について

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手始めに、「米騒動」という歴史用語について、今一度確認しておきましょう。

基本的には1918年の日本で起きた出来事

米騒動とは、米の価格が異常に値上がりするのをきっかけに起こる騒動のことです。1度きりのものではなく、1890(明治23)年や1897(明治30)年にも米騒動は発生しています。しかし、一般的にいわれる米騒動は、1918(大正7)年に発生したものをおいて他にありません。この記事でも、1918年の米騒動について解説していきます。

海外でも、穀物やパンなどの価格暴騰をきっかけとする市民の抗議運動は多く発生しました。日本の場合は主食が古くから米だったので、昔から大なり小なり米の価格をめぐって騒ぎとなっていました。その中でも最も大規模で、日本全国を巻き込む事件となったのが1918年の米騒動となります。

明治時代の米騒動とは?

米騒動と呼べるものは、1890(明治23)年と1897(明治30)年にも起きています。しかし、その事実を知らない人は多いでしょう。教科書などでふれられることはほどんどないはずです。

1890年に起きたものは、1月に富山市で起きたものをはじめ、全国各地でそれぞれ起こりました。特に新潟県の佐渡島で起きたものが大きな規模でした。6月から7月にかけて、鉱夫を中心に約2000人が蜂起して、鎮圧のために軍が出動する騒動となりました。前年の凶作と、それに伴う米の価格上昇が原因となっています。

平成の米騒動とは?

1993(平成5)年に、フィリピンのピナトゥボ火山が噴火しました。そのエネルギーは凄まじく、その年の北半球全体の気温が0.5度ほど下がったとされます。日本に限っては、その年の夏は平均気温が例年より2、3度も下回りました。

冷夏・長雨と日照不足により稲作が不調となったため、全国の米の作況指数は「著しい不良」となる74を記録。米の供給が足りなくなる事態となりました。急場しのぎで米を輸入でまかないましたが、国産の米の買い占めが続く一方で、輸入米は人気がありませんでした。それらの騒動を大正時代の事案になぞらえて、「平成の米騒動」と呼ぶようになりました。

米騒動の始まり

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1918年の米騒動はどのようにして始まったのでしょうか。まずは富山県で起きた事例について見ていきましょう。

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米騒動のきっかけは富山の漁村?

米騒動のきっかけとなった事件は、1918(大正7)年7月に、富山県の漁村(現在の魚津市)で起こったとされます。数十人の主婦が港まで押しかけ、輸送船へ米を積み出すことを中止するよう求めたものです。一度は巡回していた警官に説得されて解散しましたが、それで幕引きとはなりませんでした。主婦たちは、連日役場や米問屋に詰めかけて窮状を訴えました。

これらの動きはまたたく間に富山県内全域に広がることとなります。富山県内で発行された新聞には、連日抗議運動の模様が報道されました。7月から8月にかけて騒動は激化していき、住民たちが実力行使するのを耐えかねた挙げ句に米価を下げて販売に応じた者もいたほどでした。

米騒動に関する近年の研究からの見解

前述したようなことが米騒動の始まりであると、教科書で学んだ人も多いのではないでしょうか。実際に、魚津市では米騒動発祥の地を表す石碑も建立されています。しかし、近年ではそれを否定する説もあるのが実情です。

ある説では、最も早い行動は漁村で起こっていないとしています。現在の富山市の主婦たちが米問屋に押しかけて、米の出荷をやめるよう要求したのが最初だと結論付けました。魚津ではなく滑川だとする説もあるなど、米騒動の発祥は富山県内だが地域は違うという説があるのです。さらには、兵庫県の造船所内で起きた騒ぎが最初であるとする説も存在するなど、どれが最初なのかははっきりしていません。

なぜ1918年の米騒動は大規模なものとなったのか?

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ところで、米騒動の中でも、なぜ1918年に起きたものが大規模となったのでしょうか。それには、いくつかの要因が重なったためと考えられます。

第一次世界大戦後の米価暴騰

1914(大正3)年から4年間続いた第一次世界大戦は、物価の変動に大きな影響をもたらしました。特に米価の変動は顕著でした。開戦直後に米価が暴落した後、物価高にもかかわらずしばらく安定していましたが、1918年に入ってから急反発。約半年で倍以上の値段に吊り上がりました。

第一次大戦により日本は好景気となり、米の需要は高まります。その一方で、工業人口は増えましたが、農業人口が減りました。そのことで米の需要と供給のバランスが崩れ、米価の暴騰を招いてしまいます。1918年の後半は、米の相場自体が立たないほどでした。

米価を安定させられなかった国の対応

米価が暴騰した結果、米が市場に出回らなくなるという悪循環が起こりました。市民に販売するよりも投機に回したほうが利益を得られるという状況になったからです。地主や米商人が買い占め売り惜しみをするようになりました。

政府はそれを放置していたわけではありませんでした。1917年(大正6)年には暴利取締令を発令。米や鉄、石炭・綿などの買い占めや売り惜しみを禁止しましたが、効果は出ませんでした。また、1918(大正7)年発令の外米管理令で三井物産や鈴木商店など指定七社が大量の外国米を輸入しましたが、米価を下げるまでには至っていません。

寺内内閣のシベリア出兵宣言に社会が反応

米価の暴騰は、当時の新聞で連日大きく報道されました。当時はテレビやインターネットがなく、ラジオですら放送開始は1925(大正14)年のことでした。新聞でそのニュースを見た市民が大いに動揺したであろうことは、現代でも想像に難くありません。

また、1918(大正7)年8月に寺内正毅内閣が宣言したシベリア出兵も、米価を急騰させる要因となりました。流通業者などが戦争特需を当て込んで、米の買い占めを行ったからです。ロシア革命後のロシアを牽制する目的で日本はシベリアへと出兵したのですが、長引く戦いと凍傷のために多くの犠牲者を出すこととなりました。

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全国的に広まった米騒動

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では、富山県で始まったとされる米騒動は、どのようにして全国へと広がっていったのでしょうか。

上昇を続ける米価

米価の暴騰を、相場師が見逃すはずはありませんでした。全国で米の買い占めが横行し、米価がますます上昇していきました。新聞で買い占めをしていると誤解を受けるような記事を書かれた鈴木商店が、記事を信じた者の手により焼き討ちにあうという事件も起きています。

米の安売りを哀願するうちはまだ良かったのかもしれません。しかし、市民の抗議行動は次第にエスカレートしていきます。値引きの強要ならまだしも、寄付の強制打ちこわしなどにも発展しました。値下げを強要すれば米が安く手に入るという評判は、またたく間に全国へ広がっていきます。

主要都市でも暴動に

7月に富山県内で起きた一連の騒動は、8月に入り全国で起こるようになります。8月10日には、名古屋で2万人が鶴舞公園に集結する騒ぎとなりました。米価問題に関する集会が行われるという噂が立ったのです。同じ日には京都で米問屋が襲撃され、米の安売りが強要されました。

東京でも、8月13日に事件が起こりました。日比谷公園で集会が行われるという噂を聞きつけた者が集結。彼らの一部が暴徒化し、投石・破壊・放火などといった不法行為が横行しました。15日になり軍が出動し、翌16日に300人近くを検挙して、ようやく騒ぎは収まるという事態でした。

炭坑でも騒動となる

米騒動は米の販売を巡る騒ぎだけでなく、炭坑での騒動にも発展します。一見無関係にも見えますが、世情の不安や生活への不満が連鎖して騒ぎを起こさせたと考えれば、あながち関係ないとはいえません。坑夫の賃上げ要求が原因となり、炭坑での騒動は起きました。

特に山口県の沖ノ山炭坑で起きた騒動は、周辺住民も加わり数千人規模の騒動へと発展。出動した軍隊に対して坑夫がダイナマイトまで持ち出したため、13人の死者を出す大惨事となりました。当時は労働争議権がなく、不当に低い賃金に対して抗議する術がありませんでした。前から低賃金に対して不満を持っていた坑夫たちが、全国で起きている米騒動に乗じて騒ぎを起こしたのです。

米騒動の収束

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全国に広がった米騒動ですが、やがてそれは収束します。どのように終わりを迎えたのか、またどのような影響があったのかを見ていきましょう。

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全国で多数の検挙者

1918(大正7)年に起きた米騒動は、結局約2ヶ月もの間続きました。ほぼすべての都道府県で騒ぎがあり、数百万人が参加したとされます。騒ぎを抑え込むために軍隊が投入され、その人員は10万人を超えました。

米騒動では2万人以上が検挙され、うち約8千人が検事処分。7千人あまりが起訴され、中には判決で10年以上の有期刑を言い渡された者もいました。その一方で、騒動を鎮圧させるべき警察が、一部地域では騒ぎを黙認していたという事実もあります。軍人の中には、騒ぎに加担した者もいました。

夏の高校野球が中止に追い込まれる

1915(大正4)年、大阪府の豊中グラウンドで全国中等学校優勝野球大会の第1回大会が開かれました。現在の全国高等学校野球選手権大会、いわゆる夏の高校野球です。第3回からは、会場を兵庫県の鳴尾球場に移しました。甲子園球場が使われるようになったのは、1924(大正13)年の第10回からです。

1918(大正7)年の第4回大会も、8月14日からの試合に向けて、出場校がすでに集合していました。ですが、会場に近い鈴木商店での焼き討ち事件があり、治安悪化の心配も懸念されて延期に。事態が好転するまで開催を待ちましたが、結局8月16日に大会中止が決定されました。

寺内内閣が倒れて政党政治が実現

1918年の春頃から、当時の総理大臣であった寺内正毅は体調がすぐれなかったといいます。そこに8月の米騒動が重なりました。寺内内閣は効果的な対処策を打ち出せず、騒動の鎮圧を軍に頼るなどしたため、世論は寺内内閣の退陣を要求。結局9月に寺内内閣は総辞職しました。

その後継に選ばれたのが原敬でした。彼は爵位を持たずして総理となったため、市民からは「平民宰相」として彼の就任を歓迎したのです。米騒動がきっかけとなり、奇しくも憲政史上初めての本格的な政党政治が実現することとなりました。

米騒動は当時の人々の不平不満が形となって現れたもの

戦争や災害をきっかけとする社会不安がきっかけとなり、当時の人々の不平や不満は米騒動という形で一気に表面化しました。政府が対処に手こずったこと、また連日新聞で大々的に報じられたことなどが重なって、騒ぎは全国に広がったのです。世論の動向をしっかり見極めていかないと政治は成り立たなくなるものであると、米騒動の事例が教えてくれるのではないでしょうか。

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現代社会

3分で簡単「米騒動」なぜ全国に広がった?事件の背景や社会への影響などを歴史好きライターがわかりやすく解説

今回は、大正時代に起きた米騒動について学んでいこう。

大正時代はわずか15年しかないが、その間にいろいろなことが起こり、人々の心が揺り動かされた。そんな時代に起きた米騒動を知ることにより、大正時代がどのような時代だったかがうかがい知れるでしょう。

米騒動が全国に広がった原因やその時代背景、当時の社会への影響などを、日本史に詳しいライターのタケルと一緒に解説していきます。

ライター/タケル

趣味はスポーツ観戦や神社仏閣巡りなどと多彩。幅広い知識を駆使して様々なジャンルに対応できるwebライターとして活動中。

米騒動という歴史用語について

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手始めに、「米騒動」という歴史用語について、今一度確認しておきましょう。

基本的には1918年の日本で起きた出来事

米騒動とは、米の価格が異常に値上がりするのをきっかけに起こる騒動のことです。1度きりのものではなく、1890(明治23)年や1897(明治30)年にも米騒動は発生しています。しかし、一般的にいわれる米騒動は、1918(大正7)年に発生したものをおいて他にありません。この記事でも、1918年の米騒動について解説していきます。

海外でも、穀物やパンなどの価格暴騰をきっかけとする市民の抗議運動は多く発生しました。日本の場合は主食が古くから米だったので、昔から大なり小なり米の価格をめぐって騒ぎとなっていました。その中でも最も大規模で、日本全国を巻き込む事件となったのが1918年の米騒動となります。

明治時代の米騒動とは?

米騒動と呼べるものは、1890(明治23)年と1897(明治30)年にも起きています。しかし、その事実を知らない人は多いでしょう。教科書などでふれられることはほどんどないはずです。

1890年に起きたものは、1月に富山市で起きたものをはじめ、全国各地でそれぞれ起こりました。特に新潟県の佐渡島で起きたものが大きな規模でした。6月から7月にかけて、鉱夫を中心に約2000人が蜂起して、鎮圧のために軍が出動する騒動となりました。前年の凶作と、それに伴う米の価格上昇が原因となっています。

平成の米騒動とは?

1993(平成5)年に、フィリピンのピナトゥボ火山が噴火しました。そのエネルギーは凄まじく、その年の北半球全体の気温が0.5度ほど下がったとされます。日本に限っては、その年の夏は平均気温が例年より2、3度も下回りました。

冷夏・長雨と日照不足により稲作が不調となったため、全国の米の作況指数は「著しい不良」となる74を記録。米の供給が足りなくなる事態となりました。急場しのぎで米を輸入でまかないましたが、国産の米の買い占めが続く一方で、輸入米は人気がありませんでした。それらの騒動を大正時代の事案になぞらえて、「平成の米騒動」と呼ぶようになりました。

米騒動の始まり

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1918年の米騒動はどのようにして始まったのでしょうか。まずは富山県で起きた事例について見ていきましょう。

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