アルベルト・アインシュタインは、物理に詳しくなくても知っている人が多い重要人物。舌をペロッと出した写真はアインシュタインのユニークな一面をあらわす有名なもの。今では物理学の権威ですが、当時は学問の常識から逸脱した存在だった。

アインシュタインはどんな人物像で、どんな価値観を持っていたのでしょうか。戦争や人種差別などの問題と絡めながら、世界史に詳しいライターひこすけと一緒に解説していきます。

ライター/ひこすけ

アメリカの歴史と文化を専門とする元大学教員。アインシュタインは興味深い名言を残していることでも有名。ときどき名言をみては、自分自身のことを考えている。そこで、アインシュタインの人生や仕事、人間に対する考え方について調べてみることにした。

アインシュタインとはどのような人物?

Einstein, looking relaxed and holding a pipe, stands next to a smiling, well-dressed Elsa who is wearing a fancy hat and fur wrap. She is looking at him.
By Underwood and Underwood, New York - This image is available from the United States Library of Congress's Prints and Photographs division under the digital ID ggbain.32096. This tag does not indicate the copyright status of the attached work. A normal copyright tag is still required. See Commons:Licensing for more information., Public Domain, Link

アインシュタインはドイツで生まれた物理学者で、特殊相対性理論および一般相対性理論などの法則を提案した人物として知られています。さまざまな科学の常識を覆し、物理学の知識を前進させたことで評価。20世紀最高の物理学者とされ、ノーベル物理学賞も受賞しました。

アインシュタインはドイツ生まれの物理学者

アインシュタインは、同時代の科学の常識を覆して現代の物理学の礎を作ったことから、現代物理学の父とも言われています。当時の科学の世界のしがらみにとらわれず、次々と物理学の理論を提唱したことから「天才」と言われることも少なくありません。

アインシュタインの科学者としての仕事は多岐に渡りますが、私たちの生き方にも影響を与える名言を残したことでも有名。「私はとくべつ賢いわけではなく、疑問に思うことに長く取り組んできただけ」という言葉は、彼の努力や辛抱強さをあらわします。

ノーベル物理学賞をもらったことでも知られている

アインシュタインのもっとも有名な仕事は相対性理論ですが、ノーベル物理学賞が与えられたのは光電効果の法則を発見したこと。アインシュタインの光量子仮説によって、説明不可能とされていた光電効果の法則が解明されました。ちなみにこの光電効果は、光センサー、太陽電池、フォトダイオードなどで応用されています。

相対性理論でノーベル物理学賞を受賞できなかった理由は今でも謎。ひとつの推測としてアインシュタインがユダヤ人だったことが挙げられるでしょう。相対性理論は非常に難解で、「ユダヤ的」であると批判されていたことから、受賞が避けられたと言われています。

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小さいころから変わり者だったアインシュタイン

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「天才」さらには「変人」と評されるアインシュタインですが、子どものころは少し変わり者だったとのこと。ほかの子どもとは異なる言動をする一方、科学に対する興味は抜きんでていました。

子どものころは言葉をあまり発しなかった

アインシュタインが生れたのは1879年。父親ヘルマン・アインシュタインと母親パウリーネ・コッホのあいだに長男として生まれました。ユダヤ系のドイツ人であった父親は弟と共に電気機器をつくる会社を設立。営業マンとして仕事をしていましたが、もともと数学が好きで学業を志していたという背景があります。

幼少期のアインシュタインはほとんど言葉を話さなかったものの、父親から方位磁石をもらったことをきっかけに、自然の世界に興味を持つようになりました。また、意外にも音楽に対する関心も高く、バイオリンを習っていたとのこと。単なる趣味の域にとどまらず、生涯の友のような位置づけとなりました。

9歳でピタゴラスの定理の理解を深める

アインシュタインの数学に対する才能は幼少期から開花します。9歳のアインシュタインがほれ込んだのがピタゴラスの定理。直角三角形の3辺の長さの関係を表す数式に究極の「美」を感じ取ります。美しい定理がどのようなものであるのか夢中になって考え、自ら証明するほどでした。

叔父からもらった書籍でユークリッド幾何学を学び始めたのは12歳。微分積分についても興味を深めます。卓越した能力を発揮しはじめたアインシュタインですが、幼少期から確率は得意ではなく、のちに統計力学や量子力学を否定する名言「神はサイコロを振らない」を生み出しました。

アインシュタインが26歳のときに訪れた奇跡

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アインシュタインの名前を後世に残す世紀の発見が続々となされたのは26歳のとき。1905年に提出された3つの論文がそれに該当します。そこで物理学の世界で1905年は「奇跡の年」と呼ばれ、現代物理学の幕開けと位置づけられるようになりました。

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博士論文として特殊相対性理論の論文を作成

アインシュタインが「特殊相対性理論」を考察したのは博士論文を作成するため。それを完成させて1905年に大学へ提出しました。このとき彼が働いていたのが特許庁。特殊相対性理論はとても斬新な理論であり、特許庁の職員だったアインシュタインは学会で信頼を得られませんでした。そのため博士論文は受理を拒否されます。

そこでアインシュタインは代わりに「分子の大きさの新しい決定法」という論文を提出しました。それは難なく受理されます。この論文は、のちの「ブラウン運動の理論」に発展することから、奇跡の年の業績に加えられました。さらにノーベル物理学賞につながる「光量子仮説」に関する論文も同じ1905年に執筆されています。

特許局から大学に転職

知名度を高めたアインシュタインは特許庁をやめてチューリヒ大学の助教授に就任します。同じ年にジュネーブ大学から名誉博士号も与えられました。1910年にはプラハ大学の教授となり、物理学者としての知名度と地位を高めていきます。さらにミレヴァという女性と結婚、子どもももうけました。

それからのアインシュタインのプライベートは波乱万丈となります。妻の主導で母校のチューリッヒ工科大学と契約。プラハ大学との不和が噂される事態となりました。プロイセン科学アカデミーの会員となり、ドイツのベルリンに移住するものの、妻との仲が悪くなり別居状態。原因はアインシュタインが再従姉のエルザに想いを寄せたことでした。

1916年にアインシュタインは一般相対性理論を発表

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プライベートが安定しないながらも研究に邁進し、1916年にアインシュタインの偉大なる業績のひとつとなる一般相対性理論が生み出されます。これは完全に確証されたものではなく、一部は予言も含まれた内容。その予言はのちに実証されますが、当時は物議を醸しだしました。

ユダヤ人であるためドイツ国内の風当たりが強かった

アインシュタインはユダヤの家系。当時のドイツではナチスドイツが台頭するなど、ユダヤ人に対する風当たりが強かった時期でした。そのためアインシュタインの常識を覆す理論の数々は批判の的となります。とくに、このとき実証されていなかった重力波を予言したことで、世界的に話題となりました。

重波力とは、皆既日食のときにおこる、太陽の重力場で光が曲げられる現象のこと。観測を通じて確認されていましたが理論的に実証されていませんでした。一般相対性理論に含まれている予言により、皆既日食の現象が説明できると評価され、アインシュタインの物理学者としての地位は向上。しかしドイツでは予言というスタンスが「ユダヤ的」であると嫌がられました。

ノーベル賞の受賞は光電効果の理論的な解明に対して

アインシュタインがノーベル物理学賞をとったとき、その根拠となったのは相対性理論ではなく光電効果の理論的な解明でした。相対性理論の偉業は認められていたものの、それは前代未聞の理論。しかし、アインシュタインがユダヤ人であることから、ノーベル賞を与えないと差別と見なされる可能性がありました。

ノーベル賞の審査員は、ユダヤ人差別と密接に結びついていた相対性理論をはじき、代わりに光電効果の理論的に解明に対して与えました。世界的に話題となっていた相対性理論がノーベル賞の根拠とならなかったことは不自然そのもの。しかしながらノーベル賞は一人に対して一度のため、相対性理論で受賞する可能性はなくなりました。

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戦争に対するアインシュタインの立場

Citizen-Einstein.jpg
By Al. Aumuller - This image is available from the United States Library of Congress's Prints and Photographs division under the digital ID ppmsca.05649. This tag does not indicate the copyright status of the attached work. A normal copyright tag is still required. See Commons:Licensing for more information., Public Domain, Link

アインシュタインは物理学者として活躍しましたが、ちょうど第一次世界大戦そして第二次世界大戦の時期を生きています。さらにアインシュタインはユダヤの家系。ナチスドイツのユダヤ人差別にさらされたこともあり、戦争に対して厳しい態度を貫いていました。

第一次世界大戦では平和主義を主張

第一次世界大戦中、アインシュタインは戦争に反対する立場をとっていました。このときの有名な言葉が兵役に関するもの。アインシュタインは2%の人々が兵役を拒否したら戦争を継続できないと断言しました。なぜなら、兵役を拒否した人々を収容するだけの刑務所がないからです。

しかしながら第二次世界大戦のときは兵役拒否を批判。理由は定かではありませんが、ナチスドイツの台頭が影響を与えたと思われます。実際、アインシュタインはナチスドイツの時代に、ユダヤ人国家の建設を目指すシオニズム運動を支持。それによりナチス政権から迫害を受け、アメリカに亡命しています。そこで戦争を支持する立場に立ったのでしょう。

訪日時には原子爆弾開発の後押しを謝罪

アインシュタインは原子爆弾の開発には直接かかわっていません。彼の研究が原子爆弾の開発に直接つながっているわけでもありません。しかしながら彼の研究が間接的に原子爆弾の開発に貢献したという一面があります。

そのためアインシュタインは、日本の広島と長崎に原子爆弾が投下され、甚大な被害がもたらされたことについて、深く悔やんでいました。そこで、ノーベル物理学賞を受賞した湯川秀樹と面会したとき、原子爆弾開発に間接的に貢献したことを、涙を流して謝罪したと言われています。

アインシュタインは哲学者のバートランド・ラッセルと共に科学技術の平和利用を訴える宣伝文を1955年に出しています。それがラッセル=アインシュタイン宣言。ここで危惧されたのが冷戦下のアメリカとソ連の水爆実験ですが、その背景に日本の原爆投下の被害があったことは明白。ちなみにこの宣言にはアインシュタインと面会した湯川秀樹博士も名を連ねました。

アインシュタインは「美しさ」を追求した科学者

アインシュタインが数学や物理学に惹かれたのは数式が生み出す美しさ。そこに人種差別や戦争の問題が介入するのは、アインシュタインにとって許せないことでした。アインシュタインが生涯に渡ってクラシック音楽とバイオリンを愛したのは、そこに邪念のない美しさがあったからなのでしょう。アインシュタインはラッセル=アインシュタイン宣言に署名した2日後に体調を崩して亡くなりました。彼の最後の仕事が科学技術の平和利用を訴えること。それはアインシュタインが単なる物理学者ではなく、もっと広い視野で世界を見ていたことのあらわれと言えるでしょう。

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ドイツ世界史統計力学・相対性理論

相対性理論を確立した「アインシュタイン」とは?天才物理学者の人生・仕事・価値観などを元大学教員がわかりやすく解説

アルベルト・アインシュタインは、物理に詳しくなくても知っている人が多い重要人物。舌をペロッと出した写真はアインシュタインのユニークな一面をあらわす有名なもの。今では物理学の権威ですが、当時は学問の常識から逸脱した存在だった。

アインシュタインはどんな人物像で、どんな価値観を持っていたのでしょうか。戦争や人種差別などの問題と絡めながら、世界史に詳しいライターひこすけと一緒に解説していきます。

ライター/ひこすけ

アメリカの歴史と文化を専門とする元大学教員。アインシュタインは興味深い名言を残していることでも有名。ときどき名言をみては、自分自身のことを考えている。そこで、アインシュタインの人生や仕事、人間に対する考え方について調べてみることにした。

アインシュタインとはどのような人物?

Einstein, looking relaxed and holding a pipe, stands next to a smiling, well-dressed Elsa who is wearing a fancy hat and fur wrap. She is looking at him.
By Underwood and Underwood, New York – This image is available from the United States Library of Congress‘s Prints and Photographs division under the digital ID ggbain.32096. This tag does not indicate the copyright status of the attached work. A normal copyright tag is still required. See Commons:Licensing for more information., Public Domain, Link

アインシュタインはドイツで生まれた物理学者で、特殊相対性理論および一般相対性理論などの法則を提案した人物として知られています。さまざまな科学の常識を覆し、物理学の知識を前進させたことで評価。20世紀最高の物理学者とされ、ノーベル物理学賞も受賞しました。

アインシュタインはドイツ生まれの物理学者

アインシュタインは、同時代の科学の常識を覆して現代の物理学の礎を作ったことから、現代物理学の父とも言われています。当時の科学の世界のしがらみにとらわれず、次々と物理学の理論を提唱したことから「天才」と言われることも少なくありません。

アインシュタインの科学者としての仕事は多岐に渡りますが、私たちの生き方にも影響を与える名言を残したことでも有名。「私はとくべつ賢いわけではなく、疑問に思うことに長く取り組んできただけ」という言葉は、彼の努力や辛抱強さをあらわします。

ノーベル物理学賞をもらったことでも知られている

アインシュタインのもっとも有名な仕事は相対性理論ですが、ノーベル物理学賞が与えられたのは光電効果の法則を発見したこと。アインシュタインの光量子仮説によって、説明不可能とされていた光電効果の法則が解明されました。ちなみにこの光電効果は、光センサー、太陽電池、フォトダイオードなどで応用されています。

相対性理論でノーベル物理学賞を受賞できなかった理由は今でも謎。ひとつの推測としてアインシュタインがユダヤ人だったことが挙げられるでしょう。相対性理論は非常に難解で、「ユダヤ的」であると批判されていたことから、受賞が避けられたと言われています。

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