現代社会

5分で分かる「内藤湖南」天才と言われた人物像と関連著書の概要を会社員ライターが分かりやすく解説!

上京し、ジャーナリストへ

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高等科卒業後は地元秋田で教師生活を送っていましたが、見分が広くなってくるとその静かな生活に我慢できず上京します。東京での最初の就職先は仏教雑誌の編集でした。その後も自身の文章力を生かして編集・執筆業転々としその間に内藤湖南の名は論述者として知られるようになっていきました。一八九九年に江戸川の家が火災にあった際、国学資料を多く焼失したことをきっかけに中国研究に専念するようになり、中国研究者としての地位を確立していきました。その後一九〇五年に外務省から満州軍占領地行政調査の嘱託を受け中国に渡ったときに、満州の希少な文献を発見したことを契機tとしてジャーナリズムを捨て東洋史研究者の道に進むことを決心します。

京都帝国大講師へ

二番目の国立帝国大学として設立された京都帝国大学において、湖南は設立当時難航していた文学科の創設を主張する論文を続けて発表しました。そこで湖南は他学部を設置していながら文学科を創設せず新たな大学を設立しようとしている現状に対して、日本でも有数の遺跡を残し、多くの希少な文書が残されている近畿地方の中心にある大学が文学科を設立せずしてどこに設置するのかと抗議。その後日露戦争勝利も契機となり京都帝国大に文学科の創立が決定し、その教授候補として湖南にも白羽の矢が立ちます。学歴としては秋田の師範学校までしかでていない湖南の採用に紆余曲折はあったものの、最終的に講師として就職することとなり、二年後には教授に昇格しました。

主な学説

湖南の打ち出す学説は当時の研究者たちの間に新たな風を呼ぶ斬新なものでした。その中で主要なのは邪馬台国畿内説唐宋変革論。今回紹介する「東洋文化史」にはそのうちの唐宋変革について述べられた文章が掲載されています。

邪馬台国畿内説

Text of the Wei Zhi (魏志), 297.jpg
Kidder, J. Edward. Himiko and Japan’s Elusive Chiefdom of Yamatai: Archaeology, History, and Mythology. Honolulu: University of Hawai’i, 2007. 11. Print. Originally from Asahi Shimbunsha. Yamatai-koku e no michi (The road to Yamatai). Fukuoka, 1980., パブリック・ドメイン, リンクによる

一九一〇年から邪馬台国が存在したのは九州地方近畿地方かという論争が繰り広げられました。このとき近畿地方説の先頭に立ったのが内藤湖南であり、この論争は九州地方を主張した白鳥庫吉の名前と合わせて白鳥・内藤論争と言われています。邪馬台国の場所を特定する文献としてはどちらも「魏志倭人伝」を参照しており、その解釈方法の違いによって特定される場所が異なっていました。純粋に「魏志倭人伝」に記されたとおりの距離と方角を見ていくと終着点太平洋のど真ん中になってしまうのです。

そこで一部の記載ミスと仮定すれば九州地方に当たると主張したのが白鳥であり、対して、当時と現代では方角の解釈異なっており、それを加味すると近畿地方に行きつくと主張したのが湖南でした。邪馬台国の所在については当時の学会を二部する一大論争となったのです。現在は新たな解釈が提示され九州説が有力ですが、いまだにこの論争に決着はついていません

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