
3分で簡単「高橋是清」なぜ二・二六事件の標的に?生い立ちや総理・大蔵大臣としての実績などを歴史好きライターがわかりやすく解説
大蔵大臣として手腕を発揮した高橋是清

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高橋是清は総理大臣として活躍できませんでしたが、財政のスペシャリストとして大いに手腕を発揮します。ここからは、総理を辞した後の高橋是清について見ていきましょう。
第二次護憲運動の後政界引退
高橋是清の総理辞任後も、立憲政友会の内紛は収まりませんでした。総裁の座に留まる高橋を交代させようという動きが立憲政友会内で起こったのです。立憲政友会から分裂した政友本党が、清浦奎吾内閣の支持に回りました。が、清浦内閣は世間に歓迎されていませんでした。
というのも、高橋の後に総理となった加藤友三郎と山本権兵衛(2度目)は海軍出身、清浦は枢密院議長から転身しました。つまり、当時は政党政治から遠ざかった状態だったのです。その状況で清浦内閣を打倒しようと第二次護憲運動が起こり、総選挙で立憲政友会など護憲三派が圧勝。第一党となった憲政会総裁の加藤高明が首相となり、代わりに高橋は政界を引退しました。
昭和金融恐慌を解決するために復帰
立憲政友会の総裁を田中義一に託して引退した高橋是清ですが、1927(昭和2)年、のちに総理大臣となった田中義一に請われて大蔵大臣として復帰します。昭和金融恐慌からの財政建て直しを託されたからです。第一次世界大戦後の景気変動や、関東大震災からの復興などにより、当時の日本経済は疲弊していました。
高橋は日銀と結託し、まず支払猶予(モラトリアム)を発令。さらには手続きに要する2日間を全国の銀行休業日としたのです。その間に、片面だけ印刷した200円札を急遽大量に発行して、これを銀行に積み上げることで預金があることをアピールさせました。それらの方策が実り、無事日本を金融不安から脱却させました。
大蔵大臣に7度就任
その後もさまざまな内閣で大蔵大臣を歴任した高橋是清。犬養毅内閣などでは、世界恐慌による混乱に対処しました。政府予算を大幅に増額させ、公共事業を大量に発注し、内需拡大を図ります。その結果、世界では早いほうの段階で、日本はデフレから脱出できました。
その後はインフレーション対策にも尽力した高橋。財政の信頼維持を目的として、予算の削減を実行しました。生涯で高橋は、総理との兼任も含めると、実に7度も大蔵大臣に就任したことになります。総理大臣経験者が何度も大臣として入閣するのも珍しいケースです。
二・二六事件の犠牲となった高橋是清

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大蔵大臣として数々の業績を挙げた高橋是清ですが、その最期は理不尽な形で訪れます。ここでは、彼が犠牲となった二・二六事件について見ていきましょう。
二・二六事件が起きた背景は?
当時の陸軍には、皇道派と呼ばれる青年将校の一派がありました。天皇の下で国家改造を目指すという思想に影響された者たちです。実際その時代には、クーデター未遂といえる事件が多発しました。海軍の青年将校らが暴走して犬養毅首相が犠牲となった五・一五事件や、陸軍の中堅幹部による三月事件と十月事件などがそれに当たります。
しかし、統制派と呼ばれる軍内部の規律を重視した一派にとって、彼らの存在は目障りでした。皇道派を危険視していたのです。そこで、統制派である軍の首脳は、皇道派の動きを封じるために満州へ派兵することを決めました。それを不服とし、皇道派の青年将校たちは二・二六事件という実力行使に出たのです。
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