今回取り上げるのは戦前の東洋学者内藤湖南についてです。彼は邪馬台国論争や中国の唐宋時代区分論争において学会を二分した人物の一人。今回は内藤湖南の残した論述や講演をまとめた「東洋文化史」の内容を中心に、その思想を会社員ライターのけさまると一緒に解説していきます。

ライター/けさまる

普段は鉄鋼系の事務をしながら、大学時代の人文学科での経験を生かして執筆活動に取り組む。学生時代の研究テーマはイスラームについて。

才能あふれる人格者

内藤湖南は一八六六年、現在の秋田県で士族の家庭に生まれました。彼の東洋文化史研究については生前に刊行された単行本や、没後に全十四巻に渡って弟子たちがまとめた「内藤湖南全集」で読むことができます。その学説は当時の研究者の間で極めて斬新な視点であり、主に中国文化史の研究において新たな風をもたらしました。彼は東アジア世界の歴史から哲学まで幅広い知識を持っていましたが、他人に対しておごることなく穏やかな性格であったと言われています。

幼少期から見せた勉学の才能

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士族の家系に生まれた湖南でしたが、幼くして戊辰戦争をきっかけにその身分をはく奪されたことで彼の生活環境は変わっていきます。五歳の時に母を亡くした湖南は九歳で小学校に入学する前に父・十湾の指導のもと漢文を学び、入学時にはすでに「論語」を読み終えていました。その後師範学校の中等科を受験し一番の成績で合格します。その半年後には高等科に欠員が生じたため編入試験を受け、一年半上の学級に飛び級という形で編入しました。歴史、政治、哲学と幅広く学ぶ中で次第に中国への関心も深めていきました。その後秋田の師範学校に入学し、関藤校長にその学力の高さを認められます。その後20歳で師範学校を卒業した湖南は秋田県内の小学校に招聘され、そこで校長職を務めました。

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上京し、ジャーナリストへ

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高等科卒業後は地元秋田で教師生活を送っていましたが、見分が広くなってくるとその静かな生活に我慢できず上京します。東京での最初の就職先は仏教雑誌の編集でした。その後も自身の文章力を生かして編集・執筆業転々としその間に内藤湖南の名は論述者として知られるようになっていきました。一八九九年に江戸川の家が火災にあった際、国学資料を多く焼失したことをきっかけに中国研究に専念するようになり、中国研究者としての地位を確立していきました。その後一九〇五年に外務省から満州軍占領地行政調査の嘱託を受け中国に渡ったときに、満州の希少な文献を発見したことを契機tとしてジャーナリズムを捨て東洋史研究者の道に進むことを決心します。

京都帝国大講師へ

二番目の国立帝国大学として設立された京都帝国大学において、湖南は設立当時難航していた文学科の創設を主張する論文を続けて発表しました。そこで湖南は他学部を設置していながら文学科を創設せず新たな大学を設立しようとしている現状に対して、日本でも有数の遺跡を残し、多くの希少な文書が残されている近畿地方の中心にある大学が文学科を設立せずしてどこに設置するのかと抗議。その後日露戦争勝利も契機となり京都帝国大に文学科の創立が決定し、その教授候補として湖南にも白羽の矢が立ちます。学歴としては秋田の師範学校までしかでていない湖南の採用に紆余曲折はあったものの、最終的に講師として就職することとなり、二年後には教授に昇格しました。

主な学説

湖南の打ち出す学説は当時の研究者たちの間に新たな風を呼ぶ斬新なものでした。その中で主要なのは邪馬台国畿内説唐宋変革論。今回紹介する「東洋文化史」にはそのうちの唐宋変革について述べられた文章が掲載されています。

邪馬台国畿内説

Text of the Wei Zhi (魏志), 297.jpg
Kidder, J. Edward. Himiko and Japan's Elusive Chiefdom of Yamatai: Archaeology, History, and Mythology. Honolulu: University of Hawai'i, 2007. 11. Print. Originally from Asahi Shimbunsha. Yamatai-koku e no michi (The road to Yamatai). Fukuoka, 1980., パブリック・ドメイン, リンクによる

一九一〇年から邪馬台国が存在したのは九州地方近畿地方かという論争が繰り広げられました。このとき近畿地方説の先頭に立ったのが内藤湖南であり、この論争は九州地方を主張した白鳥庫吉の名前と合わせて白鳥・内藤論争と言われています。邪馬台国の場所を特定する文献としてはどちらも「魏志倭人伝」を参照しており、その解釈方法の違いによって特定される場所が異なっていました。純粋に「魏志倭人伝」に記されたとおりの距離と方角を見ていくと終着点太平洋のど真ん中になってしまうのです。

そこで一部の記載ミスと仮定すれば九州地方に当たると主張したのが白鳥であり、対して、当時と現代では方角の解釈異なっており、それを加味すると近畿地方に行きつくと主張したのが湖南でした。邪馬台国の所在については当時の学会を二部する一大論争となったのです。現在は新たな解釈が提示され九州説が有力ですが、いまだにこの論争に決着はついていません

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唐宋変革論

邪馬台国の論争とともに、内藤湖南を代表するのが唐宋変革論です。従来中国史を語るうえで唐宋時代とくくられることが一般的でした。しかし、彼は唐末期までは中世であり、宋以降近世であると唱えます。政治の面から見ていくと、まず宋代以降貴族政治が衰退し、変わって君主による独裁体制が築かれていきました。

中世までは貴族が政治の一端を担い君主の座もある種の政治上の共有事項でした。しかし近世には政治上の権力、責任君主に集中。これにより、貴族たちは政治に対して責任を負うことがなくなり、唐代までのように政治に心身を捧げるような人材はいなくなっていきます。文化の面においては元来、天と地ほどの差があった平民の地位の明確な境界線比較的曖昧なものになり、平民文化や娯楽が大きく発展していきましたした。こうした変化を以て宋代以降を近世であると湖南は主張したのです。

<著書>東洋文化史

今回紹介する東洋文化史は京大名誉教授である砺波護氏が内藤湖南の書いてきた投稿記事や講演の内容を短編にまとめています。これを全二九編でテーマごとに組み合わせて構成。学術論文からの引用は抑えられているため非常に読みやすい構成となっています。

文化の伝播の形

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文化が伝播していくことを文化の運動ととらえたうえで、湖南はこの運動にはいくつかのパターンがあると指摘しています。まず一つ目に中心から末端に向かって動く形、そして二つ目は反対に、末端から中心へ向かって動く形、この二つが石を水に投げ入れた時の波紋のように繰り返されることで文化の運動はおこり、その先で常に洗練されていくものであると論じているのです。まさに日本と中国で言えば古来前者は中国から日本への伝播、後者はその反対と言えるでしょう。そうすると例えば日本の文化について学びたいと思った時にそれだけに目を向けていると本当の姿は見えてきません。なぜなら、常に国境を越えて行き来している文化の運動こそが本質であり、その一部を切り取ってしまってはそれを本質とは言えないからです。これは歴史や哲学においても同様であり、幅広い知見を得た内藤自身の経歴が体現しています。

日本文化の形成

内藤湖南は日本の文化形成について述べる際に豆腐とにがりに例えて説明しています。というのも、日本文化と言うものは日本で一から作られたわけではなく、かといって中国の文化を丸ごと取り入れてきたわけでもありません。豆腐ができる際にはもともと豆腐のもととなる成分は汁のなかにあって、それににがりを加えることで豆腐という固形が出来上がります。日本文化についても同様に文化として形作られる前から日本にも人々の生活や習慣があり、それが中国から新たな文化が流入することで初めて文化という形をもって我々の中で認識されるという考えです。これは文化のオリジナリティに注目しがちな我々の視点に一石を投じる意見でしょう。

また政治などにおいて流入してきた制度を模倣する際にも、日本では当時の生活や慣習に合わせて取り入れる部分が取捨選択されており、極めて高度な制度管理がなされていたと主張しています。

湖南の崇拝する天才

湖南が天才として崇拝していたのが大阪町人学者である富永冲基という人物です。湖南は彼の著した「出定後語」を読んで敬服し、大阪で彼の著書である「翁の文」を発見した際にこれを再編纂して自費出版しています。富永は当時過激派ともとれる、仏教を批判的に研究した人物です。そして彼の優れた点は研究の中身はもちろん、その研究方法を確立させたという点にあります。

当時は研究といえば我流で何かしらの結論を導き出すことが第一であり、論理的な研究の基礎を形作り、その方法を組み立てるという事をしてきた研究者はほとんどいませんでした。富永の著書では歴史上の思想や出来事に対して、ルーツを辿ってひとまとめにするべきではないと主張。当時の時代と国民性を鑑みたうえでつながりはあれ個々の事象としてとらえて研究するべきである、という事を研究方法として論理的に説明しています。

文化史比較

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次の項では、中国を中心に据えた東洋文化史とイギリスやアメリカを中心とした西洋文化史を比較しています。その中で述べられていることの一つが、文化的成熟と効率的かつ早熟な経済発展の対比。中国をはじめとする東アジアの文化は長い歴史、人々の営みの中で少しずつ形成されていきました。一方で欧米では文化がゆっくりと成熟していく時間がないほど急激な経済発展を遂げていき、現代に残る文化や芸術品のレベルについて東洋もしくは同じ西洋でもフランスやイタリアといった歴史の長い国には到底及ばぬと述べています。経済の発展はあくまで豊かな生活の手段であり、そこに人の内面的な文化の成熟が無くては社会が豊かになってもむなしいものだというのです。湖南は真の文化生活について下記のように述べています。

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(中略)しかし天然を征服するという事が決して真の文化ではない。民族生活の極度のものではない。その上に天然を醇化…すなわち天然を保護し育成して天然の中に安んじうる程度になるところのものがすなわち真の文化生活であらねばならぬ。

内藤湖南は元々日本史や哲学といった分野から次第に中国文化史に専念していくようになった人物です。だからこそ、それぞれの文化の特色をみつめなおすことができたと言えるのではないでしょうか。

日本と中国はそれぞれ長い歴史の中であらゆる文化を、時間をかけて成熟させてきたのです。それはときに受け入れ模倣し、またそれが発信されさらに手が加えられていくというようになりました。こうした一連の大きな流れそのものに文化的な価値があるというのが湖南の論述の一つであると言えるでしょう。

<考察>持続可能な社会へとつながる視点

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湖南の考える真の文化生活は自然との調和を訴えるものでした。自然を保護し、そこにある資源の中で生活していくという考え方は今まさに国際的に議論が白熱しているSDGs(持続可能な開発目標)の考え方に通ずるものがあるのではないでしょうか。

内藤湖南の生きた時代は主に明治初期から昭和前期にかけて、まさに日本が文明開化から戦争を経て経済的にも著しく発展していった時代。SDGsという言葉は近年よく取りざたされるようになりましたが、百年近く前からすでに課題は提起されていたのです。ここまで解決を引き延ばしてきた問題に我々は向き合うときが来ているのではないでしょうか。

東洋文化史は内藤湖南の入門書

「東洋文化史」は湖南の死後残されていた資料を他の人が再編纂したものです。そのため、内藤湖南を紹介するにあたっては代表作として支那論などを挙げる人もいるでしょう。今回この作品を紹介したのは、入門書として読みやすいからです。ここには彼の論述の骨子となる部分が非常に分かりやすく端的にまとめられています。短編の論述の組み合わせで構成されているのもまた読みやすさの理由の一つです。今回紹介しきれなかった京大文科設立に関する項や、希少資料についての項など、実際に一度彼の論述に触れてみていただきたいと思います。文化の多様性が求められる時代に優劣をつける彼の論旨は現代の私たちからすると不自然に感じるところもあるかもしれません。しかし、京都シナ学の開祖とされる当時の彼の斬新な視点が現代の研究の礎を築いているのです。

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現代社会

5分で分かる「内藤湖南」天才と言われた人物像と関連著書の概要を会社員ライターが分かりやすくわかりやすく解説!

今回取り上げるのは戦前の東洋学者内藤湖南についてです。彼は邪馬台国論争や中国の唐宋時代区分論争において学会を二分した人物の一人。今回は内藤湖南の残した論述や講演をまとめた「東洋文化史」の内容を中心に、その思想を会社員ライターのけさまると一緒に解説していきます。

ライター/けさまる

普段は鉄鋼系の事務をしながら、大学時代の人文学科での経験を生かして執筆活動に取り組む。学生時代の研究テーマはイスラームについて。

才能あふれる人格者

内藤湖南は一八六六年、現在の秋田県で士族の家庭に生まれました。彼の東洋文化史研究については生前に刊行された単行本や、没後に全十四巻に渡って弟子たちがまとめた「内藤湖南全集」で読むことができます。その学説は当時の研究者の間で極めて斬新な視点であり、主に中国文化史の研究において新たな風をもたらしました。彼は東アジア世界の歴史から哲学まで幅広い知識を持っていましたが、他人に対しておごることなく穏やかな性格であったと言われています。

幼少期から見せた勉学の才能

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士族の家系に生まれた湖南でしたが、幼くして戊辰戦争をきっかけにその身分をはく奪されたことで彼の生活環境は変わっていきます。五歳の時に母を亡くした湖南は九歳で小学校に入学する前に父・十湾の指導のもと漢文を学び、入学時にはすでに「論語」を読み終えていました。その後師範学校の中等科を受験し一番の成績で合格します。その半年後には高等科に欠員が生じたため編入試験を受け、一年半上の学級に飛び級という形で編入しました。歴史、政治、哲学と幅広く学ぶ中で次第に中国への関心も深めていきました。その後秋田の師範学校に入学し、関藤校長にその学力の高さを認められます。その後20歳で師範学校を卒業した湖南は秋田県内の小学校に招聘され、そこで校長職を務めました。

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