
相対性理論を確立した「アインシュタイン」とは?天才物理学者の人生・仕事・価値観などを元大学教員が解説
博士論文として特殊相対性理論の論文を作成
アインシュタインが「特殊相対性理論」を考察したのは博士論文を作成するため。それを完成させて1905年に大学へ提出しました。このとき彼が働いていたのが特許庁。特殊相対性理論はとても斬新な理論であり、特許庁の職員だったアインシュタインは学会で信頼を得られませんでした。そのため博士論文は受理を拒否されます。
そこでアインシュタインは代わりに「分子の大きさの新しい決定法」という論文を提出しました。それは難なく受理されます。この論文は、のちの「ブラウン運動の理論」に発展することから、奇跡の年の業績に加えられました。さらにノーベル物理学賞につながる「光量子仮説」に関する論文も同じ1905年に執筆されています。
特許局から大学に転職
知名度を高めたアインシュタインは特許庁をやめてチューリヒ大学の助教授に就任します。同じ年にジュネーブ大学から名誉博士号も与えられました。1910年にはプラハ大学の教授となり、物理学者としての知名度と地位を高めていきます。さらにミレヴァという女性と結婚、子どもももうけました。
それからのアインシュタインのプライベートは波乱万丈となります。妻の主導で母校のチューリッヒ工科大学と契約。プラハ大学との不和が噂される事態となりました。プロイセン科学アカデミーの会員となり、ドイツのベルリンに移住するものの、妻との仲が悪くなり別居状態。原因はアインシュタインが再従姉のエルザに想いを寄せたことでした。

実は、アインシュタインは受験に失敗している。1895年にスイスの名門であるチューリッヒ連邦工科大学を受けたものの不合格。数学と物理は最高点だったが、そのほかの科目がダメだったみたいだ。しかし、数学と物理の才能を見抜いた校長が、ギムナジウムという中等教育機関に通うことを条件に入学を許したそうだ。
1916年にアインシュタインは一般相対性理論を発表

プライベートが安定しないながらも研究に邁進し、1916年にアインシュタインの偉大なる業績のひとつとなる一般相対性理論が生み出されます。これは完全に確証されたものではなく、一部は予言も含まれた内容。その予言はのちに実証されますが、当時は物議を醸しだしました。
ユダヤ人であるためドイツ国内の風当たりが強かった
アインシュタインはユダヤの家系。当時のドイツではナチスドイツが台頭するなど、ユダヤ人に対する風当たりが強かった時期でした。そのためアインシュタインの常識を覆す理論の数々は批判の的となります。とくに、このとき実証されていなかった重力波を予言したことで、世界的に話題となりました。
重波力とは、皆既日食のときにおこる、太陽の重力場で光が曲げられる現象のこと。観測を通じて確認されていましたが理論的に実証されていませんでした。一般相対性理論に含まれている予言により、皆既日食の現象が説明できると評価され、アインシュタインの物理学者としての地位は向上。しかしドイツでは予言というスタンスが「ユダヤ的」であると嫌がられました。
ノーベル賞の受賞は光電効果の理論的な解明に対して
アインシュタインがノーベル物理学賞をとったとき、その根拠となったのは相対性理論ではなく光電効果の理論的な解明でした。相対性理論の偉業は認められていたものの、それは前代未聞の理論。しかし、アインシュタインがユダヤ人であることから、ノーベル賞を与えないと差別と見なされる可能性がありました。
ノーベル賞の審査員は、ユダヤ人差別と密接に結びついていた相対性理論をはじき、代わりに光電効果の理論的に解明に対して与えました。世界的に話題となっていた相対性理論がノーベル賞の根拠とならなかったことは不自然そのもの。しかしながらノーベル賞は一人に対して一度のため、相対性理論で受賞する可能性はなくなりました。

一般相対性理論を発表するまえ、アインシュタインは妻と壮絶な離婚調停を繰り広げ、それなりの額の慰謝料を払って再従姉のエルザと結婚している。このときのアインシュタインは、相手が求める慰謝料を支払う金銭的余裕はなし。「ノーベル賞をもらったら賞金で支払う」ことを離婚のために約束したのは有名な話だ。