
3分で簡単「高橋是清」なぜ二・二六事件の標的に?生い立ちや総理・大蔵大臣としての実績などを歴史好きライターがわかりやすく解説
なぜ高橋是清が襲撃の対象となったのか?
皇道派の青年将校ら一派は、元老や軍閥などが国体を破壊する元凶だと決めつけた上で襲撃対象としました。まずは当時の総理大臣だった岡田啓介が標的に。斎藤実内大臣や侍従長の鈴木貫太郎など、天皇に近い役職の者も標的とされました。元老の西園寺公望も標的の候補でしたが、結局実行には至りませんでした。
高橋是清は、当時岡田内閣の大蔵大臣でした。インフレ対策として国家予算の削減に取り組み、その一環で陸軍の予算削減にも着手したのです。そのことが皇道派の反感を買い、二・二六事件の標的になったとされます。
早朝の凶行
1936(昭和11)年2月26日の早朝、皇道派の青年将校たちは首相官邸や警視庁などをほぼ同時に襲撃しました。日本の中枢といえる永田町や霞ヶ関の一角も占領しています。岡田総理は危うく難を逃れましたが、斎藤実内大臣や渡辺錠太郎教育総監などが死亡。高橋是清も自宅で銃撃されて亡くなりました。
皇道派たちは天皇による国家改造を目指していましたが、頼みとしていた大臣を殺害された昭和天皇は激怒。岡田が存命だったこともあり、事態を収拾させようとする動きが一気に早まります。結局襲撃犯らは、軍の説得に折れて次々と投降。大きな武力衝突もなく、二・二六事件は早い段階で沈静化しました。
実行犯に極刑が言い渡される
二・二六事件の裁判は、軍法会議を特設する形で行われました。実行犯となった17人に死刑が言い渡されるまで、要した時間はわずか2ヶ月。それから1週間で処刑が実行されるという異例の早さでした。民間人からも、皇道派の思想を形付けた責任は重いとして、思想家の北一輝らに死刑判決が言い渡されています。
皇道派の暴走を、統制派は上手に利用しました。皇道派を粛清し、人事を統制派で固めてしまったのです。何も知らされずにただ上官に従って襲撃に参加した者もいましたが、彼らも粛清の対象となりました。
軍部が先鋭化し太平洋戦争へ
陸軍統制派は陸軍内で主導権を握っただけでなく、政治にも介入するようになります。総辞職した岡田内閣の後継人事に干渉し、自由主義的思想を持つ者が入閣しないよう強く迫りました。「軍部に逆らうと殺される」などという風潮が広まり、総理になりたがる者がいなかったようです。
また、軍部大臣現役武官制を復活させて陸軍・海軍大臣の就任資格を現役軍人に限定したことにより、軍の意向が内閣に反映されるようになりました。やがて、満蒙問題解決のため中国との交戦やむなしの論調が広がります。そして、二・二六事件の翌年である1937(昭和12)年に、盧溝橋事件で中国と武力衝突。その後日本は太平洋戦争へと足を踏み入れます。
高橋是清を失った日本は軍事色を強めていった
総理大臣経験者として知られる高橋是清ですが、特に大蔵大臣として手腕を大いに発揮し、日本経済の難局を幾度も乗り越えてみせました。しかし、軍事費削減などに異を唱えた陸軍の一部が暴走し、二・二六事件という凶行を引き起こしたのです。事件後の日本は戦時体制へと突入し、不幸な時代を迎えました。